シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 4

 寝返りを打ち過ぎて、肩が痛くなり始めていた。毛布の隙間から入り込んで来る空気のせいで体があたたまらず、余計に眠れず、ブランデーを少しだけと思うのを必死で頭から振り払って、それから3度目の寝返りの後に、ヤンはとうとうベッドから抜け出すことにした。
 毛布を巻きつけ、くしゃくしゃに乱れた髪は半ば自暴自棄で放ったまま、後はユリアンを起こさないように足音を消して、部屋を滑り出すだけだった。
 さて、今夜はどこに行こう。部屋を出てしまってから、どうせなら本でも持って来ればよかったのにと思いつく。読書を始めたらますます眠れなくなるけれど、ただぼんやりと、訪れてくれるかどうか分からない睡魔を待つよりはましだったかもと、毛布をさらに体に巻き付けながらヤンは思った。
 執務室へ行こうか。あそこならひとりになれるし、こんな時間になら誰も邪魔はしないだろう。とは言え、一応は仕事場のあの部屋に、こんな格好で行くのは少しだけ気が咎めた。
 どこでもいい、眠れるかもしれない場所へ。悪夢から、できるだけ遠ざかれる場所へ。
 考えながら、そんな場所はどこにもないのだと知っているヤンは、腫れぼったいまぶたでいかにも眠そうな瞬きをして、無人で無音の廊下を、室内履きの爪先だけ見ながら歩いている。
 下ばかり見ていたから、そこに誰かいると気づかずに、ちょうど曲がった通路の先で、ヤンは鼻先をその誰かに盛大にぶつける羽目になった。
 「す、すまない。」
 痛んだ鼻を押さえて2歩後ずさると、ぶつかった相手はむしろ胸を張るような姿勢で、
 「今夜はどちらにお出掛けですか、司令官閣下。」
 ヤンの、今はややかすれた声とは真逆の、爽やかに低い声。一瞬、今は昼間だったかとヤンは思った。
 「・・・シェーンコップ・・・。」
 今さら見られて困るこのだらしない姿ではないけれど、私服の時に会いたい相手ではない。ヤンは思わず唇の端を下げ、パジャマを隠すように胸の前で重ねた毛布の端を、さらに強く引き寄せる。
 「別に、行き先なんかないよ。」
 知ってるくせにと、つい唇と声が尖った。
 弱みをすでに知られている相手に、さらに弱った姿を見られたくないと思うのは、例の提案とやらについてひそかに考え続けているヤンの、最後の砦のような小さな矜持のせいだったけれど、いかにも健やかそうに微笑むこの男の、常に眠り足りた風の目の前の清々しさに、忌々しい思いが先に立って声がいっそう険しくなる。
 「夜勤ご苦労、でもわたしのことは放っておいてくれ、シェーンコップ准将。」
 ヤンの行く手を阻むようにそこに立ったままでいるシェーンコップへ、苦々しい気持ちを隠さすそう言っても、シェーンコップは馬耳東風にそれを受け流し、微笑みを一片も欠けさせずに、
 「特に行き先を決めない散歩なら、小官にお付き合い願えませんか閣下。」
 付き合わせてくれ、ではなく、自分に付き合えと言うこの部下は、退屈な夜勤の時間をただやり過ごしたいだけなのかもしれない。それなら、よりどりみどりと言う噂の女性たちを付き合わせればいいじゃないかと、寝不足で濁った頭で考えて、それ以上は頭が働かずに自分の行き先も特に思いつけず、ヤンは面倒くさくなって浅くうなずいた。
 もう痛みはない鼻をわざと撫でながら、体を回したシェーンコップの隣りへ並んで、続く通路を、曲がったことのない方へ幾度か方向を変えて、気がつくとローゼンリッターの隊員と2度すれ違い、彼らは主にはシェーンコップの方にだけ敬礼と視線を向け、パジャマ姿のヤンを礼儀正しく無視して通り過ぎる。
 「彼らも夜勤かい? 隊員に夜間巡回なんかあったっけ?」
 「本来ありませんが、自主的な任務と言っておきましょう。」
 「自主的?」
 「ここらは人気もカメラの数も少ないので、まあ、不審者が潜みにくいように、です。」
 なるほど、要塞の防御指揮官として、部下に新しい任務を与えたと言うことか。ヤンから出た命令ではない。シェーンコップが独断で彼らに課したものだろう。シェーンコップの言うことに、彼らが否があるはずもなかった。
 上官を通さないのはどういうことだと思ったけれど、しんと静まり帰った通路で口論を始める気もせず、行いとしては正しいと判断して、ヤンは今のところは黙っておくことにした。
 また曲がり角に来て、けれど曲がらずに、そこにひっそりとあるドアを、シェーンコップは淀みなく壁のパネルに番号を打ち込んで開ける。
 「ここですよ。」
 中の明かりを点けてから、シェーンコップはヤンを先に部屋の中へ招き入れた。
 「ここって・・・?」
 白い壁のせいかどうか、明るさの、通路や他の部屋よりはやや強い、小さな部屋だった。奥には仮眠用の簡素なベッドと、もっと手前には、部屋の素っ気なさには似つかわしくない、帝国風のどっしりとしたひとり用の椅子がある。椅子の傍には小さなテーブルが置かれて、そこには、これも装飾の豪華さの目立つランプが乗り、そして、連絡用の端末。
 「ローゼンリッター隊員用の、仮眠室のひとつです。ただし、ここをあてがわれた隊員は、入隊の一次試験に現れませんでね、今頃はハイネセンで一体何をしていることやら。」
 とぼけたようにシェーンコップが言う。
 「──隊員にならなかった者に、仮眠室があてがわれているのはどういうことかな。」
 「その辺は、私の職権濫用の結果です。さすが将官と言うのは、佐官よりもできることが増えますな。申請の書類はほとんどノーチェックで通りましたよ。」
 天井からの照明の眩しさをわずかに避けるように、シェーンコップは額の辺りへ掌をかざして、ヤンをいたずらっぽく見下ろした。ヤンはわざと眉をしかめて見せて、それは問題だなともごもご形だけ言う。
 「もし閣下がひとりになりたいとおっしゃるなら、この部屋は常に空いているということです。」
 必要ないと、即座に言うことが、ヤンにはできなかった。
 すでに、椅子に坐って本を開く自分の姿を思い描いて、ユリアンに紅茶が欲しいなと言うことはできない不便はあっても、ひとりになれる時間は十分過ぎるほど魅力的だった。
 ほんの1時間、いや30分でもいい。書類の山と、自分を常に追い掛けて来る部下たち──このシェーンコップも含めて──から逃れて、彼らを煙に巻いた快感の笑みを子どもっぽく浮かべる自分。
 わたしはどんどん駄目人間になるな。
 寝不足の頭に詰め込まれてゆく重い泥、それをかき出すためにひとりになりたかった。小さな、けれど明るい部屋。本を読むためだけの椅子、ヤンひとりきりのための、ささやかな空間。
 書き物の小さな机が欲しいなと、ぼんやり思って、もう自分はこの部屋にいるつもりなのだと素直に悟ると、ヤンはさらに素直に笑みを刷いて、そのままシェーンコップを見上げた。
 「貴官も、邪魔はしに来ないと、そう思っていいのかな。」
 そう言われて、シェーンコップが笑みを深くする。
 「端末と部屋のキーナンバーは控えさせていただきますが、閣下がお呼びにならない限りは、私も招かれざる客です。小官如きが、司令官閣下の秘密の部屋の存在を知るなど、そんなこと──」
 「ああ、分かった分かった。いいよ、そういうことにしよう。全部わたしの責任でいい。大丈夫だ。」
 ばれたらばれた時のことだと、投げやりにしては弾んだ声で、ヤンは言葉の続きを遮るように手を振りながら言う。
 それから、天井を見上げて、壁の白さへ目を当ててから、ヤンはわずかに声を低めた。
 「ここが明るいのは、君がそうしたのか、シェーンコップ准将。」
 瞳の色の薄さのせいで、これはほとんどヤン以外の誰にも突き刺すようにまぶしいはずだった。現にシェーンコップは額の辺りへ手をかざしたままでいる。
 ヤンにちょうどいい明るさは、例えばユリアンにはまぶし過ぎ、明かりで目が痛いと言うユリアンのために、同居が始まって以来ヤンは読書の時には余分のランプを使わなくなった。
 薄暗い、十分でない明るさの中でする読書は、それはそれで趣がないでもない。それでも、白いページにたっぷりと光を当てて、くっきりと浮かぶ黒い活字を読むと言う楽しみを手放した淋しさを、ヤンは完全に振り切ってもいなかった。
 「マシュンゴが、字を読むのに明るさが足りないと文句を言ってるのを小耳に挟みましてね。そう言えば、貴方の目も同じように黒い──人間、自分以外のことは分からんもんですな。この部屋の明るさを決めたのはあいつです。」
 背の高い、膚の黒さで目立つ青年のことを思い浮かべて、ヤンはもう、それ以上何を言っていいのか分からなかった。何から何まで、ヤンのために調えられた部屋。ただヤンが、本を抱えて閉じこもり、睡魔さえ訪れてくれるなら、眠るベッドもある、部屋。そのためだけの、小さな部屋。
 簡素な、殺風景な部屋だったけれど、ヤンにはひどく贅沢な場所に思えた。
 「わたしには、礼に足る言葉がない、シェーンコップ准将。」
 感に堪えないと言う風に、ほとんど吐息混じりに、ヤンがつぶやいた。
 「貴方が私を信用して下さった、それだけで十分です。礼を言うべきは私の方だ。野良犬同然のローゼンリッターが、やっとここに居場所を得た。貴方のおかげです、ヤン提督。」
 珍しく皮肉も毒舌もない、心を直に撫でるような、シェーンコップの声音だった。
 あたたかな心地にひたりそうになりながら、ヤンはふと、胸に隙間風の通るような淋しさを覚える。
 こんな風に、誰か──生殺与奪の権利を握る上官──の意を汲むような行動も、彼自身の気遣いや配慮と言うよりも、たった今シェーンコップがそう言った通り、野良犬扱いで居場所の与えられないローゼンリッターとしての、ただ生き延びるためだけの手段だったのだろうとヤンは思った。
 そうしなければ、呼吸をすることすら許されないような空気、その中で生きなくてはならない亡命者たちとその末裔たち。これを、真正直にシェーンコップの優しさと受け取るわけには行かず、これは大きな借りなのだと、自分の元へシェーンコップたちがとどまることを選んだことに対して改めて思う。
 その借りの大きさに一瞬怯んだ後で、腹に響くような開き直りがやって来た。部屋の奥のベッドで、体を丸めて眠る自分の姿を想像したせいかもしれなかった。ここでも眠れはしないだろうと言う極めて現実的な予感は、けれどヤンを落胆はさせずに、別の方向へ足を踏み出させる勢いを与えることになった。
 ヤンは、深く息を吸った。シェーンコップの方は見ずに、これも白っぽい床へ視線を据えて、
 「シェーンコップ、君の、例の提案は、まだ有効だろうか。」
 声の震えを止めようとしたのに、言葉の終わりは不自然にかすれて、棒でも飲んだように喉が緊張で痛みを訴える。
 虚をつかれたようにシェーンコップが肩をちょっと引き、傍らの壁にやや寄り掛かり気味だった背筋を伸ばして、たちまち厳しい表情を浮かべた。
 「あの提案は永遠に有効ですが──確認しておきますが提督、まさか礼とやらのつもりでは──」
 「わたしなんかが礼になるもんか。」
 シェーンコップが、形の良い眉を寄せて問い詰めに掛かるのを、ヤンが切って捨てる。
 「そうじゃない、君を使って眠れるものなら、もうそうしたいと思っただけだ。ろくでなしでも何でもいい、わたしはただ眠りたいだけなんだ。」
 声の根が不意に弱る。この男には弱みを見せても構わないと思うのはなぜなのだろう。
 「褒めてくれた後で失望させて悪いが、わたしは君の言う、心も痛めずに部下を利用するろくでなしになることに決めた。」
 言い切ってしまうと不意に気分が軽くなり、ヤンは唇の端に淡く微笑みさえ浮かべている。自分はきっと、随分前からとっくにろくでなしだったのだ、シェーンコップは単にそれに気づかせてくれただけに過ぎない、そう思いついて、奇妙に晴れ晴れとした気分を味わっていた。
 「ルドルフに比べると、随分と可愛らしいロクでなしですな。」
 眉の間を開き、苦笑と揶揄のこもった口調で、シェーンコップが言う。
 「せいぜい貴方が眠れるように、微力を尽くすことにしましょう。」
 「君には面白みのない任務だろうがね。」
 やや本音を含んでヤンが混ぜっ返す。
 「おや、任務とおっしゃるなら、正式の書面が必要ですが。」
 「──正式にすると、君への評価も書面で提出することになるよ。」
 束の間、シェーンコップは考え込むような表情を頬の辺りへ刷いて、口頭のみで結構と、作った声で言った。
 同意を示して互いに微笑み合った後で、ではここから去ろうと、シェーンコップはドアを開き明かりを消した。通路へ出掛けたシェーンコップの腕を引き、ヤンは、開いた扉の内側へとどまって、シェーンコップの肩へ向かって背伸びをする。
 もう少しだけ、と言った声がまた震えていた。
 思いがけず強い力で抱き返されて、肩からずれた毛布が足元に落ちてゆく。
 どちらのものか分からない心臓の音に耳を澄ませて、ローゼンリッターの誰かが見回りにやって来る足音を聞き咎めるまで、ふたりは黙ってそこで抱き合い続けていた。  

 戻る