ろくでなしのBlues 5
日付と時間、そして場所の示された、目立たない小さなメモ、数日前から上着のポケットに入れたままのその紙片を、ヤンは落ち着かない気持ちで指先に探り続けている。上官の、珍しい丸1日の休日を一体どこで聞き込んで来たものか──決して秘密ではないにせよ──、仕事が終わってからつい羽目を外して飲み過ぎて夜明かししてしまったと、そんな風にユリアンに言い訳する自分が、今から目に見えるようだった。
もっとも、ユリアンも忙しいのだし、ヤンの休みに合わせて休む余裕はなく、その用意するつもりの言い訳も必要はないだろうと思えた。
指定の場所はシェーンコップのフラットで、気兼ねのない場所と言うならこれ以上の場所はないにせよ、ヤンにとっては敵地に空手で──文字通りの意味で、空手で──乗り込んでゆく心地に、イゼルローン攻略実行前夜の方がよほど冷静だったと、ヤンはひとり髪をくしゃくしゃかき混ぜている。
誰が何を、あるいは誰が誰をどう攻略する話なんだ一体これは。
考えれば考えるほど混乱する。考える必要は、そもそもない話だった。それなのに、無駄に考え続けるのは明らかに現実逃避で、数日後には自分はあの男と寝ているのだと思うと、敵前逃亡と罵られても逃げ出したくなる。
いやなわけじゃない。ヤンは何度も考えたことを、また考える。決していやではない。いやなら自分から言い出すもんか。
よくある話だ。単なる不安。想像して、予想して、悪いことしか思いつかない。相手を失望させて、自分に対して絶望する、あまりにもありふれた思考の流れだ。
上官と寝ると言う面倒を、なぜわざわざ引き受ける気になったのか。計算だけで動く男ではない。その外に、理由があるのだとは分かる。けれどそれを、たとえば自分に対する好意──以上──と考えられるほど自惚れは強くなく、だったらなぜ、とまた同じところへ疑問が戻る。
そうして、それなら自分の方は、とヤンは考える。あの男と──シェーンコップと寝る気になったのはなぜか。少なくとも、寝る相手を粗雑に扱うと言う噂は聞いたことがないし、女の方からのシェーンコップに対する恨み言等も、ヤンの耳には入って来ない。それなら、自分のこともそれなりに扱ってくれるだろうと言う、やや楽観的過ぎる期待、そしてもうひとつ、ヤン自身、まだきちんと説明のできない、奇妙な、彼に対する安心感。
あの男が自分の傍にいると言う、地にきちんと足のついたような、精神的な安定感。それが一体何を根拠にしたものなのか、信頼と言うのは案外安易に生まれるものだと知っているヤンは、けれどそれにあぐらをかくことの軽率さを戒めるだけの経験は積んでいる。ほとんど初対面であの男に感じた、その場に全身を縫い付けられたような、あの感覚。それを信頼だの安心感だのと呼んでも、100%説明はし切れずに、突然、ほとんど無礼に近い態度で自分の中にずかずかと踏み込んで来たあの男を、そこから追い出す気もないのはなぜなのか。
自分にとって、役に立つ部下だからだ。
結局のところ、それに尽きる。今回のことも含めて、自分にとってあまりに利の大き過ぎる相手だからだ。そんな男を、手元に置いておきたいと思って何が悪いと、ヤンは自暴自棄に開き直った。
そうしてまた、自分をろくでなしと心の中で罵ってから、自己嫌悪に3拍分ほど陥った。
考えても仕方がない。なるようにしかならない。ただでさえ、あれこれ詰め込まれて飽和状態の頭の中に、これ以上答えのない問いを放り込んでも無駄でしかない。
答えは誰にも分からない。ヤンにも、シェーンコップにも。
思わず握り込みそうになった、ポケットの中の手を開いて、少しばかりしわの寄ったその紙をヤンはまたそっと触る。裏も表も上も下も分からないその紙片の、見えるはずもない彼の字を、指先がつい探っていた。
「仕事帰りのままですか。」
苦笑気味に、ヤンを玄関に迎えたシェーンコップが、彼を中に招きながら訊く。ああ、とベレー帽を手の中に握って、ヤンが少々強張った笑みで応える。
少しだけ、必要もない残業をして、約束の時間より15分ほどわざと遅れて、そのうち5分はこの近所で例のメモ片手にうろうろしていたとはもちろん伝えはしない。
せめて心優しい──棒読みだ──この部下への気遣いで、一度自室へ戻って着替えるくらいのことをすべきだと、思いつきもしないヤンの、いかにも落ち着かない風を予想はしていたけれど、これは思った以上だったと、居間の端に突っ立ったままでいるヤンの肩をやっと押して、シェーンコップはせめてソファに腰を下ろすように促した。
「ブランデーはありませんが、ウイスキーくらいなら──」
「いや、酒はいいよ。今夜は素面の方がいい。」
「それなら、私だけ失礼して。」
仕切りのない、続きのキッチンでヤンに背中を向け、シェーンコップは自分の分だけ酒をつぐ。
ヤンが今、灰色がかったベージュひと色の壁や天井をきょろきょろ見渡し、直線の目立つ、色合いは地味な最低限の家具を眺めて、意外な無個性のしつらえに少しばかり驚いているのがかすかな空気の揺れに伝わって来る。
寝るためだけに戻って来る場所に特に思い入れもなく、それなりに居心地さえ良ければ十分と考えるシェーンコップがこだわったのは、せいぜいヤンが今坐っているソファの寝心地だけで、まれにできる昼寝を存分に楽しむために、クッションも枕代わりに気に入ったものしか置いていない。
そこにヤンを坐らせた、いつもとはちょっと違う自分の部屋の眺めに、シェーンコップは、ヤンには見えないように目を細めた。
ここに、そのために女を連れて来たことはないのだと、告げたらヤンはどんな顔をするだろう。
誰かの中に踏み込むのは、自分も踏み込まれる覚悟のある時だけだ。この部屋は、ある意味ではシェーンコップ自身の内側のように、固く鎧っているとは思ってはいなくても、そう容易に誰も近寄せはしない、分かりやすく言えばシェーンコップの城のような場所で、家としての機能に拘泥はしなくても、自分が必ず帰って来る場所として、誰かに一方的に踏み荒らされることを許す気はなかった。
どこか不安気にここに入って来て、いかにも居心地悪そうにしているヤンに対して、意地の悪い気分を味わいながら、今夜は毒舌はやめておけと、シェーンコップはつい笑い出したくなるのをこらえて、
「シャワーを、浴びますか。」
今夜の招待主らしく、ただ気遣いの声を作る。
うん、と拾われて来た迷い犬のような風情で、ヤンがぼんやり立ち上がる。
こっちだと示すのに、シェーンコップはもう遠慮もなくヤンの肩へ手を掛けた。体の触れ合う距離に踏み込むのに躊躇はなく、ヤンももう、それから逃げることもしない。
自分の寝室は素通りし、客用の、酔い潰れた部下を1、2度放り込んだことのある方の部屋から続くシャワーだけの浴室の前へヤンを誘導して、明かりをつけてバスローブとタオルの位置を見せると、シェーンコップはグラスを持っていない方の手をひらひらと振って見せた。
「では、後で。ごゆっくり。」
ゲストルームへいると指先で示してから、シェーンコップはさっさとヤンに背を向ける。
「シェーンコップ。」
バスルームのドアの前で、ヤンがシェーンコップを呼び止めた。何ですかと振り向くと、
「ひと口だけ、いいかい。」
手にしていたグラスを指差して、ヤンが低い声で訊く。
「ひと口でいいんですか。」
「いいよ、今夜は、酒を言い訳にしたくないんだ。」
「律儀ですね、貴方も。」
「ろくでなしなりの礼儀だよ。」
差し出されたグラスを受け取りながら、シェーンコップの指先に触れたのは故意だった。
「大事な部下を食いものにするのに、礼儀なんて体のいい言い訳だがね──。」
ヤンの声の終わりが、止め切れずに弱気に沈んだ。
長い1日の終わりに、襟元のスカーフは少しゆるみ、服装全体がどこかくたびれて見えて、ヤンの目元にも明らかに疲れが見えた。それが仕事の量のせいか、不眠のせいか、あるいはもっと別に理由があるのか、シェーンコップにははっきりとは判らず、必要なのはふたりが寝ることではなく、ヤンに睡眠薬でも飲ませてベッドに放り込むことかもしれないとふと思う。
ひと口を、ゆっくりと味わっているヤンの手からグラスを取り上げ、シェーンコップは再び1歩ヤンへ近づいた。
「ここは私の自宅で、私は軍服も着てない。貴方はこれからそれを脱ぐのだし、裸になれば我々は単なる私人です。」
袖も襟元もボタンを掛けずにだらしなく着たシャツにコットンのパンツと言う、くつろぎ切った自分の姿を見せつけるようにわずかに胸を張ってから、シェーンコップはヤンの胸元を指先でつついた。
「自分を重用してくれる上官を、食い物にする不届きな部下かもしれませんよ、私は。ヤン・ウェンリー司令官閣下。」
「軍服を脱いだら私人だとたった今言ったのは君だ、シェーンコップ准将。」
「その通りです。詭弁を弄するロクでなしは貴方だけじゃあないってことです。」
引っ込めているつもりだったいつもの調子が、アルコールの滑りを借りてつい顔を出す。
「観念なさい、貴方は自分だけが悪いことにしたいようだが、我々は共犯だ。そうでしょう、ヤン提督。」
この男は、こんな声で女を口説くのかと、ヤンは思った。こんな声でこんな風に追い詰めるように言われて、逃げられるのは石か木だけだ。
ヤンは木でも石でもなかった。今ほどそれを思い知ったことはなかった。
酒のせいではない頬の赤みにヤン自身は気づかず、シェーンコップがそれを見て微笑んで、弾みをつけてヤンの額へ唇を押し当てた。
派手な音を立てたその不意の接吻が、ふたりの間の重くなった空気を壊し、ヤンはぐるりと黒い瞳を上へ押し上げながらシェーンコップを押し返して、
「シャワーを浴びるよ。」
シェーンコップを真似て、ひらひらと手を振りながらバスルームへ消える。
「ごゆっくり。」
皮肉っぽく言う声は、閉まるドアに遮られた。
髪が濡れると、ヤンはいっそう少年めく。シェーンコップのサイズのローブは少し大き過ぎて、それを脱がせるのに、シェーンコップは犯罪者の気分を味わうことになった。
言葉を選べば恐らく華奢と言う言い方になり、極めて率直に言えば貧相な、軍人とは思えない肉の薄い体つきを抱いて、顔を埋めた首筋からは水の匂いしかしない。
驚いたのは素肌の手触りで、下衆な物言いで語られる、ヤンのような人間たち──男女関わらず──の肌のなめらかさは決して嘘でも誇張でもなかったのだと知って、シェーンコップは思わず性急になる掌の動きを、慌てて止める。自分の手指が、ヤンの皮膚を傷つけそうに思えた。
しばらく立って抱き合ったまま、まだベッドへは行かずに、額と前髪と鼻先をこすりつけて、口づけが続く。食い縛ったヤンの歯列を開かせるのに時間を掛け、やっと舌が絡んだ頃にはヤンの足が震えていた。
腿の裏側を撫で上げただけで全身を強張らせて、肺ごと吐き出しそうな深い息が続く。
稚ないのは見掛けだけで、皮膚の下は間違いなく大人の男だ。長い間放っておかれて音の狂ったピアノのように、ヤンの応え方は調子っ外れだったけれど、シェーンコップの腕の中で次第に躯がやわらぎ、筋肉の緊張がほどけてゆくのが分かる。
生まれたてのけものの仔でも抱いているような気分で、シェーンコップはやっとヤンをベッドへ倒して、そこからヤンを眺め下ろした。
いつもよりずっと乱れた髪と、血の色の上がった全身と、剥き出しの体をシェーンコップの視線から隠そうとわずかにひねった筋肉と骨の陰影と、何より、いつもとは違う色で紗の掛かったような、潤んだ瞳と、こうして見るヤンは、シェーンコップの知っているヤンとはまるで別人だった。
余裕たっぷりで振る舞う予定が、端の方から崩れてゆく音が聞こえる。ヤンの膚に直に触れた時に、それはすでに崩れ始めていたのだけれど、その時はまだ気づかない振りができた。
第13艦隊司令官でもなく、上官でもなく、軍人でもなく、裸になってただの人として目の前に横たわるヤン・ウェンリーは、今シェーンコップの視線をとらえて離さず、数瞬、呼吸さえ忘れさせた。
眺めて、文句なく美しい人間と言うのは確かにいる。造作にせよまとう空気にせよ、魅きつけられて離れがたい、そんな揺さぶられるような心地はシェーンコップにも覚えがある。
ヤンは違う。何と説明はできない。けれど違う。美しいと言う言葉は彼には相応しくはなかった──ただの客観的事実だ──し、皮膚の上に現れた見た目の話ではなく、突然頭から全身を飲み込まれたような、その巨大な胃の中で溶けて行くのが心地好いような、臓腑すべてを丸ごとつかみ取られて、死んでゆく時に苦痛を忘れさせる脳内物質が出て多幸感に包まれると言う、そんなものに似ている、何か。
このヤンを、シェーンコップは永遠に眺めていたいと思った。
体の外と内側に、同時に油を注がれて、火を着けられたように思った。
その火をヤンにも移そうと、できるだけゆっくりと、暴走しそうになる自分を押しとどめながら、シェーンコップはヤンの上へ躯を伏せて行った。
唇の間で舌と呼吸が行き交い、その応酬が長々と続く。届く範囲すべてに掌を伸ばして、シェーンコップはヤンの膚に隈なく触れた。
今では唇が柔らかく開き、シェーンコップの手指に馴染んで、いちいちくすぐったそうに体をよじることもなく、筋肉の弛緩がはっきりと分かるようになった頃、シェーンコップはヤンの脚を開かせようと膝へ手を掛け、腿の内側を撫で上げた。
シェーンコップの浮いた体から、ヤンの、背中に掛かっていた腕が滑り落ちる。落ちてそれきり、動かない。閉じたまぶたの、思ったよりも長いまつ毛が、間遠に揺れているのが見えた。
「──提督?」
薄い腹がゆっくりと上下している。手足は投げ出され、遠ざかったシェーンコップを抱き寄せようと動く様子はない。
「閣下──?」
口元へ、そっと掌をかざす。ゆるく当たる呼吸は、明らかに寝息だった。
シェーンコップはやや呆然と、ヤンの寝顔を見つめた。
眠ると、入隊したての新兵よりも子どもっぽくなる。この眠りを破ると言う選択などなく、シェーンコップは驚きの後に素早くやって来た苦笑と一緒に頭を振って、ヤンの傍らへ体を起こして坐り込んだ。
眠りたいと言う、ヤンの希望はかなえられたのだから、シェーンコップは立派に役目を果たしたことになる。
口元に浮かんだままの苦笑が消せない。腹の底から湧いて来る笑いを何とか噛み殺し、
「貴方は稀代のロクでなしだ、ヤン提督。」
自分でも驚くほど優しい、甘い声で、シェーンコップはヤンの耳元にささやいていた。
掛かる呼吸をくすぐったがって、ヤンが顔を振り向こうへ寝返りを打つ。シェーンコップはその、骨張った肩と背中を丁寧に毛布で覆うと、ベッドを揺らさないように静かに床に降りた。
床に脱ぎ捨てた下着と服を拾い、音を立てずに身に着けながら部屋を出る。今夜は、眠る場所を求めてさまようのはシェーンコップの方だった。
ヤンがもし1、2時間で目を覚ますなら、もう一度改めてと言う時間はないでもなかった。それをかすかに期待しながら、シェーンコップは居間のソファに、本を手にして横たわる。
オレンジがかった明かりで滲むように目に映る活字を、意味を拾わずにただ追う紙面に、ぼんやりとさっきのヤンの姿が浮かんで来る。自分の下でねじれていた体の線に読書はしばしば中断され、シェーンコップはじきに諦めて本を胸に抱え込み、闇の中に思い浮かべるヤンをただじっと眺め続けた。
夢に忍び込んで来たヤンが、湿った腕をシェーンコップの首に回し、同じほど湿った声でシェーンコップの名を呼ぶ。それに応えた、提督、と言うシェーンコップの寝言を聞いたのは、点けっ放しのランプだけだった。