ろくでなしのBlues 6
突然、すっぱりと目が覚めた。眠りから覚醒まで、1/4秒もなかった。目を開けても暗く、物の形が見えるようになるまで、ヤンは頭を枕から上げずに同じ姿勢のまま、瞳だけを動かして辺りを見回した。
自分のベッドではない。自分の部屋でもない。ここはどこだったかと、目覚めてもまだ100%ではない頭の中で考えて、それからやっと、ベッドを揺らさないようにそっと体を起こすことを思いつく。
けれど、気遣うべき相手の姿はどこにもない。広いベッドにひとりきり、ヤンが乱した以外は特にひどい寝乱れようもない自分の隣りのスペースを見て、そこでやっと記憶を反芻する気になった。
頭の中だけではなく、体も明らかに軽い。頭蓋骨の中に、耳から今にもあふれそうに詰まっていた泥が消え失せて、背骨を中心に、全身が透明になったような気すらする。
こんなに寝足りて、爽やかに目覚めたのは一体いつ振りだろう。何時間寝たのかと、時計を探すけれど見当たらない。そもそも、眠りに落ちたのは一体いつだったのか。
シェーンコップがその時までいたのは、確かなように思えた。ヤンの寝相の悪さに辟易してベッドを出て行ったのか、それとも誰かがいては眠れない性質(たち)か、どちらも正解ではないような気がして、ヤンは必死で何があったのか思い出そうとする。
探られた唇、触れ合った舌先が、かき回すのは喉の奥だけではないと初めて知った。あの時にはもう背骨の始まり、脳へ繋がるもっと奥の方が痺れて、まともに考えられもしなかった。
他人の体温、体の重さ、自分の腰や胸に回る腕の、締め付ける輪の中で、自分の皮膚が波打ったシーツに同化したような気がしていた。
体温よりわずかに温度の高い湯の中にひたっているような、そこで溺れもせず、全身をただ委ねて、重くなるまぶたをもうとどめておくこともできなかった。
耳に掛かる熱い息。自分を呼んだと思ったのは、あれはシェーンコップの声だったのだろうか。自分がそれに応えたのかどうか、ヤンは憶えていなかった。
弛緩する手足。何もかも投げ出して、不安は一片もなく、自分に掛かる他人の体の重さは、こんなにも心地好いものだったかと、自分よりも体温の高い、あたたかな体を抱きしめていたことだけは覚えている。
思い出せるのはそこまでだった。ヤンは毛布を持ち上げ、自分の裸の手足を確かめ、それを引き寄せてもどこにも違和感のないことを確認してから、ヤンは自分の髪の中に、考え込む時はいつもそうするように指先を突っ込む。
寝たのだ。自分は確かに眠ったのだ。ひとりで。恐らく、シェーンコップを放って。途中で寝入ってしまった自分をわざわざ起こして、あるいは起こしはせずにそのまま、事を続けるような無神経な男ではないはずだった。大体、続いていたならさすがに目を覚ますだろうと、自信なく考える。
無神経なのはどっちだと、自分を内心で罵って、ヤンはこれからどうするかと素早く頭を巡らせた。
シェーンコップは今どこだ。自分の部屋か。呆れてひとりで眠ることにした──あるいは、自分を気遣ってと、ヤンは悪あがきのように考える──のか、それとももう二度と顔も見たくない程度に腹を立てたか、自分の身に置き換えて考えれば、その場で叩き起こされて追い出されてそれきりでもおかしくはない。
考えれば考えるほど、自分の失態に冷汗すら乾き切って、うろたえてヤンは体に毛布を巻きつけたまま、それを引きずってベッドを出た。
ドアまで進む途中で、シェーンコップに脱がされたバスローブを踏みつけ、そこまではそれなりに順調だったのだと、こんな結果など予想もしていなかった、数時間前までの自分を思い出して、ますます暗澹たる心持ちになる。
ドアを開けると、部屋の外がかすかに明るい。左側はさっき使ったバスルーム、右側はドアの閉じられたままのシェーンコップの寝室、真っ直ぐ見れば居間が見える。かすかに明るいのはそちらの方だ。
他人の家を、さすがに裸で歩き回る気になれず、ヤンはバスルームへ向かい、中に残して来た服をとりあえず身に着けるために、ドアの前に毛布を置き去りにした。
きちんと乾かさずに寝てしまった髪が、いつも以上にまとまらずに、それでも寝足りた後の目元から薄暗い隈が消え、自分でも目の色が澄んでいるのが鏡の中に見て取れる。
目的を達したことを、一緒にハレルヤと喝采してくれる程度に、シェーンコップの忍耐の度と懐ろが深いことを、ヤンは、清々しい表情を隠し切れない自分に向かって虚しく祈る。それとも、数多の女性と寝て来た男にとっては、このつまらない任務が途中で切り上げられて運が良かったくらいに思っているだろうか。
優秀な部下は、その面白みのない任務にも決して手を抜かなかったようだ。ヤンは、ベレー帽を頭に乗せた後で、寝足りただけではない自分の目の潤みにも気づいていた。指先で唇に触れて、任務にしては情熱的過ぎはしなかったかと、その唇を割って来たシェーンコップの舌先の熱さを思い出して、ひとりで頬を赤らめた。
腕時計は、そろそろ4時を過ぎようとしているところだ。少なくとも4、5時間はたっぷり眠ったことになる。悪夢はなく、見た夢の記憶すらなく、今夜の眠りは一度も中断されなかった。
そうして、この目覚めた後の爽やかさと体の軽さはどうだと、幼い頃に、休日の朝に大人たちを散々うるさがらせた体中にあふれる活力が、今指の先まで感じられるようで、今なら帝国領土まで行って、ローエングラム公を拉致して戻って来るくらいのことはできそうだと、いつもの調子で考える。
事の深刻さは、結局のところその程度しか自分の中には食い込んでは来ないのだと、思って途端に眉の端が下がった。情けない表情が鏡の中に映り、
「・・・ごめん、シェーンコップ。」
ヤンはバスルームを出た。
毛布を拾い上げ、ベッドにきちんと戻そうと思ってから、明かりの灯ったソファに人影があるのに初めて気づく。
目を凝らさなくても、シェーンコップに違いなかった。
たたみ掛けた毛布を腕からぶら下げて、ヤンは素早く、けれど足音を立てずにそちらへ向かう。
ソファに長々と体を伸ばし、シェーンコップが眠っていた。服はきちんと身に着けて、まるで何もなかったかのように、胸に置いた本にはページの途中に指を挟んでいる。軽く横向きになった貌(かお)の線は、眠っていると彫刻のように完璧な線を描いて、ヤンは思わずそれに数秒見惚れた。
夢すら見なかったと思ったのは、今自分が夢の中にいるせいかもしれないと思う。自分はまだ眠っていて、これは今自分が見ている夢なのだと、思うのが現実逃避なのか、あるいはシェーンコップの、こんな風にまじまじと見つめれば端正としか言いようのないそのあらゆる線が、自分に触れ、自分も確かに触れたのだと、信じられないせいなのか。
ヤンは、手にしていた毛布をそっとシェーンコップの足へ掛け、腹の辺りまで覆った。それから、その手からできるだけ静かに本を取り上げ、ページに何か挟もうと、そこにある背の低いテーブルの上を見やる。
栞代わりになりそうなものは見当たらず、仕方なくヤンは、紙ナプキンでもと、本を手にしたまま続きのキッチンへ入り込んだ。
きちんと整頓されたキッチンの、その手の小物が置いてありそうな辺りに見当をつけて、音を立てないように、そしてあまり物に無遠慮にべたべた触らないようにしながら、何かないかと探して、カウンターの隅に本よりひと回り大きな箱に目を止め、ぼんやりと明かりの届くキッチンの中で、その中身に目を凝らした。
ちょっと凝った木箱を模した箱は、中が細かく区切られて、そのひとつびとつに何か四角いものがぴったりと収められ、カードか何かに見えたそれらがティーバッグだと気づいて、ヤンは思わず手を伸ばす。
区切りずつ、包装の色が違う。香りや葉の種類で美しく分けられているそれに、ヤンはわずかの間、事の次第を忘れて見入った。ユリアンの淹れてくれるのが一番だと分かってはいても、紅茶となると少々自制を忘れてしまう。
もしかしてこれは、シェーンコップが自分のためにわざわざ用意したものだろうかとふと思った。思わず手に取った赤いそれには、ローズと白字で書いてあり、ただの偶然だったけれど、ヤンは考える前に、眠っているシェーンコップへ向かって振り返らずにはいられなかった。
ふた拍考えた後、そのティーバッグを上着のポケットへ入れ、それからもうひとつ、ダージリンと書かれた黒い包みを選んで取り、それを本の間に、挟んでいるのが見えるように差し入れた。
また、足音と気配を精一杯消してソファの傍へ戻り、テーブルの上へ本を置いておく。それから、毛布をきちんとシェーンコップの胸元まで掛け直した。
上からふたつは外したままのシャツのボタンを見て、それを外すのに手を貸したことを思い出す。そこへ手を伸ばし掛けて、触れたいのがボタンなのかシェーンコップの首筋なのか迷って、代わりに、決して起こさないようにそっと、唇へ指先を当てた。
「ごめん、シェーンコップ。」
お休みと、さらに低めた声で付け加えてから、ヤンはここから去るために肩を回した。
夜明けにはまだ少し時間がある。いつもなら、やっと眠りに落ちる頃だ。体の軽さとは裏腹に、肩を落とした足取りは引きずるように重く、シェーンコップの唇に触れた同じ指先で、ポケットの中のティーバッグを探り続けている。
紙製の、けれど突き刺せばきちんと痛いその角へ、ヤンは指の腹を何度も何度も押し当てていた。