ろくでなしのBlues 7
戦車に、頭を轢き潰される夢で目が覚めた。冷や汗で額や首筋が寒い。ヤンは毛布を頭までかぶり、髪が生地にすれるのに、ああ自分の頭はちゃんと無事にあると思った。キャタピラに巻き込まれる髪、頭皮が引き千切られるのと頭蓋骨が圧し潰されるのが、ほぼ同時だった。キャタピラの残す泥の上の凹凸に、流れ出た脳髄が染み込んで、その上を血が覆ってゆく。役に立たない首から下は無事だった。投げ出された手足はぴくりとも動かず、虚ろな眼窩に何か映っていたけれど、何だったか覚えてはいない。
今夜は2度目の、死ぬ夢だ。目覚ましが鳴るまで、もう1度、同じような夢を見るだろうか。
そろそろ夜明けだ。眠ろうと必死になって、恐らく再びうつらうつら、うたた寝の直前の辺りをさまよって、次はどんな風に死ぬのだろう、殺されるのだろう。
いつも誰かに追われている。捕まれば、拷問の挙句に死ぬのだと分かっている。指先からゆっくりと身を削がれてゆく夢。素手の両手で、首を圧し潰される夢。拳か、あるいは石で殴り殺される夢。
死ぬことそれ自体に恐怖はない。ただ、死ぬまでの苦痛がいやなだけだ。自分を殺そうとする誰かの、恐ろしいほど空虚な、ただ黒い穴のような目。覗き込んでも何も映らず、死のうとしている自分の顔だけがそこにあり、自分もその目と同じような、虚(うろ)の目をして、ああ死ぬのだ、自分は今死のうとしているのだと、延々と思い続けるその虚ろさが、ヤンは身震いするほどいやだった。
彼ら、誰とも分からない、見知らぬ顔の彼らは、時間を掛けてヤンを殺す。武器でも使えば手っ取り早いだろうにと思うのに、恐らくあれは、苦痛の果ての死であって、死そのものが目当てではないのだろう。
全員が死ぬが、もしおまえがここで殺されるなら他の連中は見逃してやっても良い、そう言われて、正義感やそんな類いの気持ちではなく、単に被害は少ない方がいいに決まっていると、そう思って、ではわたしが死のうと、答えた結果のこともあった。
自分に向かって放たれる炎を避けもせずに受け止めながら、やはり死ぬことそれ自体よりも、焼かれる苦しさの方へ、諦めの気持ちを抱いたことを覚えている。
足を縛られ、延々と引きずられる。皮膚が破れ、裂け、背面を削り取られて、引きずられる後に細い血の道ができる。誰かがその上を歩き、血の足跡を残してゆく。
吐き気を催す苦痛。吐瀉物に喉を塞がれて、息ができないと、目覚めて空へ腕を伸ばしていることもあった。
眠りはもう安らぎではなく、それでも眠らなければ疲弊した神経に殺されることになる。眠りたい。夢など見ずに、ただ泥のように眠りたい。
この間、そうやって眠ったように。
ヤンは、自分のベッドの中でまた寝返りを打ち、誰もいるはずのない自分の傍らへ、闇の中で目を凝らした。
空白の眠り。安らかと言う自覚すらない、ただの眠り。単純な、昼間の疲れを取るための、ただの睡眠。眠れると言うのは特権なのだと、こうなってみるまで思いもしなかった。
眠ることを恐れる必要もなく、脳を休めるためにベッドに入れること、眠れる人々は特に喜びもせず、夜、あるいは昼間に、眠りを貪る。悪夢のない眠りを眠る。
ヤンは再び、自分の隣りに向かって目を細めた。
他人の体温。体の重み。背中へ回る腕の輪。唇へ注がれる熱。頭の中が空っぽになる。常に働き続けている脳が動きを止めて、素直に思考を放り出す。考えるのではなく、ただ感じて、ぬくもりの中に漂い出す。それが許された時間だった。
あの眠りが恋しい。眠ろうと努力した覚えもなく、気がついたら意識を手放して、ひとりで眠っていた。目覚めたらひとりだった。眠りに落ちた記憶もなく、夢の記憶は一片もなく、何にも邪魔されなかったあの眠り。
もう一度、と思った。今度は命令だと言おうか。もう潔く、職権濫用のろくでなしとさらに開き直って、逆らうことも拒むことも受け入れずに、頼むともお願いだからとも前置きせずに、そもそも命令すればいいと先に言ったのはあの男ではなかったか。
自分をろくでなしと受け入れると、考え方が際限なくろくでもなくなる。ここまで人を踏みつけにして、責任は相手の肩に負わせるつもりか。共犯だとも言ったのも向こうだと、続けて心の中でつぶやいていた。
ろくでなしを受け入れて、自分の駄目さ加減がとめどなく露呈してゆく。そしてずるずると自己嫌悪の坂を滑り降りながら、自己憐憫とは、己れを甘やかす口実でしかないのだと思い知る。不眠で穴だらけになった脳が、首の下同様役立たずになるのはそれほど遠い未来のことではないような気がした。
わたしを、止めてくれないか、シェーンコップ。
転がり落ちる坂の途中で、どこかで。
ヤンは起き出し、ベッドの端に腰掛けた。項垂れ、顔を両手で覆い、部屋の中の闇よりもさらにひと色濃くなるその闇の中で目を閉じ、すでに数日、顔を合わせたくなくて避け続けている男の面影を手繰り寄せていた。
触れていた裸の首筋。引き寄せた肩。下からそうして見上げる眺めには覚えがなく、こんな線を描くのかと、耳朶からあごへ繋がる辺りを視線でなぞった。長いととうに知っていたまつげは、重たげに見えるほど濃く、瞳の色が隠れるといっそう彫像めいて見えた。あの瞳の、眼球の丸み。指先が覚えている、眉や頬の骨の硬さ。裏腹な、唇の柔らかさ。
息が熱かった。自分の方が熱いのだと思って、彼の息も同じほど熱いと、自分の首筋に掛かるそれで知った。
脳のどこかが、ちりちりと痛み出す。微熱で不快に疼くのを、さらに首を前に折ってうめきながら、ヤンは、まるでシェーンコップが鎮痛剤か何かのように、喉の奥で彼の名を小さくつぶやいていた。
後50年、運良く生き延びられたら、1万8千と少し、その夜に3度、殺される悪夢を見るとしたら、5万と少し、ヤンが贖える架空の命の数は、ヤンがその原因となった死の数の、一体何万分の一か。
毎夜殺されても殺されても、自分が関わった死の数には到底及ばず、ヤンが生きる限り死に続ける夜毎の悪夢など、結局のところ物の数ではない。
死んでも死んでも足りない。そしてヤンは、夢の中で死に続けながら、現実で人を殺し続けている。
虐殺者であると言う事実。それは汚名ではない。ヤンが背負った現実だ。
忘れるわけには行かない。忘れられるはずもない。それでもせめて、夢を見ずに眠る夜を許してはもらえないだろうか。
せめてもう1回くらい。
あるいはタンクベッドに入って、増幅された悪夢まみれの、人工的な眠りに自分を叩き込んで、目が覚めた後ももう目覚めているのだとしばらく気づけないほどの苦痛を一度に浴びて、脳も全身も疲労困憊の極みに達すれば、もう絶望すら感じないほど麻痺できるだろうか。
現実の死は一度きりだ。それでは足りない。毎夜かりそめに死んでも足りない。何もかも足りない。
そうして、ヤンが死ねば、戦死者の数はもっと増えるだろうと言う予想──実際にそうなることは間違いない──の皮肉。
自分の脳が役に立つ唯一の場で、朦朧としながらもこの脳を働かせ続けるしかない。作戦を組み立て続ける機械。できるだけ死なせないために、目覚めている時間にはせめて、最大限に機能させ続けるしかない。
死なせないために殺し続け、そして自分は夢の中で死に続けるしかない。贖いにすらならない、無意味な苦痛を味わい続けるしかない。
後頭部が、本格的に痛み始めていた。ぐるりと頭を締めつける痛みに、ヤンは掌の奥でぎゅっと目を閉じ、さらに痛むのを承知で、眼球を指先で押した。
眼球の裏側の闇。眠りを引き寄せてくれるかもしれない闇は、けれどヤンにとってはただの闇でしかなく、そのさらに奥にある脳は苦痛に悲鳴を上げ続けている。
頭痛のせいで、目が奥から潤んで来る。平たい金属片に、眼球をえぐり出される痛み。幻の金属片の形が、眼球にはっきりと映る。首を切り落とし、自分の頭だけを宇宙にでも放り出して、この痛みを終わらせたいと思った。瞬きで眼球が動くと、まぶたの裏でこすり上げられるような痛みが加わって、紙のように薄い硝子細工になった自分の頭を抱え込み、ヤンはまたひとり膝の間でうめいた。
装甲のように強張った首筋を、ふっと撫でてゆく掌を感じた。痛みから逃れるために脳が見せた幻覚に違いなかったけれど、ヤンは必死で閉じたまぶたの裏に、その手の指の爪の形まではっきりと思い浮かべることができた。
厚い掌。節の高い、長い指。爪はきれいに刈り込まれ、指の腹は決して押し付けられることはなく、ただ滑るように触れてゆく。
シェーンコップと呼び掛けようとしたけれど、板のように固くなった舌は今はうまく動かない。
首に当たる指先が、ごく自然に戦斧の刃に入れ替わり、その冷たい鋭い感触に、ヤンはふと安堵を覚えた。
人殺しの技術。洗練され尽くしたそれは、生を一瞬で終わらせる。苦しめずに殺すために振るわれる戦斧。閃くその間に、心臓と脳が停止する。
彼は人を殺す。優しさと思いやりをこめて。苦痛を長引かせずに、瞬きの間にそれを終わらせる。
人道主義の極みだと、ヤンは本気で思った。
やっと顔から掌を離し、できるだけそっと枕に頭を置いて、毛布をかぶって体を丸める。頭蓋骨の中を戦車が走り回って脳を轢き潰す痛みにうめくヤンの声はベッドの中に吸い取られ、ろくでなしには相応しい罰だとぼんやり考えながら、まれに苦痛の薄まる瞬間に、彼の掌の幻を必死で自分の皮膚の上に手繰り寄せた。
髪の中に差し込まれ、頭を撫でる指先のぬくもりの幻を、脳の残骸がほんものと信じ込み掛ける頃、シェーンコップときちんと話をしようと、ヤンはやっと決心していた。