ろくでなしのBlues 8
話があると書いて、いちばん下には自分の名前を、楊文里と記した。アルファベットを使わずに、シェーンコップがその字を見覚えているかどうか分からなかったけれど、自分だと分かって欲しいような欲しくないような、どちらとも見極めのつかないそのメモを、ヤンはこっそりシェーンコップの執務室に届けさせた。態度に似合わず律儀な彼の男は、メモで指定されていた時間きっちりに、定規で引いたような敬礼をして現れ、ヤンは思わず気まずさに、挨拶も返さずにベレー帽を手に取り、それをくしゃくしゃにした。
それから立ち上がって机の前へゆくと、後ろ向きに腰から乗り上げ、ついでに足も全部引き上げて、行儀悪くそこにあぐらをかいた。
シェーンコップはヤンのぞんざいな態度に眉ひとつ動かさず、直立不動のまま、ヤンではなく天井近くのどこかを見ている。
ヤンは、口火を切るために言葉を探して、もごもご口の中で何となく音は出しても話を始めることができず、結局最初にひと言発したのはシェーンコップの方だった。
「顔色が悪いですな。」
「──相変わらず、眠れなくてね。」
助け舟に乗って、けれど数拍の間。
シェーンコップの唇の端が、可笑しそうにわずかに上がる。
「あの日は、よくお休みのようでしたが・・・。」
言い終わる辺りに微妙なニュアンスをこめて、ヤンは正確にそれを聞き取り頬を赤くする。うつむいて上目にシェーンコップをにらもうとするけれど、目に力は入らない。
正直にため息を吐いて、ヤンは頭をかいた。
「あんなに眠れたのは、数年振りだったよ。」
「それはそれは。小官が微力ながら、お役に立てて何よりでした。」
微力、と言うところに、かすかに力が入った。言葉だけで、ヤンのすでに落ちた肩に圧力が掛かる。
再び沈黙。
またシェーンコップが先に何か言うだろうと、ヤンは待った。自分で乱した前髪越しに、ちらちらシェーンコップを見るけれど、シェーンコップはヤンとは視線を合わせず、知らん振りをしている。
話があると呼び出した方が、話もできずにいつまでも黙っているわけには行かない。
「で──。」
「──で?」
ヤンのもたついた語尾を、シェーンコップが意地悪くすくい取る。ヤンをからかっているのだ。それなら少なくとも、ひどく腹を立てていると言うことではないと悟って、それでも安心するより先に、からかわれた通りに唇を軽く突き出し、不機嫌が頬の辺りに走る。
ヤンはやっと顔を上げ、けれど真正面からシェーンコップを見ることはできず、あごの先を肩へ近寄せて、シェーンコップへ向かった視線を斜めに傾けた。
不明瞭に、唇が動く。
「・・・眠りたい。またあんな風に、ぐっすり寝たい。だから、君と、寝たい。」
ひと言ひと言の間に、戸惑いが差し挟まれ、だからこそ決意は固く口にしたのだと分かる。シェーンコップは揶揄の笑みを消して、自分を見ないヤンへ見えないように、ひと呼吸の間真顔になった。
「他に、適任者が見つかりませんでしたか。」
あれきり何も言って来なかったヤンへ、少しだけ恨み言がこもる。
実際に他の当てを探したかどうかはともかくも、あれはあの時きりになったのだろうと、それがヤンの胸中だろうと思っていた。そう信じたくはなくても、現実にヤンはあからさまに自分を避け、深夜の徘徊もなく、あの秘密の部屋を使った様子もなかった。はっきりさせるのが怖くて、自分もヤンへ直談判へ乗り込みに来れなかったと言うのが、事実の一部なのだとしても。
誰かに、心当たりがあったわけではない。それでものっぺらぼうの誰か、自分ではない別の誰かが、ヤンを抱いているかもと言う想像は、予期した以上に痛みを伴った。
抱き人形なら誰でもいい。特定の誰かにこだわる必要はない。体温があり、抱いてあたたかければそれでいい。ヤンがそう気づいて、ろくでなしに落ちたならさらに落ちたところで今さら大した違いもないと、シェーンコップを誘った時のように再び開き直ったのだと思っても、そもそもの最初に、弱ったヤンにつけ込んだのは自分の方だと、シェーンコップ自身に自覚がある。
砂漠をさまよう人間に、少量の水をわざわざ見せびらかすような、そんな真似をしたのは自分の方だ。向こうに見えるオアシスの方へ行くことにしたよと言われても、反論の余地はない。
それこそ、ヤンは自分の上官で、自分はヤンの部下に過ぎない。上官に異を唱えることはいくらでもできるけれど、強引にあごでも掴んで自分の方へ振り向かせるなど、力づくは反則だ。ヤンの言い草ではないけれど、ろくでなしになるのは構わないが、ひとでなしにはなりたくない。その程度の矜持は、シェーンコップにも確かにあった。
ヤンがむっとしたように、顔を真正面の位置に戻して来た。
「わたしのベッドにもぐり込んで来てくれるのは猫くらいのものだよ、シェーンコップ。」
くしゃくしゃの髪に、くしゃくしゃのベレー帽をかぶり直しながら憮然と言う。
「それも、寒い日だけだ。」
膝の上に両手を投げ出して組み、言ったことに合わせて、背を猫のように丸くして、ヤンが情けない表情を浮かべてやっとシェーンコップを正面から見た。
「それにわたしは、それほど尻軽じゃあないよ。」
「私とちがって──?」
つい混ぜ返したくなる。自分の意地の悪さは、今日はちゃんと理由があるにせよ──ヤンもきっと分かっている──、少々行き過ぎつつあった。シェーンコップはやっと生真面目になる気になって、ヤンへ向かって少しだけ胸を開く。
はあ、とヤンがわざとらしくため息をついた。
「もうよそう、シェーンコップ、あちこち回りでばかり踊っても仕方がない。わたしも君も猫じゃない。わたしは誰彼構わず寝たいと思ってるわけじゃないし、君だって、誘われれば誰にでもついて行くと言うわけでもないだろう。お互いに、選択の余地があった上で、わたしは君がいいんだ。君がそれで、わたしでいいと言ってくれるなら、わたしはただそれを喜ぶだけだよ。」
「──私で、よろしいのですか?」
「違う、君でいいんじゃない、君がいいんだ。わたしは、君と寝たいんだ、シェーンコップ。」
いつか、何かの本で読んだ言葉をヤンは思い出している。あれは何と言ったろう、あなたがささやくのは、耳にではなくわたしの心に、あなたが口づけたのは、唇ではなくわたしの心に、おおよそそんな意味の文章だった。シェーンコップがヤンにしたのは、まさしくそういうことだった。
打たれたでもしたように、シェーンコップの灰褐色の目が大きく見開かれ、それから、結んだ唇は真っ直ぐのまま、シェーンコップが不意にヤンの目の前にやって来る。
目の前が陰り、見上げて、圧迫感はないまま、こんな大きな男だったかと、ヤンはシェーンコップへ向かっていっぱいに喉を伸ばした。
「いいでしょう、閣下のおっしゃる通り、もう黙りましょう。ひとつだけ訂正しておきますが、私も、閣下でいいと言うわけではありません。」
そこで言葉が一度切れ、ヤンのあごにシェーンコップの両手が掛かった。
「私も、閣下と同じですよ。」
ヤンの喉が、さらに伸びる。上に引かれ、ヤンは思わず机から腰を浮かし掛けた。
口づけたのは、わたしの心に。誰かの声が、ヤンの中で同じ文章をまた読んだ。
ベレー帽がずれ、背中の方へ滑り落ちてゆく。それを器用にシェーンコップは受け止めて、手の中に握りしめて、ヤンを両腕の中に抱いた。
組んでいた足をほどき、ヤンは両脚の間にシェーンコップを引き寄せて、ここが執務室だと言うことを頭の片隅では覚えていて、自分の理性がいつ喚き出すかと待っている。
やっと胸の間に腕を差し入れて、
「──誰かが、来たら──」
「来ませんよ、外で部下が見張っています。大事な話だから誰も入れるなと言っておきました。」
「手回しが良すぎる・・・!」
「上官の用意の良さを見習っただけですよ。」
いつもの笑みを浮かべて、それでもそれ以上は何もせずに距離を開けて、シェーンコップはヤンの頭にベレー帽をきちんと乗せた。
目の下の隈は相変わらずだったけれど、少なくとも頬に上がった赤みのせいで、不健康な見掛けはややましに見えた。
では、と言いながらヤンの頬へ指先を滑らせて、首筋へも触れたいのには耐えながらシェーンコップはドアへ向かって踵を返す。
ヤンはひらひらと手を振ってそれを見送り、まだ机からは降りずに、ひとりになった途端赤い顔を掌で覆った。
ささやくのも口づけるのもわたしの心に。肋骨の中で心臓が、痛いほど鳴っていた。