* リアル獣姦展開含 *
変化たちの森 6
ラップは、案外と上手くジェシカとヤンの間を行き来していた。ジェシカは知っているのかどうか、ヤンには分からず、自分からそれを告げる勇気もなく、ラップが自分に向かって伸ばし続ける手を、ジェシカに悪いからと拒む気もなかった。ばれなければいいと思っていたわけではない。ラップとふたりきりになるたびに、唇が重なるまでは罪悪感を拭えずに、それでも指先が一緒に触れ合ってしまえば、次に起こることで頭がいっぱいになって、他のことはどうでもよくなるだけだった。
ヤンは初めて、自分の書く物語の主人公に、女の子の連れを登場させた。ふたりはただの友達だったけれど、これから先はどうなるか分からない空気は書かなくても確かにあるのか、それを読んだアッテンボローが何か言いたげにヤンを見て、けれど何も言わずにノートを返して来る。
お前の言う通りにしただけだよ。そう視線をそらせながら言ったヤンに、そうですねとアッテンボローが答えて、続き、楽しみにしてますよと言い継ぐ。
ラップはもう、ヤンの書く物を読むのは、ヤンとそうなってからやめてしまっていた。
物語の中で、彼と彼女は互いのことしか見ていない。恋はしていないはずのふたりは、互いのことだけを考え、相手との明日だけを思って旅を続けている。邪魔者はなく、ふたりを引き裂く誰も現れず、旅の途中のいつか、あるいは旅の終わりに、このふたりはきっと結ばれるのだろうと、誰もが思う書き方をしていることに、ヤン自身は気づいていず、彼女の方は明らかにジェシカにそっくりだったけれど、主人公の方はいつの間にかラップに似た誰かになっていて、それでも時々、ヤンは、ジェシカ似の彼女に対してラップに似た彼が恋に似たような言葉を吐くたびに、筆の滑りそうになるのを止めなければならなかった。
ヤンの頭の中にだけある、空想だけの物語は、少しずつ確実にヤンの現実に侵食され、まるでラップとジェシカたち自身のことを書いているように、ヤンの想像の中でふたりはただ睦まじく、将来を約束された、何の瑕瑾も障害も不安もない、完全無欠な組み合わせのように描かれている。
そうあって欲しいと言うヤンの願望、そして、そう願う心の片隅で、物語の中のジェシカ似の彼女に、ひそかに滑り込む、ヤン自身の断片。それを見つけるたびに、ヤンは物語と現実を切り離せずに、そうするのに恐ろしいほどエネルギーが必要なことに気づいて愕然とした。
物語の書き方など特に習ったこともなく、すでにある小説の模倣から始まったヤンの物書きの趣味は、ヤン自身が楽しむものだったはずなのに、今では書くことは自分の中身を意図せずそっくり吐き出すこと、見たくない現実を見せつけるもの、その現実から目をそらしてはひとりで苦しい思いをする羽目になるもの、そんな風に変わってしまっていて、それでも書かずにはいられずに、ヤンは頭の中を文字に変えてノートへ書き綴り続けている。
もう少しすれば、頭の中身をもっとうまく消化させて、現実を織り込みながらも別のものに変えることができるようになる、そうやって上達してゆくものなのだと、今のヤンに分かるはずもなかった。
ヤンの、口にできない苦痛を、ただ天真爛漫な彼と彼女の組み合わせが、毒も針も含まずに上っ面に吐き出すと言う違和感を、物語で読まされるアッテンボローこそいい迷惑だろうけれど、4人の中でいちばん年下のはずのアッテンボローは、3人の姉たちに揉まれて育ったせいかどうか、人の──少なくともヤンの──感情の機微に案外と敏感で、文字から伝わるヤンの気持ちの浮き沈みにはっきりと気づいて、けれどそれをどうしていいのか分からずに、手をこまねいていると言うところだった。
アッテンボローが、表には出さずにただおろおろとヤンを見守っている間、ジェシカとラップは誰の前でもいっそう親密に振る舞うようになり、そしてジェシカと同じ学年の女の子たちが、ある日、ジェシカの両親が泊まりで留守をした週末を、とうとうラップと一緒に過ごしたらしいとひそひそ噂し始め、それは他の噂ほどは広がらなかったけれど、その問題の週末をラップ抜きで過ごしたヤンは、ああそうなのかと、耳にした瞬間に思い、その噂をラップに問い質す権利は自分にはないのだと、瞬時に悟ってただうつむくだけだった。
互いに触れ合う手指の動きが、上達するのは同じスピードだったはずだけれど、いつの間にかラップの方が何となく手慣れたような素振りを見せるようになっていたのは、あれはヤンの錯覚ではなかったのか。
自分に触れるラップの手が、ジェシカにも同じように触れるのだと思うのは、ヤンをひどく苦しめた。自分より少し背の高いジェシカの方が、きっと抱きしめるのに楽だろうとか、彼女の円みを帯びた体つきの方が、ラップの腕の中にはうまく収まるのだろうとか、ヤンを好きだと言う同じ口で、同じ声音で、ジェシカにもそう言うのだろう。どちらも選べないと言う、陳腐な成り行きはヤンにも想像はできた。少なくとも、ジェシカの方が好きだと言われるよりは、ずっと心が痛まない。だから、ラップを問い詰めることなどしない。
秋には、ジェシカはこの街を離れて大学へゆく。ラップとヤンには、卒業までふたりきりの1年がある。その間に、何かふたりで考えつける結論もあるだろうと、現実逃避の楽観主義で、ヤンはへらへらと考えている。
6月の2度目の週末、ヤンはラップとジェシカの両方に、ジェシカの家へ誘われた。ジェシカに、両親がいないのだとこっそり耳打ちされて、それでなぜ自分がふたりに加わることになるのだろうかと訝しんだけれど、深く考えるのもその点を問い返すのも面倒くさくて、ヤンはただああとそれにうなずいただけだった。
ジェシカに頼まれた本を手に、訪れた彼女の家は表から見るだけでは分からない広い裏庭があって、その裏庭に面して、ジェシカの父親のものだと言う広い書斎があり、真っ先にそこに案内されたヤンは目を輝かせて、ジェシカの許可を取るとすぐに本棚に手を伸ばした。
後はもう、手にした本に夢中になるだけだった。
ジェシカの父親の本棚には、歴史の本よりも主義思想の本が目立ち、哲学の本もたくさんあった。ヤンが日頃好んで読む類いの本ではなかったけれど、物珍しさで手を出し、ヤンは開いたページの活字へたちまち溺れ込むと、ジェシカとラップが手を繋いで部屋を出て行くのにひらひらと手を振っただけで、扉が閉まるともう家の中の気配はそれきり途絶えてしまう。
ページを繰り、ぶつかる難しい言葉の意味を前後の文脈から読み取ろうとする時だけ、字を読む作業が途切れ、そんな時にふと、自分が招ばれたのは多分、ラップとふたりきりだとまた噂になるからだろうと思って、ジェシカに対する罪悪感の分、そう考える方がヤンにとっては気楽だった。
本さえ見せれば、ヤンがそれに夢中になって何時間でもこうして書斎に閉じこもるだろうと想像していたのだろうし、実際にその通りに、ヤンは長い間、本を手に床に坐り込んで、ほとんど微動だにしなかった。
そうして、さすがに窓から差し込む日差しがすっかり角度を変えて、そろそろ明かりがいるかとヤンが部屋の中を見回す頃になると、招待された身で、ふたりのことを気にも掛けずにここに閉じこもっているのもどうかと思い始めて、ヤンはやっと床から立ち上がった。
読んでいる最中の本は、後で戻しに来ようとそのまま持ち出し、そっと部屋を出る。どこが何の部屋とも知らされてはいず、玄関の方へ戻る途中のキッチンと続きの居間へとりあえず行き、無人のソファに本を置いて、そこから耳を澄ます。
書斎の並びにあったドアは、恐らくジェシカの両親の部屋だろう。それならジェシカの部屋は2階かと天井を見上げて、ふたりはそこにいるに違いないと見当をつけると、ヤンは何となくそこへ行きづらい気持ちを抱きながら、できるだけ静かに階段を昇り始めた。
ドアが開いているといいがと、階段の最後の段を上がって、2階はどこも開け放しのドアの、ひとつだけ閉じているのが目指す部屋とすぐに知れる。
流行りの音楽がかすかに聞こえ、ふたりの話し声を期待しながら、ヤンは知らず足音を消してそのドアへ近づいた。
そうして、半ばそう予想していた通りに、ヤンの良く知らない誰かの歌う声の合間に、その声とは違う声が漏れ聞こえ、それらが、普段聞き慣れたラップとジェシカの声とは一瞬聞き分けられず、響きのひそやかさには覚えのあったヤンは、咄嗟に自分の耳を遮断した。
ゆっくりと回線を開き直すように、聞こえて来る音の中からようやくふたり分の声を拾い上げて、ああそうかと、不思議に動揺も落胆も驚きも、名付けられるどんな感情も湧いては来ず、ただ平たい自分の胸が騒ぎもしないのを、不思議と思う気持ちすらヤンの中には見当たらなかった。
噂の通りだったと言うだけの話だと、そう思ったのかもしれない。肩と額を常に触れ合わせるようにしているふたりが、閉じた扉の向こうでさらに親密に触れ合っていたとして、何の不思議もないと、そう思ったのかもしれなかった。
自分とラップも、同じことをしている。誰にも知らせず、隠れて、こっそりと。
ジェシカとラップがその先へ進んでいると、たった今ヤンは知り、ラップとヤンがそうなっていると、ジェシカは多分知らないままだ。
優越感のためではなく、単なる確認で、そんなことを頭の中で整理して、ヤンはドアの前から、来た時よりも静かに離れた。
さらにゆっくり階段を下り、誰もいない居間に戻ると、ヤンは書斎から取って来た本の続きをまた読み始める。視線が定まらず、体の動きがぎくしゃくとぎこちないのに、ヤンは気づいていない。
大きなソファに寝そべり、いつもの怠惰な、書くことと読むこと以外はすべて面倒くさがりの自分の貌(かお)をそこに張り付けて、ヤンは必死で目の前の活字に脳のすべてを傾けた。
何とか読めていた字が、単なる黒い線になり、目の前でちかちかと目障りに瞬いて、同じ行を何度も何度も行き来する。中身はまったく頭の中に入って来ず、それでもヤンは、ただ視線の先に活字を追い続けた。
そのうちふたりが、また手を繋いであの部屋から出て来るだろう。ヤンはそうしたら、ここでずっと本を読んでいた振りをすればいい。ついさっき書斎から出て来てここに移動したと言う風に、何だ上にいたのかと、知らん振りでふたりに微笑み掛ければいい。いつものように。
何もかもが面倒くさいヤンは、ふたりがふたりきりで、どこで何をしていようと関心はない。何をしているのだろうと、考えることもしない。ただ、自分が今ここでひとりきり本に夢中になっていて、他のことはまったく目に入らないと、そう振る舞えばいい。ジェシカとラップが知っているのはそんなヤンだ。
訊かれたら答えるために、ヤンは読んでいる本のタイトルを何度も確かめた。口ごもったりせずに、いつもと同じ口調で答えられるだろう、きっと。
頭の中で、理解出来ない字が踊り、砂嵐のように頭を満たして暴れ狂う。ざーざーと耳の後ろで始まったひどい雑音に、ヤンは何度かゆっくりと瞬きをして耐えた。
本に添えた手の中に、紙ではなく、ラップの髪や首筋の感触が甦って来る。今ラップに触れているだろう、ジェシカの薄い華奢な掌に、ヤンは無意識に自分の掌を重ねている。まるで、ふたりで一緒にラップに触れているように、ヤンは本の縁へ指先を走らせ、ラップの鎖骨の固さと同じだと思いながら、その手をぎゅっと握って拳にした。
章を読み終わっても、内容は1文字も理解できないまま、ヤンは本を胸に抱えて、いつの間にか眠りに落ちていた。