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一文字お題5@Theme

3. 隣 (由花子)

 もう上履きのかかとをすり合わせるようにして、靴を履き替える準備をしながら、花京院は自分の下駄箱へ近づいた。
 校舎の入り口に入ってすぐのそこは暗い。その薄暗がりの中から、ふた刷けさらに暗い人影が、不意にぬっと近寄って来る。
 もう体をかがめていた花京院には、ほっそりとした足首と、そこから形良く伸びる白い足しか見えず、膝から上の、スカートの裾からやけに分量多く出ている腿の線にちょっとどぎまぎして──こんなに近く、こんな角度で女の子を見ることなどないから──、花京院は瞳の動きを慌てて止めた。
 「康一くんを見なかったかしら。」
 上から降って来る、少しトーンの高い声は、由花子のものだ。どこか神経質そうな、硬質の声の印象そのまま、眉の端をちょっと上げた、少しばかり苛立たしそうな表情で花京院を見下ろしている。氷で作った美人の彫刻みたいだと、花京院は以前抱いた感想をまた抱きながら、靴を履く手を止めて体を上げる。
 「康一くんなら──」
 花京院と意外と背の高さは変わらない由花子へ、とりあえずは外向きの軽い笑顔を作って、その間にハイエロファント・グリーンを素早く校舎の中へ張り巡らせた。1年生の教室は1階だ。同じ並びに職員室や保健室もある。康一の気配を見つけるのに、10秒と掛からない。
 「職員室の近くで、誰か先生と話をしてるみたいだ。仗助くんと億泰くんも一緒にいるよ。」
 もっと近づけば会話の内容も聞き取れるけれど、そこまではしない。
 「あら、そう。」
 素っ気なく返して来る、けれど表情はやややわらぎ、それから花京院の親切にはもう少しましな態度で報いた方が良さそうだと判断したのか、体の前に両手で下げていたカバンをちょっと見下ろしてから、無意識かどうか張っていた肩の線をゆるめて、
 「教えてくれてありがとう。便利な能力(ちから)ね。」
 世辞のつもりか褒めたつもりか、花京院はうっかり由花子へ苦笑をこぼした。
 「普段から、学校の中をそんな風に探ってるの。」
 「いや、必要な時だけだ。それに、女性にはできるだけ親切にすることにしてるんだ。」
 女性と言った時に、思い浮かべていたのは、もうしばらく会わない承太郎の母のホリィだったけれど、そんなことを由花子に教える必要もない。
 花京院の言ったことをどう受け取ったのか、カバンの持ち手から片手を離し、由花子が軽く自分自身を抱くように、空いた方の手をもう一方の肘へ寄せる。
 「随分口が上手いのね。あの承太郎って人は随分無口だったのに。」
 女の子の声が承太郎の名を言うと、何だかまったく別人のことのように聞こえる。突然出て来た承太郎の名に、わずかに動揺しながら、花京院はしっかりと張った胸の形を崩さないまま、ことさらにっこりと由花子へ微笑み掛けた。
 「僕と承太郎は違うよ。承太郎は色々と荒っぽいから。それがいいって言う女の子もたくさんいそうだけど。」
 言いながら思い浮かべていたのは、自分と同じ高校生の承太郎だと気づいてから、ちょっとまずいことを言ったなと素早く反省する。この町の人たちが知っている承太郎は、もう30になるれっきとした大人の男だ。花京院の知っているあの荒っぽさは影を潜め、高校生の女の子くらいでは近寄ることもできないような雰囲気を身に着けて、由花子が恐らく承太郎に興味がない以上に、承太郎も由花子くらいの女の子──女の子ども、と言う意味だ──に興味はないだろう。
 そう思ってから、承太郎はそもそも、女性に心を動かされたこと、動かされることがあるんだろうかと花京院は思った。花京院はまだ、美しいものと言う意味で、観賞の興味は湧くことがある。この由花子も、こんな風に表情が険しくなく物腰がとげとげしくなければ、思わず見とれてしまうこともあるかもしれない。
 僕と承太郎は違う。でも、互いにしか興味がない、と言う点は同じだな。きっと。
 自惚れだと思う気持ちには構わず、花京院は胸の中でそう結論づけた。
 「・・・女の子だけじゃないわよ。」
 不意に、自分の肘辺りへぎゅっと指先を食い込ませて、由花子が小さな声で足元へ吐き捨てるようにつぶやく。
 「女の子だけじゃなくて、康一くんだって──」
 突然現れて、そして突然何か深刻なことを言い始めた由花子を目の前に、花京院は、これが仗助の言うところの"プッツン由花子"かと、ちょっとかかとを後ろへ引きながら思う。
 仗助たちの噂話によれば、康一に"ゾッコン"の由花子は他に親しい友達はおらず、同じクラスの女の子たちともろくに付き合いがないらしい。そうなると、ちょっとした悩み事の相談も、気軽にすると言うわけにも行かないのかもしれない。康一への愚痴を、康一自身へこぼすこともできないのだろうし、いやでもどうしてそれでこの僕なんだ、と花京院は少しばかり混乱していた。
 「あの承太郎って人だけじゃないわ、康一くん、あなたのことも命の恩人だっていつも言ってて・・・感謝してもし足りないってあたしに言うの、あたしにどうしろって言うのよッ!」
 白い部分の青みがかったきれいな瞳が、不意に切り裂かれたように釣り上がる。一瞬で顔立ちが変わったように殺気立って、花京院はうっかりそれに反応して、ハイエロファント・グリーンを自分の前に呼び出してしまった。
 「あたしだって康一くんを助けたかったわよッ! でもその場にいなかったんだもの、いたらあたしの命に代えてでも康一くんを助けたわよッ!」
 長い黒髪が逆立って、うねうねと動き出すのが見えた。由花子のスタンドをまだ直には見たことのない花京院は、由花子を傷つけずに攻撃をかわすにはどうしたらいいかと、咄嗟に思案する。仕方がないけれど、由花子の体を乗っ取るのがいちばん手っ取り早そうだ。けれどそれで彼女は落ち着いてくれるだろうか。余計に逆上しそうだとためらう間に、とりあえず口を開いてみる。
 「もちろんそうだろうな、君ならそうしたろう。僕なんかよりずっとうまく、康一くんを助けられたと思うよ。」
 普段から女性に対しては親切にと、そう心掛けていて良かったと花京院は思った。半分くらいは口からでまかせだったけれど、この由花子の態度を見れば、実際の花京院の行動との比較の結果はともかく、確かに康一を必死で守っただろうことは容易に想像できる。むしろ由花子なら、康一にかすり傷ひとつ負わせずに、あの場で吉良をあっさり消してしまえたかもしれない。
 由花子の黒髪の動きが止まった。
 「──そう、思う?」
 戸惑いを見せた由花子へ、花京院は確信を込めて深くうなずいた。とりあえず、嘘は言ってはいない。花京院が今そう思っているのはほんとうだ。
 「ああ。それに、むしろ康一くんの方が僕の命の恩人だ。僕が康一くんを助けたんじゃない、康一くんが僕を助けてくれたんだ。康一くんがいなかったら、僕は多分あの場で死んでいたからね。僕が今こうしてここにいるのは、君の康一くんのおかげだよ。」
 君の康一くん、とわざわざ言ったのは、由花子を落ち着かせるためだった。
 言ったことは概ね花京院の本音だ。照れくさくて、わざわざ康一とあの時のことは特に語り合ったこともないけれど、由花子へ向かってならすらすらと言えるのが不思議だった。
 由花子はみるみる表情をやわらげ、微笑みさえ浮かべて、可愛らしく肩をすくめる仕草すらして見せた。
 「そう、そうなの! 康一くんはそういう人なの! 大事な人のために傷つくことも厭わない、自分の身を投げ出して誰かを救おうとする、あたしの康一くんはそういう人なの。」
 そうやって言うのは、もう目の前にいる花京院にではなく、由花子は赤らめた頬へ掌を添えて、細めた目を潤ませている。大事な人と言う部分に、恐らく自分を当てはめているのだろう。恋をしている女の子はこんな表情をするのかと、絵を描く人間としてだけではなく、同じように恋をしている人間として、花京院は由花子を眺めていた。
 少なくとも、康一が救われたことで、この子を泣かせずに済んだ。そして承太郎を悲しませることもなかった。花京院が必死で康一を守ったのは、承太郎を悲しませたくなかったからだ。
 氷の彫像が血を通わせて、生き生きと恋する誰かのことを語っている。思わず表情を写し取らずにはいられないようなその様に、花京院は承太郎のことを思い出さずにはいられない。承太郎を見つめる時には、自分もこんな風に幸せそうな表情をしているのだろうか。
 いつも以上に、承太郎に会いたいと、そう思って胸の辺りへ手を伸ばし掛けた時に、後ろから仗助の声が飛んで来た。
 「花京院さん、何してんスかー?」
 承太郎の面影へ寄り添わそうとしていた意識を、ねじ曲げるように声の方へ向けて、花京院は半身で仗助へ振り返り、そこへ億泰と康一の姿も認めて、見咎められないうちに、さっといつもの外面を取り戻す。
 ねじれた花京院の体の向こうに由花子を見つけた康一が、ぱっと表情を明るくして、
 「由花子さんッ!」
と、うれしそうに声を上げた。
 「康一くんッ!」
 まるで、長い間引き裂かれていた恋人同士のように、ふたりがどちらからともなく互いに駆け寄って感動の再会を果たす間、花京院は展開の早さに呆気に取られながらも作った表情は崩さず、自分の傍へ来て、いかにもうんざりと言う風に肩をすくめている仗助と億泰へ向かって、仕方ないなあとたしなめる苦笑さえ浮かべて見せる。
 「じゃあぼくはここで。」
 康一がやっと振り返り、3人の方へ軽く手を上げた。
 「由花子と一緒に帰る約束だから。」
 薄く頬を赤らめている康一の肩には、もう由花子の手が乗っている。ふたりはもう揃わない肩を並べてじっと見つめ合いながら、自分たちの下駄箱の方へ去り始めていた。
 「康一ッ!また明日なァッ!」
 未練がましく、そしてちょっと意地悪く、仗助が下駄箱の陰を曲がって消える康一へ声を掛けた。
 「うん、明日ね。」
 上滑りの声だけが聞こえ、追加のように、ひらひらと振る指先がちらりとだけ見えて、そして消えた。
 ふたりがささやき交わす声と足音が消えてしまうまで、3人は手持ち無沙汰にその場から動かず、仗助と億泰は居心地悪そうに肩を揺すって、億泰は小さく舌を打ちさえした。
 「おーおーいいねェー幸せそうなカップルはいいよなァ、自分たちしかいねェよォな顔してよォ。」
 億泰に同意してうなずく仗助を、花京院はただ黙って眺めた。
 他のことなど眼中にないようなあのふたりの、とろけそうに幸せな様子は、けれど花京院の胸をあたたかくしてくれる。
 「花京院さん、口直しにマゴ行きましょうよッ、こうなったらヤケコーヒーだゼッ!」
 「おう、オレも付き合うゼッ!仗助ッ!」
 なぜかふたりに付き合うことに決まってしまっていることに反論する暇もなく、仗助と億泰に背中を押されて、足を踏み出しながら、うっとりと康一を見つめていた由花子の表情をまた思い出すために、花京院は自分が立っていた場所へ立ち去る前に一度振り返った。
 きっと自分も、承太郎に会った瞬間、あんな風に表情が変わるのだ。その考えに思わず口元をゆるめながら、けれどあまりあからさまにはしないようにしようと、心の片隅は引き締めておく。
 仗助と億泰の騒がしい声へ心を振り向けながら、花京院はまだ承太郎のことを考えている。

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