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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 放課後、家に帰らずに真っ直ぐ空条家へ寄ると言うのは、承太郎と出会ってから始まった、花京院の悪い習慣だった。
 小学校の頃から鍵っ子だった花京院は、どうせ家に帰っても誰がいるわけでもないとは言え、親に言われたことや学校の規則は守ると言う基本姿勢があったのに、承太郎と出会って以来、そんなものの一部はどこかにきれいに吹き飛んでいる。
 花京院の両親は、仕事の忙しさが主な言い訳だろうけれど、高校生になった息子にさして干渉もせず、夕飯時に家にちゃんと家にいる──しかも、夕食の支度もして──なら別にいいと、承太郎と言う不良少年との付き合いはともかくも、ひとり息子の少々の素行の変化は、目くじら立てるほどのことでもないらしい。
 学校はと言えば、花京院の傍らにぴたりといる承太郎が恐ろしくて、花京院の放課後の寄り道など、知ったところで咎める気にもならないようだ。
 今日も、普段通りに一緒に下校して、花京院がそう言う前に、承太郎はもう花京院が自分の家へ一緒に来るものと決め込んでいる。そして実際に、その通りだった。
 ひとつ承太郎の家のことをちょっとだけ羨ましいと思うのは、ただいまと帰るとお帰りなさいとホリィの声が返って来て、そして部屋の中があたたかいことだ。
 冬の最中、鍵っ子の何が辛いといって、帰ってすでに薄暗く、冷え切った家の中ほど薄淋しいものはない。実のところ、これを避けるために、夕飯の支度のぎりぎりの時間まで、ほぼ毎日承太郎の家へ立ち寄るのかもしれない。
 帰って誰もいない家に対して特に何を感じたこともなかったのに、空条家へ寄り道するようになって以来、外には色んな家庭の在り様があるものだと知って、今さら愚痴をこぼすつもりはないけれど、ほんのちょっぴり、花京院は承太郎を羨ましく思っている。
 今日は珍しくホリィがいなかった。いないと知ってか知らずか、それでも承太郎は、帰ったぜと声を掛けながら家の中へ上がり、花京院もお邪魔しますと律儀に挨拶しながら、脱いだ靴は承太郎の分も一緒にきちんと揃える。
 どかどかと中へ入り、こたつのある部屋行って、ふたり向かい合ってこたつの中へ足を差し入れた。
 「ちっと待ってろ。」
 帽子も上着も脱がず──それは花京院も同じだ──、承太郎は再び立ち上がって部屋の外へ消える。足音の数と方向で、台所へ行ったのだと分かる。花京院は顔近くまですっかり上げたこたつ布団にあごをすっぽり埋め、台所から伝わって来る物音から、承太郎の行動を想像して、ああお茶を淹れているのだと、コーヒーの香りと熱さも一緒に想像した。
 去った時よりも、妙に神妙な足音が戻って来ると、開け放したままだった襖から割り込むように承太郎が、大きな四角い盆に、やたらとあれこれ乗せて入って来た。
 花京院は危なっかしい手つきと足取りに、思わずさっとこたつから出て立ち上がり、承太郎に両手を差し出す。
 「ずいぶん色々運んで来たな。一体何だい。」
 盆の上を覗き込むと、帽子のような物体と、マグがふたつ、大きなパックの牛乳、そして盆の半分を占めるのは、大きな取っ手のついた紙袋。とりあえず重さだけでも何とかしようと、花京院はその紙袋と牛乳を取り上げた。
 「てめーも片付けるのを手伝え。」
 その紙袋に、あごをしゃくって承太郎が言う。やっとこたつへたどり着き、天板の上に盆をそっと置く。かしゃんと、陶器が触れ合う音がした。
 「片付けるって、台所かい? それは別に言われなくてもやるよ。」
 訪問先で台所を使わせてもらったら、綺麗にしてから去るのは最低限の礼儀だ。と思っていると、承太郎は花京院から紙袋を取り上げ、ざらっとこたつの真上で逆さにする。がしゃがしゃと音を立てて、そこへ山積みなったのは、様々な色と形と大きさの、けれど一目で中身はチョコレートと分かる箱の群れだった。
 「台所じゃねえ、これだ。」
 承太郎がこたつへまた入り、帽子のようなものを持ち上げると、そこから大きなティーポットが現れる。思ったよりもまめな手つきでそこから紅茶をマグに注ぎ分け、これもこたつへ入り直した花京院の前へ、そのマグのひとつを置いてくれる。
 「すごいな、これ、全部もらったのかい。」
 「断っても断っても押し付けて来やがる。手渡しならつっ返せるが、下駄箱と机の上のは捨てるわけにも行かねえ。」
 どの箱も、元はもっと可愛らしく飾って包まれていたのだろう。今は箱が剥き出しで、開ければすぐに中身が見える。
 手を出すのにためらって、けれど承太郎から箱をひとつ押し付けられ、花京院は仕方なくその小さな箱を開けて、中身をひとつ取り出した。
 「僕が食べると、これを君宛てに持って来た女の子たちに恨まれそうだな。」
 「心配ねえ。卒業すりゃ、誰もおれのことなんざ覚えてるもんか。」
 やけにきっぱりと承太郎が言う。興味のない相手から差し出される好意は、承太郎にとってはひたすら鬱陶しいだけのものなのか。女の子たちをちょっと不憫に思いながらも、いかにも美味しそうな形をしたチョコレートの誘惑には勝てず、捨てられるよりはいいだろうと、花京院はひと口それをかじる。
 承太郎の淹れてくれた紅茶に牛乳を注ぎ、これも香りのいい熱さを、甘さと交互に楽しむことにした。
 「もて過ぎるのも考えものだな。色々と大変だ。」
 もぐもぐと、チョコレートに舌鼓を打ちながら、贈り主たちに同情する気持ちは今はどこか別のところへ置いて、純粋に放課後の空腹を紛らわす楽しみに集中する。
 「これ、別に僕らだけで食べなくても、学校でみんなに分けたらいいじゃないか。君からなら、みんな受け取るだろう?」
 怖がって断るはずがないと、はっきりは言わなかった。
 「そっちの方が女どもに恨まれるんじゃねえのか。」
 「女の子たちに恨まれるよりも、食べ物を無駄にする方が心が痛むな、僕は。」
 もぐもぐ。最初に手渡された小さな箱はもう空だ。同じくらいの大きさの箱を、花京院は今度は自分で取り上げた。
 「大体恨まれるのは君だし、僕には痛くも痒くもない。」
 今度のは、ホワイトチョコレート普通のチョコレートの、マーブルだった。つまんで、またひと口かじる。合間に紅茶も忘れない。
 「冷てえ野郎だ。」
 「モテる男は恨まれるんだ。君なら慣れてるだろう?」
 承太郎も、味の方は満更でもないように、黙々とチョコレートを食べている。
 少なくとも、捨てたり誰かにばらまいたりしないのは、やはり承太郎の優しさなのだと、チョコレートでちょっとべたつき始めた指先を軽く舐めて、花京院はちょっと自分ひとりでうなずいた。
 「ホリィさんからはないのかい?」
 もしあるなら、それは僕が引き取ろうと思いながら訊くと、承太郎は意外なことに渋い顔をして、ふんと大きく肩を揺らす。
 「向こうは、女からやると決まってるわけじゃねえそうだ。親父からチョコレートが届くの、うきうきしながら待ってやがる。」
 「へえ、君のお父さん、わざわざ贈って来るのかい。」
 承太郎と血が繋がっているとも思えないまめさだ。いや、少なくとも、こうやって紅茶を淹れてくれたのだから、そんな風に思うのは間違っているかもしれない。
 「日本にいて、一緒にいると大事(おおごと)だぜ。バラの花束やらデートやら挙句泊まりでおれは留守番とかな。」
 承太郎の、形の良い濃い眉が曲がって上がる。そんな風に仲の良い両親なんていいことじゃないかもぐもぐ、チョコレートを食べる手は止めず、花京院は思う。
 「男の方から渡せるなんて、悪くないなあ。告白できなくて迷ってるのは女の子だけじゃないし、男女平等なら、バレンタインも平等にどっちからでも好きにすればいいんだ。」
 「・・・本気でそう思うか?」
 なぜかチョコレートの箱を探る指先を止めて、下からすくい上げるように花京院を見て、承太郎が急に低めた声で言う。
 「ああ、あげる当てなんてないが、誰が誰に渡してもいいってなれば、いいチャンスだって思う人は増えるだろうきっと。いいことじゃないか。」
 ホリィのことを考えながら、花京院はそう答えた。
 こうやって毎日のように訪れて、あれこれ世話を焼いてくれるホリィに、それなら感謝の意味でのお返しもできる絶好の機会だ。我ながらいいアイデアだと、花京院はふたつ目の箱の最後のチョコレートをつまみ上げる。
 承太郎なら母の日でもいいけれど、単なる息子の友人がそれではちょっと味気ない。もうちょっと特別な感謝のつもりで、来年はチョコレートと、承太郎の父親を見習ってちょっと頑張って花束でもと、今から花京院は考え始めていた。
 チョコレートの甘さのせいで、紅茶がすでに半分空だ。次の箱を開けるのにちょっと休憩しようと、紅茶のマグへ手を掛ける。
 「来年はちっと、面白いことになるかもな。」
 チョコレートへ伸ばした手を元に戻して、ぼそりと自分の膝へ向かって承太郎がつぶやいた。
 傾けたマグの、紅茶の熱さを気にしていた花京院は、その承太郎のつぶやきを拾い損ねて、
 「え、何だい、今何て言った?」
 マグを置いてから聞き返すと、承太郎はにやっと笑って、何でもねえ、と返して来る。
 また箱をひとつ取り上げ、その箱をしげしげと眺めてから、承太郎はなぜか惜しむようにそれを花京院の目の前に滑らせて来た。
 「確かに、告白のいいチャンスだな。」
 言ってから、おかしそうに唇が曲げる。
 花京院は承太郎の言う意味がよくわからず、言葉通りのまま受け取って、目の前の箱に手を掛ける。
 きらきら光るピンクの箱から、またチョコレートの香りが立った。
 花京院のマグに、承太郎が新しい紅茶を注ぎ、花京院は次のチョコレートを口に運ぶ。
 来年の今頃には、今年は届かなかった想いが少なくともひとつだけ、そっと届くのかもしれない。
 花京院の歯が、思いがけなく中にくるまれていた大きなアーモンドを噛み割り、かりっと乾いた音を立てた。その音に、承太郎が、その来年のことを考えながらそっと目を細めた。

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