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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 たまには街中で、ちょっと落ち着くのもいい。資料やノートやペンを山ほど抱えてカフェ・ドゥ・マゴへ行くのが、承太郎は案外と気に入っている。外へ置かれたテーブルに着き、コーヒー──ホテルで飲むのとは味が違う──を飲みながら、論文の下書きに手を着けてみたり、SPWへの報告書をざっとまとめてみたり、あるいはただ、持って来た本を読んだり、予定の作業が終わらなければ、そのままトニオの店へ移動することもある。
 がやがやと適当に騒がしい街の真ん中で、何となくひとりきりだと言う雰囲気が、手と頭を使う作業には最適だった。
 けれど今日はちょっと様子が違う。承太郎のテーブルは、今は資料もノートもきちんとすでにまとめられて、ペンだけが何となく所在なさげに転がり、同じテーブルに、仗助、億泰、そして康一がいた。
 放課後に、ぶらぶらと下校中だった彼らに見つかり、身内の気安さで仗助が近づいて来て、どこか憎めない馴れ馴れしさで億泰がさっさと席に着き、おずおずと承太郎の右隣りへ最後に、遠慮がちに腰を下ろしたのは康一だった。
 見られて困るものはなかったけれど、この年頃の少年たちの粗忽さはまだ我がこととして覚えている承太郎は、さっさとノートを閉じて資料を重ねて手元へ置き、万が一、特に正面にいる億泰辺りがうっかりアイスコーヒーの背の高いグラスを倒したりしても大丈夫なように、さっきまで紙で覆われていたテーブルをすっかりきれいに片付ける。
 彼らに付き合って、承太郎ももう1杯コーヒーを頼んだ。
 承太郎に親しみを見せながら、彼らの話題は彼らの学校の話で、やたらと固有名詞の出て来るその内容は、ほとんど承太郎には分からない。承太郎も、黙って聞くだけで、わざわざ説明も求めない。
 大きな身振りや手振り、時々周囲を振り向かせるほど高くなる声、傍若無人に見える彼らの振る舞いは、けれどどちらかと言えば微笑ましい類いのそれで、この中ではいちばん常識人の康一は、時々辺りを見渡しては集まる視線に肩をすくめたり頬を染めたりしているけれど、承太郎はそれも含めて、彼らの子どもっぽさを可愛らしいと思う。
 記憶は美化されるものだから、自分の方がこの年頃にはもう少し大人びていたと思うのは、承太郎の勘違いなのかもしれない。それでも、今の彼らの1年後にはエジプトへ旅立っていたのだと思うと、案外と錯覚でもないかもしれないと、組んだ膝の上に掌を重ねて、指の付け根に無数に残る小さな傷跡へ数瞬目を凝らした。
 「だからよォー言ってんじゃんかよォーC組の宮崎何とかって、ぜってェオメに気があるってー仗助ェ。」
 「宮崎ィ? 誰だよそれ、いい加減なこと言ってんじゃねぇゼ億泰ゥ。」
 「宮崎さん? あの背の高い子? バスケ部だっけ?」
 「おォ! さすが康一、詳しいジャン! この間由花子と何か立ち話してたっけど、あいつら知り合いかァ?」
 ミルクを入れたアイスティーをひと口すすって、康一が人差し指をこめかみに当てて、考える仕草をする。
 「由花子さんと? 知らないなあ。僕あんまり由花子さんの友達って知らないんだよなあ。」
 「なんだよ康一ィ、おめー自分の彼女の友達にまだ紹介されてねェのかよォ? それヤバいぜ!」
 億泰が康一の方へぐいっと顔を近づけ、不安を煽るようなことを言う。康一が顔を赤くして、ちょっと心配そうに唇を一文字に結んだ。
 承太郎が心配した通り、体を動かした拍子に億泰の手がアイスコーヒーのグラスに当たり、ぐらりと危うく倒れそうになる。承太郎は考える間もなくスター・プラチナを呼び出し、グラスを支えさせた。
 ほんの一瞬のことに、青い影がちらりと見えただけか、高校生たちは話の方へ気を取られて、スター・プラチナの動きには気づかなかったらしく、そのまま康一をからかい続けている。
 「別に、由花子さんの友達をあんまり知らないからって、そんな心配することないと思うけど。」
 「わっかんねェぞー、女どもに結束されっと、オレらぜってェーかなわねーからなー。彼女の友達に嫌われっと、おめーもフラれっちまうっかもしんねーぜ!」
 なー、と同意を求めて億泰が仗助の方を見る。またグラスが傾く。承太郎はまたスター・プラチナを呼び出す。
 「プッツン由花子が康一を振るってのはねーんじゃねーかァ? むしろ康一のために他も友達付き合い一切やめそうなタイプじゃねェか、あの女。」
 仗助が、ホットココアのカップの縁を指先でなぞりながら、冷静な口調で言うと、今度は億泰が面白くなさそうに唇を尖らせた。
 「億泰、オメー康一のことより自分のこと心配した方がいいんじゃねェかァ? オレと宮崎何とかがどうこうより、あの2年の女子、どうしたんだよォ?」
 仗助が言った途端、さあっと億泰の顔が赤くなった。だらしなくホックを外したままの、制服の高い襟の奥まで、火でも吹いたように真っ赤だ。なるほど、億泰はどうやら現在片思い中のようだ。
 「この間、告白するってすごい張り切ってたじゃないか。」
 ここぞとばかり、康一が仗助へ応援を送る。真っ赤な顔のまま、ぎろっと億泰が康一を睨んだ。
 「う!うるせェなッ! オレぁ年上は好みじゃねェんだよッ!」
 承太郎ですら一瞬で嘘だと見破れる、億泰の見え透いた言い訳だ。
 ああ、ダメだったんだ、と康一が唇だけで言ったのが見て取れて、承太郎は思わず帽子のつばの陰でくすりと笑いをこぼす。
 「まあ、オメーの好み以前に、オメーの頭じゃ年上の女は無理だろ。」
 あごを軽く突き上げるようにして、えらそうに仗助が言った。
 「仗助くん、それは言い過ぎだよ、いくらほんとのことだって──」
 康一の失言まで飛び出した。
 本気で吹き出してしまう前に、どうやってここから立ち去ろうかと、承太郎は喉の奥で笑いを噛み殺しながら考えていた。
 こうやって、彼らは延々と言いたい放題を互いにぶつけながら、仲違いするでもなく、数分後には肩を叩き合って笑い転げているのが常だ。
 彼らを眺めていて、承太郎は、自分たちのことを思い出す。ジョセフ、アブドゥル、ポルナレフ、イギー、そして花京院。努めて思い出さないようにしているのは、常にその名と顔が頭の中にあるからだ。意識に引っ掛かるたびに、胸の辺りにひっかかれたような痛みが起こる。それはあれ以来、ほとんど一瞬も承太郎の胸の中を離れず、傷の数はただ増える一方だった。
 少年たちが、承太郎の目のまで、無邪気に恋の話をするのを聞きながら、自分も同じように、ただ好きだと言う気持ちだけを持て余していたのだと思い出す。誰かを想うこと、相手が自分を想い返してくれることを想像しながら、実際にそれが起こることなど、ちらとも期待していかなった。
 恋とは頼りなく存在すら危うい、実在することなど信じられないような絵空事でしかなかった。
 少年の恋は、どこかへたどり着くその具体的な場所のない、空想の旅と同じだ。その思いを抱いているだけで幸せだった。考えている間がいちばん楽しく幸せなのだと、今承太郎は、やや皮肉を交えて心の中で自分を笑う。
 気づかなければよかった。あれが恋だったと、気づかないまま、あの旅を終わらせられればよかったのに。知らずに俯き加減に、承太郎は唇を噛む。
 少年の恋はなぜ、あんなにも熱くて激しくて、そして胸の奥の奥まで食い入って来るのか。食い入ったまま、なぜこんなにも長い間、消えない痛みを伝え続けて来るのか。
 終わってなどいない。消えた恋は、それで終わるわけではないと、承太郎はいまだ思い知り続けている。大人になった承太郎は、今もあの少年の恋を抱え込んだまま、この仗助たちと同じ幼い心が、痛み続けている。
 先など考えられない恋。先のなかった恋。恋をしているその瞬間だけがすべてだった、あの恋。
 大人になって、今では容易に、誰かと心を通わせた先のことが想像できる──そして、想像だけではない──のに、その想像など行き着かなかったあの恋が、どれよりも鮮やかに蘇って来るのはなぜだろう。
 恋と言って、いまだ思い浮かぶのは、たったひとつの顔だけだ。他のどんな存在も、あの恋の前には恋とすら呼べないような、そんな淡々しい印象しかない。
 結局あれが、最初で、そして今のところ最後の恋だったのだと、騒がしい少年たちのおしゃべりを聞きながら承太郎は思う。
 実っても実らなくても、彼らの恋が、あんな風に失われてしまうものでなければいい。そのために、承太郎はこの街を守るのだ。あの時、花京院が、この世界を守ったように。
 承太郎は、少年たちのさえずりを聞いている振りで、重ねたノートの上に掌を置いた。さり気なく指を滑らせ、ぱらぱらとページの端を繰る。そして、ちらりと見えた白い紙の端に、自分が書いた懐かしい名前を見つける。走り書きの、やや乱れた文字は、そのまま承太郎の心の綾を現しているようだった。
 花京院。少年たちの方を見ながら、承太郎が見ているのはもっと別の場所だった。唇だけがつぶやくその名が、彼らの頭上を越えて、青く広がる空のどこかへ消えてゆく。
 唇の端が上がる。それは決して微笑みではなかったけれど、目の前の少年たちには、そうとしか映らない、承太郎の悲しい淋しさの表情だった。

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