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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 花京院はベッドの上にきちんと座って、目に巻かれた包帯でようやく患者と分かる、背の伸びた姿勢でいた。
 ドアを開ける前にノックはしたし、入る時には入るぜと声も掛けた。けれど見えないことにまだ慣れない花京院は、声の方向を探って首を回すその仕草が、まだ迷い迷いだ。
 承太郎は、今日はわざと大きな足音と大きな仕草でベッドの傍へ行き、訊く前に、もう置かれていた椅子を引き寄せ、そこへ腰を下ろす。
 「痛むか。」
 「ああ、少しね。熱があるとかで、痛み止めをもらった。」
 切り裂かれた傷は、出血の多さそのまま案外深かったらしいけれど、すっぱりときれいに切り下ろされ、縫わずにくっついてしまうと言う話だった。
 「瞳が無事だったのはほんとうに幸いだ。痛みはともかく、見える方には問題がないと言われてほっとした。」
 「ああ、そうだな。」
 口元に表情は浮かぶけれど、目元が見えないと見える感情も半減する。花京院の声の調子を注意深く聞き取りながら、承太郎は自分の不安顔が見えないのは、それでもありがたいことだと考えた。
 傷のことを聞き終われば、後はもう特に話すこともない。話好きのジョセフやポルナレフが来るのはもう少し後だ。ふたりは一緒に黙り込んで、包帯が気になるのかどうか、花京院は時々手を挙げて眉間に触れる。
 真っ白いベッドと同じ印象の、無機質でどこか金属的な病室、神経質な消毒薬の匂い、窓からあふれるようになだれ込んで来る陽射しの明るさだけは幸いだけれど、それも今の花京院にははっきりと見えるはずもなく、いるだけで気の滅入りそうなこの場所で、ひとりきりの花京院のために、承太郎の胸はしくしくと痛んだ。
 洗い晒しの、これも真っ白な薄い上掛けの上を、花京院の左の指先がゆき先もなく滑る。その先は承太郎の方を向き、するっとその距離を縮めた。
 「君だと、日本語だからすぐに分かるな。」
 承太郎へ向く顔の、角度が十分でない。承太郎は自分で首を回して、花京院ときちんと向き合うようにした。
 「何の話だ。」
 「誰かが話し掛けてくれるだろう、でも僕にだと分からないんだ。きちんとどこかで名前で呼び掛けられない限り、僕に話し掛けてるんだと分からなくて困る。」
 「見えねえからな。」
 「ああ、盲人の人に、声を掛けて許可を取ってから腕に触れろと習ったが、あれはどうなんだろうな。あの人たちは僕らの不慣れと無知に慣れてるんだろうが、目が見えないだけで、聞こえる方もこんなに不安になるとは思わなかった。」
 しっかりとした声に震えはないけれど、声の底には心細さが露わだ。
 目の見えなくなる事態になったことのない承太郎は、そんなものなのかと花京院の言うことを想像するしかない。見えなければ、音で何とか様々なことを識別判別できるものと思い込んでいたけれど、それにはやはりまず慣れが必要なのか。
 「退屈なら、ジジイに頼んで何か聞くものでも──」
 こんな風に、ひとりきり手持ち無沙汰でいれば、ろくでもないことばかり考えるのだろうと、承太郎は励ますつもりでそう言った。それを、花京院が最後まで言わせずに遮る。
 「いや、案外と退屈はしないんだ。それに、見えない分、耳は完全に開けておきたい。音楽でも聞いていればいいと思ってたんだが、あれは邪魔になる。」
 「そういうもんなのか。」
 驚きを隠さず、承太郎はちょっと眉の端を上げた。
 「物音は別に構わないが、意図的に時間潰しに聞く音は、今は邪魔になるだけだ。完全にひとりきりならいいが、看護婦や医者が様子を見に来るからな。」
 「敵が現れねえとも限らねえ。」
 「それもある。もっとも、それについてはSPWが警備の人を置いて、徹底的に怪しい人間を排除してるらしいが。」
 「おれはフリーパスだったぜ。」
 「こんなところに、君みたいに目立つ日本人がいるもんか。」
 吹き出すように花京院が笑い、承太郎もつられて声を立てて笑う。
 明るい声がしばらく部屋の天井を叩き、やっとふたりの声の収まった頃、承太郎の方へ向いていた花京院の手が、もっと近く承太郎の方へ伸びて来た。
 ベッドを離れて、完全に承太郎を探すような手つきで、掌がほとんど胸の前へやって来た時、承太郎は、その手をそっと自分の手の中に握った。途端に、安堵したように素早く握り返され、普段の花京院に似ない、やけに感情的な仕草に、承太郎はちょっと驚く。
 「すまない、意味はないんだ。ただそうしてままでいてくれると、君がそこにいるとわかってありがたい。」
 ああ、と答えて、承太郎はもう少ししっかり花京院の手を握る。
 「声が聞こえるだけじゃ、どこに、どの辺りにいるのかわからない。聞こえてるだけじゃ落ち着かない。」
 指先が、承太郎の掌の中で動く。そうやって、承太郎が応えてくれるかどうか──これが、ほんとうに承太郎かどうか──を確かめているようだった。
 「見えねえだけだと思ってたが、意外と大変そうだな。」
 「ああ、僕も知らなかった。」
 指先の方向を追って、今度は顔がきちんと承太郎の方を向く。表情から厳しさが消えているのは、承太郎が確かにここにいると思うからなのか、あるいは見せないだけで内心穏やかではないせいか。
 ここに、花京院をひとり残して先へゆくのだと言う予定が、今さら胸に迫って来て、花京院の焦燥が伝染(うつ)ったように、承太郎もぎゅっと眉を寄せた。そんなあからさまな表情も、見えないのが互いに幸いだった。
 「この怪我の後で、気がついた時に、このまま目が見えなくなったらどうしようと思った。」
 いつの間にか顔を正面に戻し、視線と同じほどどこへ向いているかわからない声が、花京院の爪先の方へ落ちる。そこに誰かいるように、承太郎は声の先を視線で追った。
 「最初に、絵が描けなくなったらどうしようと思った。本も読めなくなる。字を読むのは、まだ点字を習えば何とかなるだろうが、絵を描くのは諦めることになるのかと思ったら、その時初めてこの傷の深刻さに思い至って、正直なところ、この世の終わりみたいな気分になった。」
 応急処置で傷を塞がれた後、花京院はずっと承太郎が傍にいた。ほとんどしゃべらず、傷が痛むのかほとんど失神しているのか、声を掛けるのもためらわれて、承太郎の方から話し掛けることもなかった。
 最悪のことを考えていたのは、ふたり同じだったのだ。
 承太郎は、握ったままの花京院の手に、もう一方の自分の手を重ねた。
 「絵が描けなくなると思った時に、最初に浮かんだのが君の顔だった。君をまだ、見なくても全部完全に思い出せるほどきちんと見ていないと思って、必死に全部思い浮かべようとしたんだ。眉の形や唇の線や耳の厚みや、何もかも、全部。思い出せたと思ったが、実際はどうだろうな。傷が治ったら、記憶と実際の君の顔を、真っ先に比べてみたい。」
 「てめーがおれを忘れるはずがねえ。」
 わずかな震えの消えない花京院の声を、まるで励ますように、承太郎の声が断言する。
 「はは、そうならいいな。」
 決して信じてはいない声音で、けれど、そう信じたいのだと、花京院の横顔が言っていた。
 花京院の手が、承太郎の掌の間で動き、そこからするりと抜けると、また承太郎の方を探るように迷い始める。突き出しはしない指先が、承太郎の肩口へようやくそっとたどり着き、今触れているのが何かと確かめるように動いた後で、首筋からあごへ上がって行った。
 花京院の、やや爪の伸びた指先が承太郎の唇へかすめ、2拍分の躊躇の後で、揃えた指先がそこへ改めて触れる。
 置いてゆかれる不安、置いてゆく不安、触れたそこで確かめ合って、ついて行くことはできず、一緒に残ることもできないのだと、まるで言い聞かせるように、互いの思いに沈み込んでゆく。
 承太郎は花京院のその手を取り、それから、自分から唇を近づけた。両手の中に収めた手を、しっかりと掴んで、
 「またすぐ会える。その時は、おれの方が満身創痍かもだがな。」
 「いいさ、そうなったら今度は僕が君を支える番だ。」
 また声に、笑いが交じった。
 再び声はそこで途切れ、承太郎は花京院の手を取ったままでいる。交わせない視線の代わりに、繋いだ手は離れない。
 見つめ合えないことを残念がるように、花京院が小さくため息をひとつこぼした。
 「承太郎。」
 声を掛けながら、顔の位置が定まらないのが、やけに痛々しい。承太郎は、目を細めて花京院の声を聞いた。
 「早く、君の顔が見たいな。」
 握った手に視線を落し、なぜか不意に泣きたい気分になったことを不思議に思って、承太郎は自分を慰めるために、花京院の手を撫でる。
 「ああ、おれもだ。」
 もっと言いたいことは他にもあるような気がするのに、言葉にできたのはそれが精一杯だった。
 包帯に遮られた花京院の視線が、それでも必死に自分へ向くのに、できるならそれを掴んで自分の方へ、この手と同じように引き寄せたいと痛烈に思う。
 見えなくなって初めて、見えるようになるものがあるのだと、気づくにはまだふたりは幼過ぎた。
 それ以上交わす言葉も視線もなく、ふたりは手を握り合ったままでいる。

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