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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 電話が鳴る。今夜はひとりの承太郎は、誰からの電話か予想しながら受話器を取る。
 「承太郎!」
 予想通りの声が、弾んで耳に飛び込んで来る。上機嫌の花京院だ。
 マフラーを巻いて、けれど鼻先は真っ赤にして、しゃべるたびに息が顔全部を覆う。そんな姿が鮮やかに思い浮かぶ。承太郎はまるで花京院が目の前にいるかのように、うっすら微笑んでいた。
 「今駅の途中なんだが、どうしても君に電話したくて。」
 後ろに音はほとんどない。人通りの途絶えた商店街の、がらんとした淋しげな光景も、承太郎は一緒に想像した。
 花京院と承太郎が一緒に住む街から、電車でふた駅先に、時々ぽつんと思いがけない作品を上映する映画館がある。そういうことにはまめな花京院は、毎週スケジュールをきちんと調べては、好きな映画があると、少しばかり時間に無理があっても出掛けてゆく。
 今日は、夜に1回きり上映するとかで、遅れないように早めに夕食を済ませて出掛けて行ったらしい。承太郎は、花京院が出て行った時間と帰って来る予定の時間を、残された書き置きで知り、ひとりの夕食と食後のコーヒーを済ませて、花京院が帰って来たら熱いコーヒーを飲ませようと、そわそわと時計を気にし続けていた。
 「いい映画だった! 今度またどこかでやったら、君も一緒に見に行こう。あれは映画館で見るべきだ。音がものすごかった。」
 そうだろう、監督が音にはこだわったと、そうどこかで言っていたのだから。承太郎は、その映画を実はもうひとりで先に見てしまっている。出先で、予定が変わって不意にできた空き時間に、暇つぶしのつもりで見た映画だった。
 花京院が今言っている通り、とてもいい映画だった。だから、何となくひとりで先に見てしまったことに罪悪感を抱いてしまって、花京院にはもう見たとは言い出せないままだ。
 「君も誘うべきだったな。これはひとりじゃもったいない映画だった。」
 承太郎も、見終わって映画館を出た時に、まったく同じことを思った。きちんと予定を立てて、花京院を誘うべきだったと、弾む心を抑えながら後悔した。
 見たい映画はひとりで見ることも多い。それでも、見る前から浮き足立つような映画は、誰かを誘いたくなる。見る前と見た後で、あれこれ語り合いながら、すぐには家に帰るのが惜しくて、寄り道をしたり遠回りをしたり、そんな風に、思い掛けなく愉しかった2時間を分け合いたいのだ。
 花京院が、止まらないと言うように電話の向こうで話し続けている。テレフォンカードの度数がどんどん少なくなって行く音が、時々承太郎の苦笑と同じ頻度で交じる。
 家に帰るまでの時間が待てない。今すぐ誰かと話をしたい。承太郎はそんな花京院に付き合いながら、受話器を持つ手が寒さにかじかむのに、時々息を吐き掛けて、ぱたぱたと足踏みしている花京院の、寒さのせいでなく赤く染まった頬の色が容易く想像できる。
 「早く帰って来い。風邪引くぞ。」
 「わかってる! これから駅まで走るよ。」
 「コーヒーでいいな?」
 「ああ、ありがたいな。良かった映画の後で君のコーヒーが飲めるなんてすごい贅沢だ。」
 すらすら言う声の弾みが、花京院の興奮そのままで、受話器を置く気配はまだない。
 花京院は、あの映画のどこが良かったのだろう。どの台詞が好きだったのだろう。自分が見た時のことを思いだしながら、承太郎は花京院のひと言ひと言を受け取って、自分の感想と重ねてゆく。
 「じゃあ、後で。ほんとに承太郎、今度一緒に見に行こう。ビデオじゃ音楽がもったいない。」
 「いいから切れ。早く帰って来い。」
 顔いっぱいに、嬉しそうに笑う花京院に、承太郎は早く会いたかった。
 じゃあ、と名残惜しそうに──承太郎が、ではなく、映画のことを語り続けるのが──やっと電話が切れた。
 もう数瞬、電話を見つめて、もう一度承太郎に電話を掛け直して、もう少ししゃべってから駅へ向かうかと、迷っている花京院がはっきりと見える。やっとテレフォンカードを財布に戻し、両手を上着のポケットに入れて、マフラーに鼻先を埋めて歩き出す。
 誰もいない商店街の、空っぽの舗道を、つるつる滑るように歩き出してから、花京院はまるでスポットライトのような街灯の明かりに気づき、走ったり歩いたりを始め、自分の足音の奏でるメロディーに乗ると、いつの間にか足取りが軽いスキップに変わっている。
 映画のせいだ。映画の中の喜怒哀楽を全身に浴びて、そこに、耳に残る音楽が重なり、まだ完全には現実に戻れないし戻りたくなくて、駅までのひとりきりの道筋を、ほとんど踊るように駆けてゆく。
 花京院の足音が、承太郎の耳にははっきりと聞こえた。
 時計を振り返る。多分、後30分くらい。その30分を、花京院も待てなければ、承太郎も待つことができない。
 花京院は、一刻も早く、今夜見た映画がどんなに面白かったか、語りたくて仕方がない。承太郎は、映画の後に浮かれて愉しそうな花京院に、一刻も早く会いたくてたまらない。
 承太郎は、放り出すように受話器をやっと元に戻した。それから、小銭の入った財布を掴み、ジーンズの後ろのポケットに入れた。ばたばたと上着を取って、玄関へ小走りに向かう。
 夜空に、痛いほど青白い月が、優美な揺りかごの形と角度で浮かんでいる。それをちらりと見ながら、承太郎は足を速めた。
 駅までは1本道だ。どうせ承太郎の方が先に着く。改札で待っていれば、まだ足取りの妙に軽い花京院がすぐに見つかるだろう。
 細い道は薄暗く、人通りはない。花京院の足取り──もしかすると、もう向こうの駅へついて、電車に乗り込んだかもしれない──を想像しながら、承太郎はまるで一緒に踊るように、路面を何度かかかとと爪先で交互に蹴った。
 自分の息の白さを眺めて、マフラーをして来なかったことに気づく。舌打ちをしかけてから、花京院のマフラーを借りればいいと思いついた。
 ふたりで一緒に巻くには、あれ──ホリィの手編みだ──は短いだろうか。あるいはそれを口実にして、寄り添って歩けばいいのか。
 寒さと、映画と、帰り道と、そしてふたりが恋人同士であることと、理由は山ほどある。何しろ承太郎は、花京院が浮かれてわざわざ映画の感想のために、電話を寄越す先だ。
 少しずつ道に、明るさが増して来る。駅がもうすぐだ。
 寒がりながら家へ帰って、コーヒーのための湯を沸かす時間を、待たせることになるけれど、その間、花京院に好きにしゃべらせればいい。止まらないそのおしゃべりを楽しみながら、承太郎は、有頂天の花京院の、赤い頬の線にでも見惚れていればいい。
 覚えている、映画の中の音楽が承太郎の耳の中で鳴っていた。同じメロディーが、今花京院の頭の中にも流れ続けていることだろう。
 突然溢れるように明るくなって、駅の改札が目の前に迫っていた。電車がちょうどホームへ音を立てて走り込み、承太郎はそれに合わせて、長い足をリズミカルに動かして、もう視線の先に、そこだけ長く揺れる前髪を探している。
 想像の中の花京院の表情そっくりに、承太郎も微笑んでいるけれど、それには気づいてはいなかった。

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