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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

(承&貞夫)

 父親と直接話すことなど滅多とない。
 ツアーだレコーディングだと、どこで何をしているかを把握しているのはホリィだけで、月に1、2度必ず掛かって来る電話にも、承太郎は滅多と出ることはなかった。
 電話のたび、一応は話をするかとも訊かれるし、貞夫も承太郎はどうしているかと尋ねるらしいけれど、すべてはホリィ越しにやり取りされるだけで、承太郎はもう長い間、父親の声を直に聞いたことがなかった。
 電話の頻度が、そう言えば少し増えていると気づいたのは、いつのことだったろうか。
 誰からの電話だろうと、楽しそうにうきうきと話すホリィの、けれど貞夫からなら声の甘さが少し変わる。それを聞き取れるのも母子(おやこ)の血だろうし、両親の間に通う気持ちの細やかさを忌々しいと感じるのは、思春期の少年特有の敏感さだ。
 その思春期も、ようやく反抗期を含めて終わりに近づいたのかどうか、貞夫を話す時のホリィの、どこか大っぴらに甘えたような所作と、その間に時折交じる、母親のそれとは違う、大人の女性がごく親しい相手に示す深い思いやりの態度に、承太郎が苛立ちよりも胸を突き刺される痛みを覚え始めたのは、あれはいつ頃からだったろう。
 それが始まった時期も原因も、はっきりとわかっていて、承太郎はそれから目をそらしていた。認めれば、痛みが増えるだけだとわかっていたから、相変わらず仲睦まじいらしい両親の様子を、じっと見つめながら無視すると言う、矛盾した態度を貫いている。
 鬱陶しく数日降り続いた雨のせいと、何となく思い立った禁煙が思ったより長く続いていて、喫煙の欲求がちょうど薄れて、心の緊張がほどけていたからかもしれない。どこか物淋しく、承太郎の心が緩んでいたタイミングで、ホリィが受話器を持って承太郎へ振り返った。
 「承太郎、お父さんと話す?」
 古風な台所の壁に掛けられた受話器を、ホリィは、たまたまそこへコーヒーを淹れに来た承太郎へ向かって、単なる習慣で差し出したに過ぎなかった。いらねえもいいやもなく、いつもの承太郎なら振り返りもせず首を振るだけのはずだった。
 その時承太郎は、ごく自然に沸かし掛けた薬缶の火を止め、無言でホリィの方へ手を伸ばし、受話器を取った。ホリィが驚いた顔をして、受話器が手から離れた後もそこから動かず、これはいつものように、承太郎がどけと乱暴にあごをしゃくるまで、承太郎が貞夫を話そうとしていると言う状態に、気づいていなかった。
 「おれだ、親父。」
 承太郎が声を発して、ホリィはやっとそこから退き、何か普通でない様子を察したのかどうか、不安げにそれでも微笑んで台所を出て行く。承太郎はそれを見送ってから、もう半歩電話の方へ近づいた。
 ──なんだ承太郎、どういう風の吹き回しだ。
 「別に、たまたまだ。雨だしな、外にも出れねえ。」
 ──そうか。元気か。
 「ああ。」
 台所の入り口へ、意識しながら背を向けて、承太郎は自分の声を抑える。どうと言うこともない父と年頃の息子の、ありがちに素っ気ない会話だ。それすら滅多と起こらないふたりの間で、貞夫も承太郎自身も、これが何か特別なことなのだと気づいている。
 貞夫の電話の回数が増えている。承太郎がエジプトから戻って以来だ。ホリィが危険な状態だったのだから、その様子を尋ねにだろうと決め込んでいたけれど、目的の半分くらいは、今はすっかり元気を取り戻したホリィではなく、旅から帰って以来、以前以上にむっつりと黙り込んで、旅の間のことはひと言も語らない承太郎を両親ともが心配してのことなのだと、承太郎は何となく気づいていて、それでもそれもきっぱりと無視し続けていた。
 あからさまに思いやられるのは苦手だ。それが両親からなど、この年頃なら特に、そして承太郎ならさらに、そんな心遣いを素直に受け取るはずもない。
 しつこく問い質されることもなく、うるさく話し掛けて来ることもなく、だから余計に、その思慮が心に突き刺さる。放っておいてくれと思うくせに、どこかに、誰かに、心の内側にたまり続けているあれこれを吐き出してしまいたい気持ちも、同時に強くあった。
 単なるタイミングだったのだろう。雨の続く日に、煙草を吸って気を紛らわすこともできない時に、長い間直接顔を合わせていない父親が、電話をして来た。
 そしてその父親は、電話の向こうで、承太郎が物言いたげな沈黙を送っていることをきちんと聞き取って、承太郎が口を開くのをただ待っている。思いやり深い沈黙でそれに応えて、承太郎の心の堰が切れるその瞬間に、見誤ずに立ち会うために、父親にしかできないそんな態度で、承太郎を見守っている。
 外で、雨の音が、少しだけ強くなった。
 「親父。」
 ──何だ。
 「・・・友達が死ぬってのは、どんな気分だ。」
 貞夫が黙る。今度の沈黙は、言葉を選ぶために息を飲んだ音が、はっきりと含まれていた。
 それから、そうだなあ、と、どこかのんびりとした、だからこそ深く沈痛な響きのこもる、大人の男の声が、海と陸を越えた長距離電話特有の雑音で、ところどころかすれて届く。
 ──つらいな。
 短く、貞夫はまずそう言った。そしてまた、沈黙が挟まれた。色んなことを思い出しているのだと、承太郎にもはっきりとわかる、貞夫の沈黙だった。
 なぜか今、貞夫も、電話の向こうで壁に向き合い、足元辺りへ視線を落として、今は目の前にないものを見ようとしているのだと感じられた。貞夫の思考を、まるで脳同士が繋がりでもしたように鮮やかに受け取って、承太郎は貞夫の見ている何かを一緒に見ながら、ゆっくりと瞬きをする。
 ──音やら声やら写真やら、時々動いてる姿やらも残ってるのに、当の本人には会えないんだからな。まだそんな歳でもないってのに、酒やら事故やら病気やら、覚悟のできてる時もあるが、不意打ちも多いからな。
 承太郎は、父親が話すのを黙って、恐ろしいほど真剣に聞いている。
 ──もうそれ以上思い出が増えねえってのは、時間が経つと余計につらいもんだ。こっちは歳食う一方ってのに、向こうは若いまんまだからな。
 口調が少し乱暴になって、素を剥き出しにした貞夫が現れる。父親として、人として、男として、貞夫が承太郎に向かって喋る。乾いた地面が、雨のひと雫を吸い込むように、承太郎は貞夫の言葉を腹の底の底へ飲み込んでいた。
 「そうか。」
 やっと相槌を口に出して、いつの間にか汗をかいていた左手から、受話器を右手へ持ち替える。
 ──承太郎、おまえ、泣いたか?
 頭でも撫でるような、ひどく優しい声で、貞夫が訊いた。その、撫でるはずの手に横面でも張られたように、承太郎はぎゅっと目を閉じて息を止めた。心臓がどくどくと鳴るのに、呼吸もできないような息苦しさを覚えて、やっと深呼吸をすると、息と一緒に言葉を搾り出す。声は、震えながらかすれていた。
 「泣いたら、泣けたら、楽になるか? そういうもんなのか親父。」
 嘆息のような、止め切れずにこぼれたと言うような、ため息の音が、向こう側から聞こえた。承太郎はまたぎゅっと目を閉じる。
 ──さあな、どうだろうな。
 そのため息交じりに、貞夫が答えた。飾りもない、隠しようもない、そのまま心を取り出したような本音だと、承太郎にも分かるその響きが、承太郎の今の辛さではなく、貞夫が今まで抱え込んで来た辛さの量と重さを表していて、この男は、自分の倍以上を生きて来た男なのだと、承太郎は突然知ったように愕然とする。
 考え考え、貞夫がかちかちと歯を鳴らしている。貞夫もきっと、今猛烈に煙草を吸いたいと思いながら、そうすべきではないと思って、それに耐えているのだろうと承太郎は思った。
 ──多分な、承太郎、大事な人が死ぬってことは、残される人間の一部もその時一緒に死ぬってことなんだ。生き残った人間は、減っちまったその部分で生きて行くからつらいんだ。でも、死んだ方は、だからひとりっきりで死んだってわけじゃない。オレらも一緒に死んで行ったんだ。死んだ後も、オレらは一緒にいるんだ。全部じゃないが、死んだ人間もオレらとずっと一緒にいるんだ。 
 慰めのただその場限りの言葉ではなく、ずっと考えて来たことを、承太郎のためにきちんと言葉にしたように、時々間がありながら淀みなく、貞夫が丁寧に語る。彼らはひとりきりで逝ったわけではない。彼らはどこかに在る。そしてだからこそ、我々もひとりぼっちではない。
 ──無理して泣くこたぁない。泣ける時が来りゃ好きなだけ泣ける。今はそれでいいんだ、承太郎。
 承太郎の涙の代わりのように、わざとぞんざいな貞夫の言葉が胸に降って来る。まだ流れない涙をまた飲み込んだまま、承太郎はうなずくでもなく首を振るでもなく、ただ貞夫の言ったことを素直に受け取って、心の中でだけ貞夫に感謝した。
 会話の終わりは、またな、ああ、と、何の変哲もない締めくくりで、胸に食い込んだ痛みの素振りも見せずに、承太郎は電話を切った。
 雨はまだ降っていた。傘を差して、近所の自動販売機へ向かうために、承太郎は台所を出ようと肩を回す。体半分で止めて、もう一度、もう静かになってしまった電話へ目を凝らし、涙の波のようなものが胸の底を揺らしたけれど、やはり涙は出なかった。

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