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30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 図書館で横溝正史を借りて、表紙のおどろおどろしさにも関わらず、うきうきとした気分で階段を駆け上がる。とうに放課後で、部活の面々は学校中に散って、屋上へ向かうこの辺りはしんと静かだ。
 なぜか鍵の掛かっていない──花京院は、いつもそれにくすりと笑いをこぼす──扉を開け、さあっと吹いて来た風と太陽のまぶしさに目を細めてから、扉の隙間に顔だけ差し入れてきょろきょろ辺りを見回す。
 「承太郎。」
 期待した通りに、先客がいた。
 「おう。」
 ここへ上がる階段部分を囲う壁にもたれて坐り、承太郎はちょうど煙草を取り出したところだった。
 ここは承太郎の喫煙場だ。空のジュース缶をきちんと携えて、灰が散って汚れないようにと言ったのは花京院だったけれど、案外きれいに使っている。教師が叱りにやって来ないのは、承太郎が恐ろしいだけではなく、そんなせいもあるのかもしれない。
 承太郎の左へ、花京院の腰を下ろし、早速借りて来た文庫本を開く。
 「この間と同じ本じゃねえのか。」
 まず一服、花京院の方へ煙が行かないようにちょっと顔の向きを気にしながら、承太郎が手振りで花京院の本の表紙を指し示す。
 「いや違う本だ。表紙は全部同じ人が描いてるからな。」
 「似たような表紙ばっかじゃねえか。中身も同じようなもんじゃねえのか。」
 「好きに言ってればいい。中身が同じ、は潔く赤川次郎に贈ろう。」
 「やかましい。」
 読む量は花京院ほどではないにせよ、承太郎も意外と読書好きだ。ただ花京院とは趣味が違う。花京院は、赤川次郎は3冊読んだきりで、承太郎は横溝正史は2冊でやめにした。
 時々、互いに図書館で手にする本の貸し出しカードに互いの名を見つけて、ちょっとくすっとしてから、自分も借りるかどうかを迷う。素直に借りて読むこともあれば、相手の趣味に冗談めかしたけちをつけることもある。図書館でふたりが別々に、一緒に見つけた、新しい楽しみだった。
 左手に開いた本を持って、花京院はもう読書に没頭し始める。何しろ横溝正史は、1行目から集中しないと頭の中で登場人物と物語が迷子になる。花京院には、もうグラウンドから届く野球部の猛練習の喧騒も聞こえない。
 承太郎は、一瞬で本の世界に入り込んだ、やけに真剣な花京院の横顔を眺めていた。
 待ち合わせと、特に話し合って決めたわけでもなかった。喫煙を──特に、校則違反の校内での、未成年の喫煙を──、特に歓迎しているわけではない花京院が、吸い殻を散らかさない限りは承太郎の振る舞いに特に文句は言わず、承太郎と一緒にいれば、こんな風に煙草を吸う場に立ち会うこともあって、いつの間にか、放課後や昼休みに時間が空けば、承太郎がここにいることを期待して顔を出すようになった。
 花京院が煙草の匂いをさせながら校内を歩けば、目をそばだてる輩も当然いたけれど、それは花京院が承太郎のそんな近くにいられるほど親しいと証明するだけのことになって、教師からすら悪い意味で一目置かれる結果になっただけだった。
 花京院は、斜めに送られる好奇と恐れの視線を、さらりと受け流している。
 お互い物好きだなと、承太郎は花京院を眺めて思う。
 左手はきちんと本を、傷めない程度に開いて持ち、仕事のない右手は行儀良く膝に置かれている。承太郎は、花京院のその右手を、煙草を吸う間の暇つぶしに取り上げた。
 「何だ承太郎。」
 瞳だけ承太郎の方へ動かして、ちょっと鋭く花京院が問う。
 「別に。何でもねえ。」
 ちょっと肩をすくめ、花京院が手を取り返さないので、承太郎はそのまま花京院の手を、自分の左手の中に握り込んで、ふたりの間のコンクリートの床に置く。人前でできる仕草ではなかった──不良の承太郎が、よりによって花京院と手を繋いでいる!──から、承太郎は何となく愉快な気分で、花京院の指に触れ続けた。
 承太郎は煙草を吸っている。花京院は本を読んでいる。別々のことをしながら、ふたりは手を繋いで、放課後の屋上に一緒にいる。なぜ一緒にいるのかと、承太郎の頭の中で声がした。一緒にいたいからだと、承太郎は煙を吐きながら、声に向かって答えた。
 花京院の指先が、承太郎の掌の中でもがいた。少し力をゆるめると、するりと指が滑って離れ、何かと自分を見た承太郎の方はちらとも見ず、花京院は本のページをそっと繰る。それからまた、今度は自分から承太郎の手の中へ自分の手指を戻して来る。
 「片手じゃめくれねえか。」
 「本が閉じてしまったら、読んでるところを探すのでもっと面倒になるじゃないか。」
 一瞬でも手が離れるのが不満で、承太郎はスタープラチナにこっそり空の缶を支えさせて煙草を消しながら、
 「ハイエロファントにやらせりゃいいじゃねえか。」
 「そういう不精なことはしたくない。」
 ちらっと、不精と言った時だけ、スタープラチナの青い影の方へ視線が流れた。
 本を読む時は開き過ぎないように、表紙の折り返しが、読み終わった後に丸まっているなど言語道断、その折り返しをしおり代わりに使うのもいやだ、本を読む時は、本そのものに敬意を払って、と、花京院にはあれこれとこだわりが多い。読み掛けの本を、その場に開いたまま伏せて置いた承太郎へ向かって、エメラルド・スプラッシュを4粒だけ飛ばして来たこともあった。
 承太郎が、花京院から初めてもらった贈り物は、10枚入りの絵画のしおりの半分だった。どこかの美術館で買ったと言う、色とりどりの紐──あれはそのまま、栞紐と呼ばれるのだそうだ──のついた、つやつやときれいに光る厚手で大き目のそれを、花京院は承太郎の好きに5枚選ばせてくれた。
 高校入学の時に、金色の、薄い金属製のしおりをもらったんだ。あんまりきれいでもったいなくて使えなくて、しまったままなんだ。残った自分の分のしおりを元に戻しながら、花京院が手元に視線を落としたまま語る。その横顔が、そのきれいだと言うしおりと同じくらい──と承太郎が想像した──きれいに見えて、結局承太郎も、花京院のくれたしおりを触れるのももったいないような気がして、まだ使えないままでいる。
 妙な話だ。こうして手に触れることはできるくせに、花京院のくれたしおりには触れられない。ふん、と承太郎は、自分のことを心の中でちょっと笑った。
 次の煙草に火を点けようかどうか、そのために手を離すべきかまたスター・プラチナを呼び出すべきかどうか、迷う間に、花京院の目の動きが左側のページのいちばん最後へたどり着く。
 承太郎は前を向いていた体を横向きにして、ずりっと花京院の方へ体全部を滑らせた。握った手は離さない。
 「次のページか。」
 花京院の手が外れてしまわないように、ぎゅっと握りしめてから、顔をいっそう近づけて訊く。
 「・・・ああ。」
 訝しげに、また瞳だけを承太郎の方へ動かして、花京院がうなずいた。
 承太郎は右手を伸ばして、花京院が読んでいる本のページを、長い指先でそっとめくった。
 わざと、自分の方へ顔を向けた花京院の方は見ず、また体の向きを正面に戻すと、空いた右手で煙草の箱を取り出して、次の煙草へ掛かる。
 「・・・君は、時々思いがけないことをするな。」
 承太郎はそれには応えず、唇に挟んだ煙草の先だけを見ていた。
 手は繋がったままだった。そして承太郎が動いたので、ふたりの間の空間もやや狭まり、ちょっと膝を曲げれば花京院の足に触れる、そんな距離に近づいていた。
 重なった手がちょうど収まる分だけ距離を置いて、花京院は本を読み続け、承太郎は煙草を吸っている。
 数分後には、花京院の方から、次のページへめくってくれと、承太郎へ本をちょっと差し出して来る。
 「読むのが、早いな。」
 「そんなことはない。普通だ。」
 素直でない花京院の指が、承太郎の爪の生え際をそっと撫でて来た。陽射しを浴びる爪の照りが、花京院のくれたしおりのなめらかな表面を思い出させる。
 やれやれだぜ。何もかも、この世界のすべてが花京院へ繋がる自分の心持ちへ半ば呆れながら、承太郎はいつもの口癖を喉の奥でだけつぶやいて、また少し、握った手に力をこめた。

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