/ 戻る /

30の感情に関する一文字の御題1@6倍数の御題

 肩や背中を押されるようにして、電車を降りる。ホームへ爪先を滑らせて、わざと歩調をゆるめ、足早に進んでゆく人波から遅れて距離を置いて、花京院は上向いて小さくため息を吐いた。
 疲れた、とつぶやくほどではないけれど、すっかり遅くなって、早く家に帰りたいと思うのに足がただ重い。抱きかかえられて運ばれたいと、思う程度には疲れていた。
 階段を渡った向こうのホームへ、電車が走り込んで来る。新たな人込みにもまれるのがいやで、花京院はいっそう足を引きずるように歩いた。
 ほとんどどよめくように、また人がどっとホームへ降りて来て、足早に階段へ向かっているのが見える。そして、その人込みから頭ふたつ突き抜けて、ゆったりと歩く白い姿を見掛け、花京院は思わず一瞬足を止めた。
 承太郎だ。人の流れなど一向に解さない、むしろ見えてすらいないように、優雅にほとんど肩を揺すらずに歩いている。周囲が承太郎を避(よ)け、そこだけ見えないバリアでもあるように、薄く空間が空いているのが、花京院のところから見えた。
 突然エネルギーを得たように、花京院は階段を駆け上がり始めた。さすがに1段飛ばしはしなかったけれど、階段を上がり切った承太郎を見逃さないために、わざわざそちらのホーム側の階段へ近づいて、白い長身が、泳ぐように近づいて来るのを待つ。
 無意識に、花京院は、ハイエロファントをうっすらと自分の肩回りへ漂わせた。
 「花京院。」
 スタンドの気配を素早く感じ取ってか、ほとんど階段を上がり切ったところで承太郎が顔を上げ、花京院を見つけて足を止める。
 「偶然だな、君も今帰りかい。」
 流れるように近寄って来る承太郎と、ごく自然に肩を並べて、花京院は首を伸ばして上向いた。
 「家にいるかどうか、電話しようと思ってたところだ。」
 学生かばんに良く似たブリーフケースを片手に、承太郎のそれはあちこちすり切れて使い込まれて傷だらけだ。花京院の黒光りするアタッシュケースはSPWからの支給品で、厳重な鍵つきのまだ新品だった。
 ふたりはそれぞれかばんを右手に持ち、人の流れから少し遅れて、一緒に改札を出る。
 駅前はまだ人があふれていて、まぶしいほど明るい。少し離れて、大きな道路を挟んでほぼ向かい合っているコンビニエンス・ストアの前は、どちらも塾帰りらしい学生たちでいっぱいだった。
 「メシはどうした?」
 「7時くらいに一度食事には出た。どうせ家に着いたら君がコーヒーでも淹れてくれるんだろう?」
 「じゃあチェリータルトの残りは半分こだな。」
 「いいだろう、文句はない。」
 ふたりの住まいは、この駅から歩いて10分足らずのマンションだ。駅の向こう側はいわゆる繁華街で、そちら側は深夜を過ぎても騒がしいけれど、こちら側は数分歩けば静かになる。時々自動販売機があるだけで、後は街灯の明かりばかりの道筋だ。
 ふたりの足音だけが響く。細い道には車も滅多と通らず、ふたりは道の端に寄りながら、あまり気にせず並んだまま歩いた。
 「帰ったら風呂だなあ。」
 花京院がぼそりと言うと、
 「コーヒーも風呂で飲むか。」
 満更冗談でもなさそうな口振りで承太郎が言った。
 「それはやめておくよ。コーヒーのカフェインも効きそうにないからな。先にゆっくり手足を伸ばして、筋肉をほぐしたい。」
 「・・・一緒には入らねえってことだな。」
 ちょっと花京院の方へ背中を丸めて顔を寄せて、承太郎が小さくささやく。花京院はばつが悪そうに肩をすくめ、
 「・・・今夜はパスだ。1日中机に張りつきっ放しで肩も首も腰も痛い。」
 「いいようにこき使われてやがる。」
 「仕方がないな。僕が頼んだわけじゃないが、実質的に僕、と言うか、僕らの命の恩人だからな、SPWは。」
 僕ら、とそう言った時に、花京院は苦笑で唇の端を上げて見せた。
 すでに昔と言ってもいい話だけれど、いまだ花京院の体調を、SPWが親身に心配しているのはほんとうだったし、承太郎もあまり後先考えずに無茶ができるのも、いざとなればSPWが融通を利かせてくれるとわかっているからだ。
 花京院──たち──の、その恩を感じる気持ちにつけ込んでかどうか、心配していると見える割には、生まれつきのスタンド使いであり、学業でも仕事でも優秀な人材である花京院を、必要に応じてこき使うのには遠慮がない。
 急に、承太郎が足を止めた。
 「おい、こっちだ。」
 左へ折れる、小さな道へ向かってあごをしゃくる。
 そこへ入っても、少し先でさらに左へ折れればマンションの前辺りへは出るけれど、少しだけ余計な遠回りになる。花京院はちょっと眉を寄せてあごを引いた。
 「いいから来い。」
 承太郎は、右手に持っていたかばんを左手に持ち替え、空けた右手で花京院の左手を取った。
 「おい、そっちに何の用だ承太郎。」
 強引に手を引かれ、渋々細い道へ入ってゆく。車が1台やっと通れそうな道は、ふたりが並べばほぼいっぱいだ。承太郎は道の真ん中を、花京院と肩をくっつけるようにして歩く。手は、取られた時のまま、今は掌を合わせて繋がれている。
 背の高さで、男女の組み合わせには見えないだろうけれど、どちらにせよ、この道はいっそうひっそりとして通る誰も見掛けない。明かりも少なく、マンションまで、誰かとすれ違うとも思えない静けさだった。
 暗さと静かさに安心したように、花京院は十数歩歩いたところで、そっと承太郎の肩に寄り添って行く。この道なら確かに、こうして歩いていても見咎められることはなさそうだった。
 たとえば、ジョースターと直接付き合いのあるSPWの一部の人間たちや、承太郎の両親、そして花京院の両親も、すでに知っているふたりの仲とは言え、外で堂々と手を繋いで歩けるほど世間は開けてはいないし、兄弟のような間柄だと言う言い訳で一緒に暮らしはしていても、外向きにあくまでただの友人同士のふたりだった。
 路面に、輪郭の交じり合ったふたりの影すらない薄暗がりに沈み込んで、ふたりは手を繋いで夜道をゆっくりと、家に向かって歩く。
 「週末まではお預けらしいからな。」
 遠回りの弁解のように、承太郎の声が降って来る。だからこのくらいは許せと、そういうことかと、花京院は駅に着いた時よりは軽くなっている足取りで、けれど承太郎にわずかに寄り掛かるような姿勢は崩さない。
 「週末が木曜からならいいのにな。」
 水曜になるのに、もう少しだけ時間のある火曜の夜、花京院が承太郎の広い肩に、こめかみの辺りをこすりつけた。
 「まったくだ。」
 妙に実感のこもった承太郎の言い方で、肩が少し揺れた。
 道が、真っ直ぐと左手に分かれている。ふたりの足が、同時に止まった。見つめ合って、うなずき合う前に、曲がらずにそのまままた進む。
 曇っているわけでもなく、月も星もない暗い空を、承太郎が不意に仰いだ。
 「月でも出てれば、月がきれいとでも言えるのにな。」
 声の終わりに笑いが交じる。冗談らしいそれを、花京院は真面目に受け取った。
 「そんなまどろっこしい言い方なんかしなくても、僕は君が好きだぞ承太郎。」
 手を強く握る。一緒に、もっと近く肩を寄せた。
 「コーヒー抜きで寝た方が良さそうだな。疲れ過ぎて酔っ払いみたいじゃねえか。」
 「酔ってるもんか。疲れて頭はうまく働いてないが、僕はちゃんと正気だ。」
 「おう。」
 まるで反論するように花京院が言うのに、承太郎があしらうように適当に相槌を打った。
 マンションの位置が、ふたりの左側を少し遠くなる。ふたりは構わず、次に左へ曲がる道まで歩き続ける。融け合ったように、ふたりの掌はすき間もなく繋がれている。
 このまま、ずっとどこまでも歩いて行けそうな気分になって、花京院はほんとうに酔っ払ったように、少し愉快な気分で、
 「承太郎、スタープラチナを呼び出せ。」
 弾むような命令口調の半ばに、もうハイエロファント・グリーンが、ふたりの背後に現れていた。それに肩越しに振り向いて、承太郎は言われた通り、スタープラチナを出現させた。
 主のふたりを写したように、スタンドが2体、体を近づけ肩を添わせる。ハイエロファントの長くほどけた手足がスタープラチナの手足に巻きつき、暗闇の中で、青と翠の溶け交じる光が、ふたりにだけははっきり見えた。
 路面には相変わらず影がなく、ふたりの揃えた爪先の輪郭だけがかすかに見える。足音だけをさせて、ふたりは闇の中へ紛れ込んでいた。
 街灯の明かりを避けるように、ふたりは道の真ん中を歩き、次の曲がり角まで、またわざと速度を落す。この場で口づけを盗む勇気は恥じらいで覆い隠して、それは家に着いてからと、スタンド越しに言い交わした気配が、重なる足音に紛れた。

/ 戻る /