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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

06.夜の気配

 必要なものだけジーンズのポケットに入れて、花京院は空手で家を出る。
 勉強の合間の気分転換と言うことになっている時々の夜の散歩は、親に見つかれば、気をつけてね、あんまり長くならないように、と、決して息子のこの新たな習慣を歓迎などしてはいないと言う、ちょっと重い口調で見送られ、うん分かってるよ、すぐ戻る、とこれもまたいつも同じ返事で、花京院はそそくさと玄関へ行き、靴を履いて家を出たら、後は小走りだ。
 数分歩いたところに、自動販売機の並んだ場所がある。そこは夜中中明るく、缶ジュースや缶コーヒーを手にしている限りは、通り掛かる警官のパトロールに見咎められることもない。
 自動販売機は、花京院の目当てではなかった。
 もう少しだけ先に行ったところに小さな交差点があり、その角に公衆電話がある。透明な狭いボックスは、そこもひと晩中明るく、暗くなれば赤信号が点滅するだけのその交差点の片隅で、花京院は、できるだけ肩を縮めて、できれば誰にも見られないようにと祈りながら、ボックスの扉に手を掛ける。
 テレフォンカードを差し入れ、きちんと作動している証拠の電子音を聞き、とっくに覚えてしまっている番号を、丁寧に押す。
 承太郎は今夜は留守だ。数日前に話した時にそう言っていた。だから花京院は、こうして承太郎の家へ電話を掛けている。
 まだ訪れたことはない、ジョセフの仕事の関係の持ち物と言うことになっているマンションは、承太郎ひとりには広すぎるとたまにこぼすのは、だからいつ花京院が──遊びに──来ても大丈夫だと言うことなのだろうと察してはいるけれど、笑って受け流すだけで、今のところ本気にした振りも見せてはいない。
 承太郎が説明する間取りで、そこに収まる承太郎を想像して、いつだって花京院は、喉と胸のひりつくような痛みを感じている。
 会いたいと、まだ言えない。言ったらもう、止まらなくなる。会いたくて会いたくて、声を聞くだけでは足りないし、週に1度はやり取りしている手紙ではまどろっこしくて、今すぐにだって電車に飛び乗って、承太郎の今住む街へ行きたいと、花京院は毎日のように考える。
 だから、もう電車があるかどうか分からないこんな遅い時間にしか、承太郎に電話ができない。もっと明るい昼日中だったら、きっと花京院はこの交差点を通り過ぎて、全速力で駅へ向かってしまうだろう。
 受験がどうのと、そんなことは放り出してしまえる成績だったし、1、2日ちょっとはめを外したからと言って、後で困ることは絶対にない、極めて勤勉な花京院の高校生生活だ。それでも、突然姿を消したふた月足らずは、親を心配させるには十分だったし、何しろ半死半生で戻って来て、それはようやく近頃ほんとうに回復したと言える状態になったばかりだ。
 そんなところに、"ちょっとだけ"とはめを外したら、今度は家から出してもらえなくなるなと、花京院は受話器にいっそう耳を近寄せて考えている。
 何しろ、と続けて花京院は思った。承太郎と同じ大学を受験すると多分ばれてはいないだろうけれど、三者面談の話をした時の両親の顔に一瞬不審気な色が浮かんだのを、聡い花京院が見逃すわけもなかったし、それが一体承太郎絡みなのかどうか、わざわざ互いに訊ね合うと言う、藪をつついて蛇を出すような事態になりたくないのはお互いさまだったようだ。
 口数少なく花京院の語る、初めての親しげな友人が、街中にその名を轟かせる不良だと知って、その時の沈黙がすべてを物語っていた。友達ができたのはいいことだが、我が家でそのような輩を歓迎することはしない、と言うのが両親の一致した意見だった。
 友達どころか、と花京院は受話器に向かって、誰ともにもなくつぶやく。
 僕は、承太郎が好きなんだ──。
 受験なんか放り出して、さっさと荷物をまとめて、もう一生父さんや母さんに会えないならそれも仕方ないって、承太郎のところへさっさと飛んで──文字通り、空を飛んで──行きたいくらい、承太郎のことが好きなんだ。
 若気の至りと言う言葉を知っていて、自分がそれに思い当たれる若者は数少ない。その稀少のひとりである花京院は、時々自分を襲うこの衝動がまさしくそれと知っていて、それでもまれに、それに押し流されてしまいたくなることがある。
 ほんとうに、思うままに、承太郎のところへ走ってしまいたい。承太郎の両親が駆け落ち同然だったと聞くと、そういうやり方もあるのかと、ちょっとの間真剣に考えたほどだ。
 承太郎は意外に冷静に、大学に受かればここに来れて、一緒にいられるとあっさり言う。一緒に暮らすのは、最初は無理でも、花京院の親の目を気にせずに互いに行き来するのは自由にできるようになるからと、まるでひとり焦る花京院の心中を見通したように、もうちょっとだけ待てと、ブレーキを掛けるようなことを言う。
 これが、半年ちょっと先に生まれた、もう実家から出てしまった男の余裕かと、自分の幼さを少しだけ恥じながら、こんなことでは承太郎に嫌われると、ふと思いもした。
 後せいぜい半年だ、それだけ待てば、親の心配そうな顔など目にせずに、承太郎に気軽に会えるようになる。もしかしたら、毎日だって──。
 留守番電話の、機械的な女声が、電話を取れないから伝言を残せと、丁寧な言い方で言う。自分の声には入れ替えていないこの工場から来たままのこの声を、最初は味気ないと思っていたのに、今ではこれが承太郎の声でなくて良かったと、花京院は思うようになっていた。
 「僕だよ、今日はいないってのを忘れてた。別に何でもないんだ。また明日掛ける。じゃあ、お休み。」
 そこで一度言葉を切ってから、
 「承太郎。」
と、続けた。その後にまだ何か言い残したい気分を振り切れず、4秒かかって、やっと受話器を置いた。
 留守電から聞こえる声が承太郎のものだったら、花京院はメッセージの録音も待たずに話し始めてしまうだろう。承太郎が聞くのは、自分の名前を呼び続ける花京院の声だけになる。こんなところでは面倒くさがりの承太郎に感謝して、まだ受話器から手は離さず、花京院は浅くため息をこぼした。
 家から電話するのは別に構わない。けれど両親の気配があれば、あれこれ好き勝手に何もかも言うことはできないから、花京院はこんな風に、時々公衆電話から承太郎へ電話する。そしてさらに時々、承太郎がいない時に、自分の声だけを残すために、承太郎に電話をする。離れてはいても、きちんと繋がっていると確認するためだけに、花京院は承太郎に電話をする。
 承太郎の声は、聞こえない方がいい。聞いてしまったら、こんな夜には、きっと素直になり過ぎてしまう。会いたいと、胸の中でだけ思っていることを、つい口に出してしまいそうになる。
 言うのは簡単だ。けれどその後で、自分を止められなくなったらどうするのか、花京院には分からない。
 好きだと言うだけでは、全然足りない。でもだからと言って、それ以上のことも思いつけない。
 やっと足を外に向け、ボックスの外に出る。それから自動販売機へ向かい、ジーンズのポケットから小銭を出して数えた。どれにしようかと、ボタンを押す指先を迷わせ、花京院は承太郎の好きな缶コーヒーを見つめて、ひとり微笑んだ。
 前の冬には、ふたりで小銭を出し合ってひとつ買い、分け合った思い出がある。また同じことができるはずだ。もう少しだけ、もう少しだけ待てば。
 待てるだろうかと、はやる自分の心を抑えかねて、花京院は熱いコーヒーをひと口飲んでから、
 「承太郎・・・。」
と、声に出してつぶやいていた。
 ここだけ、まるで昼間のように明るい。数歩下がればすっかり暗いのに、機械の放つ明かりのおかげで、今が真夜中に近い時間だとうっかり忘れそうになる。
 「・・・承太郎。」 
 どれだけ呼んでも、返事などあるはずのない相手の、その名を花京院はまた口にした。
 そうしてふと、腹の辺り──大穴の開いた、傷の上──に、あたたかな空気が巻いた気配があった。
 気をつけて帰れ。
 そこに立つだけで、周囲を圧倒する空気。花京院にとってはひたすらのぬくもりの、承太郎の体温。それを自分の隣りに確かに感じて、花京院は思わず向けた顔を少し上へ上げた。
 風邪引くな。
 はっきりと、自分の隣りに立つ承太郎を見た気がした。しただけだ。承太郎がここにいるはずがない。それでも、花京院は思わず空へ向かって微笑みを浮かべ、
 「・・・ああ、そろそろ帰る。」
と、応えている。
 そうだ、家に帰ろう。僕の家へ。
 まだ中身の残る缶を手に、花京院は来た道を引き返し始める。振り向かずに、お休み承太郎と、心の中でだけ言った。おやすみと、かすかな声のようなものが耳に届いた。足を止めたい気持ちを振り切って、花京院は自分の部屋の、やり掛けの開いてきたままのノートへ、やっと心を戻し始めていた。

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