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雰囲気的な10の御題"在"("here")@loca

05.微笑む君は

 突然の夕立に、慌てて駆け込んだのは煙草屋の軒先だった。
 店はもう閉まっていて、邪魔になる心配はせずに、ふたりは広い肩を寄せ合って、路面を叩いて跳ね返る雨粒も避ける。
 暗くなった空を見上げ、しばらくやまないと決め込んだ承太郎は、早速ごそごそと上着のポケットを探って煙草を取り出す。
 煙草屋の店先で、高校生が制服のまま煙草を吸うのはどうかと、花京院が隣りでちょっと眉を寄せた。承太郎はちらりとそれを見て、それでも構わない風に次にはライターの居所を探り、それから一体どうしたのか、ポケットの中で手を止めたきり、火は点けない煙草をくわえたまま、また雨空を見上げた。
 「・・・湿気ると、煙草が美味くねえ。」
 ほんとうに雨が理由か、それとも花京院の表情を気にしてか、唇に挟んだ煙草には結局火は点けられず、承太郎はつまらなさそうにくわえた煙草を時々振って、見るともなしに降り続ける雨を眺めている。
 火も点けない煙草をただ唇に差した承太郎を、花京院は雨と一緒に見つめた。喫煙と言う行為には何の感想もないけれど、そうやって煙草を吸い差し──実際に吸ってはいない──ている仕草は、承太郎がやるとひどく格好良く見える。
 同じ年頃の同性を掴まえて、古い小説にでもあるように、美しいひとと称するのはどうかと思いながら、普通なら女と書いてひとと読ませるだろうそんな字面が、承太郎には怖いほどしっくり来る。
 夫と書いてつまと読ませたり、良い人と書いておっとと読む古い小説の文面の、少し印刷の危うい字たちの上に、夕立の雨音の中にふたりきりで閉じ込められて、花京院は糸でも紡ぐようにするすると連想を遊ばせて、自分の今思い出す言葉や文章が、すべて恋する相手の描写だと、途中まで気づいてはいなかった。
 「やまねえな。」
 不意に承太郎が言う。しゃべるのと一緒に煙草が上下に揺れ、唇がきちんと動かせずにこもった発音の承太郎の声に、花京院は弾かれたようにひとりの物思いからすくい上げられて、慌ててごまかすように微笑した。
 「・・・別にこのまま、ずっとここにいたって構わねえがな。」
 横目で視線を流して、承太郎が続けてぼそりと言う。承太郎の言葉が、言ったことそのままではないように聞こえて、考え過ぎだと思いながら、花京院の心臓がどきりと跳ねる。
 「・・・僕も別に構わないが、店の人が困るだろう。」
 常識と冗談を程良く織り交ぜて、花京院は何とか動揺を悟られずに、浮かべた微笑の色合いは変えないままだった。
 唇から一旦煙草を取り、ふっと黙った承太郎の伏せた目を覆うまつ毛が、目元に影を落とすほど長い。その細かな線をひとつびとつ、絵を描く人間の目で焼き付けるように見つめて、花京院は知らず息を止めていた。
 「・・・早く帰りてぇか。」
 そう問われて、それが今これから家に帰ると言う意味では決してない響きを聞き取って、花京院は承太郎には見えないようにかすかに喉を上下させてから、
 「・・・いや、別に。」
 君とずっと一緒にいたい。花京院が胸の中で答える。おれもだと、承太郎の、これも声のない答えが、どこかから響いて来る。
 承太郎の長い腕が、そっと静かに、湿った空気も揺らさずに動いて、さらに長い指が、花京院の肘の内側へ触れた。制服のなめらかな生地を滑り、手首から掌を合わせるように、花京院の手へ下りて来る。驚く間もなく、指先が指の間へ滑り込んで来た。
 「やまねぇな。」
 さっきよりもずっと優しい声音で、承太郎がまた同じことを言う。
 ごつごつと、指の節が重なる。そのまま、痛みに声を上げるくらいに、ぎゅっと握ってみたかった。そうすることはせずに、ふたりはただ指の間に相手の指を感じて、自分の手ではないそれを、心からいとおしいと思った。
 「ああ、やまないな。」
 口移しに、今度は花京院が言う。今浮かべている微笑にははにかみが混じって、頬が良く見れば薄赤い。気づいていて、承太郎は見ない振りをした。
 そうして花京院の手に触れたまま、煙草を唇の間へ戻すとライターを取り出し、その先へようやく火を点ける。雨の匂いと煙草の匂いと、混じり合ってふたりを包んで、そこだけふたりのために区切られた空間のように、ふたりはそれきり黙り込む。
 雨の音だけが響き、そこへ、煙を吐く承太郎の呼吸の音がかすかに紛れて、花京院はそれにじっと聞き入った。
 唇の端にかすかに浮かんだ花京院の微笑は消えないまま、それを視界の端に捉える承太郎の、頬が今は薄赤い。

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