期間限定花京院誕生日祭り


(10)

 承太郎の部屋へ戻ると、承太郎はベッドの傍に坐って、何かぶ厚い本を、あぐらの上に開いていた。
 「すんだか?」
 そこから、ドアを通り抜けたばかりの花京院に訊いて、そうするのが当たり前だとでも言うように、少しだけ腰をずらして、自分の隣りを坐れと指し示す。
 「何読んでるの?」
 「サメの生態の本だ。」
 承太郎のそばに、膝を折って坐り、腕の辺りに頭をすりつけるような姿勢で、花京院は承太郎の本のページを覗き込んだ。
 並んでいるのはアルファベットに見えた。そして、学校で習ったはずの英語の単語が、何ひとつ読めない。思わず眉をしかめて、ちょっと尖った声を上げる。
 「全然読めないよ。」
 「ドイツ語だからな。」
 花京院は、承太郎を見上げて、さらに顔をしかめた。
 「・・・ドイツ語も読めるの?」
 「自分の専門ならな。」
 特にどうと言うこともないと言いたげな、ごく普通の声音で、承太郎が答えた。
 アメリカ人のホリィが母親なら、承太郎はきっと英語も堪能なのだろう。その上さらにドイツ語の本も読めるなら、一体承太郎には、何かできないことがあるのだろうかと、花京院は本気で考える。
 算数ができなかったというのは、あれはきっとホリィの冗談で、ごく普通の中学生である花京院のために、承太郎のことをあんな風に言っただけに違いない。
 ケンカばかりだったという承太郎の学生の頃が、急に気になり始めて、花京院は承太郎のかたわらに正座をした姿勢のまま、上目遣いに承太郎を見た。
 「承太郎の学校の時って・・・」
 言い掛けた時、承太郎が静かに本を閉じて---読みかけたページに、指を挟んで---、とてもいたずらっぽく微笑んだ。
 「ギター弾くか。」
 「弾く!」
 今言い掛けたことはすっかり忘れて、即座にうなずく。立ち上がる承太郎と一緒に立ち上がると、さっさとドアへ向かう承太郎の後を追って、部屋を出る前に、忘れずに自分のギターケースを取り上げる。
 どこへ行くのか、部屋を出た承太郎は、玄関や台所のある方とは別の方へ廊下を進み、玄関の方とは違う庭を左手に見ながら、その長い廊下の突き当たりの手前で、やっと足を止めた。
 障子や襖の多い、廊下沿いの部屋のは違って、そこも承太郎の部屋と同じに、ごく普通のドアだ。けれどドアの周りには、ぐるりと白い枠がはまっていて、ぶ厚い木の見えるこの家の中で、そこはひどく異様に見えた。
 長い取っ手を押し下ろす形のノブを引いて、承太郎がドアを開けた。
 明かりをつけたその部屋は、ぐるりと白っぽい壁に囲まれ、床は毛足の短い絨毯だった。そして、隙間なく乱雑に並べられた、エレキギターの群れ。向かいの壁際には、一方に大きなステレオのセットが置いてある。その向かいには、花京院の背よりも高い、巨大なスピーカーが1台、どことなく淋しそうに佇んでいる。スピーカーの腹に書かれた英語らしい名前を、花京院はたどたどしく発音してみようとする。
 よく見れば、ドアの近くの壁際には、キーボードもある。
 明るい部屋の中で、高い天井を見上げて、花京院は眺めに圧倒されて声も出ない。
 承太郎はさっさと、スピーカーの近くの、数人なら坐れそうな床のスペースに、ひとりで先に腰を下ろしてしまう。
 「来い。」
 また、自分の傍の床を掌で叩いて、承太郎が、突っ立ったままの花京院を呼んだ。
 「これ、全部、承太郎の?」
 一体何本あるのか。ざっと数えても2、30本では足りない。形はどれも同じように見えたけれど、傷でもつけたらとんでもないことになりそうだと、そんなことは花京院にもわかる。
 「おれのじゃねえ。親父のだ。ここは、親父の部屋だ。」
 ギタースタンドに立てられた、手近にある1本を、承太郎が腕を伸ばして取る。やや黄色がかった白いそのギターを、特に何も言わずに、そのまま花京院に差し出した。
 え?と、体全体で戸惑いを表して、両手を差し出してギターをうっかり受け取ってしまい、花京院はどうしたらいいのかわからない。
 「触ってもいいの?」
 「何なら2、3本持って行くか? どうせばれやしねえ。」
 ぶんぶんと、慌てて承太郎の申し出に首を振って、恐る恐る、自分のに比べればボディの薄い、まろやかな曲線がひどく魅力的なそのギターを、花京院はそっと優しく抱えた。初めて触れるエレキギターの弦の辺りに、そっと掌を乗せる。
 「承太郎のお父さんは、何をしてる人なの?」
 こんな大きな家に住んで、こんな部屋を持って、こんなにたくさんギターやステレオを持っているのは、一体どんな人物かと、また部屋を見渡しながら思う。
 承太郎も、また別の1本を手に取って、どこに置いてあったのか、すでに手にしたピックで弦を弾きながら、音を整え始めている。
 承太郎のは、ひょうたんのような形をした、真っ黒のギターだ。花京院のに比べると、ひと回りボディが大きい。ヘッドの形も違う。ふうんと、承太郎の抱えたギターと自分のギターを見比べて、花京院は、やや細いネックに添えた手を、するすると滑らせてみる。
 「ミュージシャンだ。今もツアー中だ。春まで帰って来ない。」
 「プロで、音楽やってる人なの?」
 承太郎は、それがどうしたというつまらなそうな顔で、返事の代わりに肩をすくめて見せる。
 一体どういう人かと、もっと訊いてみたかったけれど、承太郎の気乗り薄な反応にちょっと肩を落として、花京院はひとまず初めてのエレキギターの弦を、指先で静かに弾いた。
 ほとんど音はせず、かすかに聞こえるそれは、針金か何かを弾いているような、ひどく味気ない音だった。これを、一体どうやって弾いたら、レコードで聴くみたいな音になるのかと、花京院はひとり顔をうつむけたまま唇をとがらせる。
 「アンプで音出したことがあるか?」
 承太郎の言っていることがよくわからなくて、花京院はとりあえず首を振った。
 薄く笑った承太郎が、体をひねって何か後ろを片手で探り、長いコードを床のどこからか引っ張ってくる。
 「繋げ。」
 コードの端の金具は、イヤフォンのそれとそっくりで、そしてとても大きい。それを手渡されても、一体どうしたらいいのかわからずに、花京院はまた素直に戸惑った表情を浮かべた。
 ここだと、承太郎が、花京院のギターの前面を指差す。なにやらつまみが並んだ辺りに、そう言えば、何かを差し込めるような穴が見える。花京院は、ギターを自分の方へ傾けて、承太郎に言われたように、コードの端をそこへ差し込んだ。かちりと、心地良い音がした。
 承太郎は、ギターをスタンドに戻して立ち上がると、すぐ後ろにある巨大なスピーカーのスイッチを入れ、前面にいくつも並んだつまみをいじって、その途端、ジィーっとスピーカーから雑音が響く。
 「弾いてみろ。」
 スピーカーの前からよけて、承太郎が振り返る。花京院は、人差し指の爪で、6弦から一気に弾き下ろした。途端に、弾けるような大音量が、全身に襲い掛かってくる。花京院は慌ててギターの弦を掌で押さえて、音を止めようとした。
 承太郎が、おかしそうにくつくつ笑っている。スピーカー---これがアンプというものらしい---のそばに立ったまま、突然出た音の大きさにうろたえている花京院を、上から眺めて笑っているばかりだ。
 「びっくりした・・・。」
 自分の家でこんな音を出したら、近所迷惑だと言われて、即座に引っ越す羽目になるかもしれないと、花京院は跳ね上がった心臓の辺りを、右手でしっかりと押さえた。
 エレキギターは確かに魅力的だけれど、やはり弾き慣れた自分のギターの方がいい。自分の前にまた坐り込んだ承太郎に、花京院は、自分の抱いていたギターを両手で差し出した。
 「何か弾いて。」
 弦に触れるだけで音の出るそれは、承太郎が片手で受け取った時も音を立てて、承太郎がしっかりと抱えてからボディ前面のつまみをいじると、その音はやっと小さくなる。
 白いギターは、承太郎が抱えると、何だかとてもかっこよく見えて---ギターも、承太郎も、両方---、まるで別のギターのように見えた。承太郎の腕や指にしっくりと添って、承太郎の体の一部ででもあるかのように、曲線が、きれいに承太郎と溶け合って見える。
 ギターをかっこよく構える承太郎と、承太郎にぴったりと寄り添っているように見えるギターの両方に、花京院は一瞬軽く嫉妬を覚えて、それに気がついて、ひとり頬を赤くした。
 1弦1弦弾いて音を確かめた後で、承太郎は、ネックの上に指先を整えた。
 長い指が動き出す。なめらかに滑って、紡がれた音は、さっき花京院が出した雑音とは似ても似つかない。
 優しいメロディーが4小節、それから、承太郎の小さく歌う声が、そこへ乗った。
 聴いたことのない曲だ。英語の歌詞らしいことだけはわかる。しゃべる時よりも細い、どこか穏やかな声で、承太郎が花京院の方を見ずに、ギターを弾いて、歌っている。
 思わず承太郎の方へ身を乗り出して、花京院は歌に聞き入った。
 弾き終わっても、やたらとギターをあちこちいじって、承太郎は花京院を見ない。照れているのだと、花京院にもわかる仕草で、背中を丸めてギターを抱え込んでいる承太郎が、花京院の目にもやけに可愛らしく映る。
 「どうして、承太郎も、お父さんみたいに音楽で仕事しなかったの?」
 素直な疑問だった。こうやって、ギターを弾いて歌ってくれる承太郎なら、そんなことも可能だろうと、そう素直に思ったことを口にしただけだった。
 少し強く、一気に弦を全部弾き下ろして、承太郎が斜めに花京院を見る。はにかんでいた表情が消えて、どこか傷ついたような、子どもっぽい表情にすり替わる。
 何かまずいことを言ったのだと、花京院が自覚して、質問を取り消そうとするより一瞬早く、承太郎が早口に言った。
 「才能がねえ。」
 言葉の最後をかき消すように、またギターが鳴る。
 後ろのアンプから響くその音が、とてもクリアに、承太郎の心境を伝えてくる。花京院は、坐ったままで肩を縮めた。
 「好きでやる分には勝手だが、それ以上は無理だな、おれには。」
 承太郎がそう言ったのは、きっとほんとうのことだからなのだろうと、花京院は思った。
 親と同じように、その子どももできるのだとは限らない。ギターを弾く承太郎と、サメの本を読んでいる承太郎は、花京院の中でまだあまりうまく像を結ばないけれど、花京院にとって何より肝心なのは、今まで見たどの承太郎も全部、花京院には好ましい人物だということだ。
 こんな風に、自分を見せてくれた大人は、今まで花京院の周りにはいなかった。
 承太郎の言う才能のことはわからないけれど、花京院はありのまま、承太郎の弾くギターが好きだったし、たった今聞いた声を、好きだと思った。だから、素直に、それを口にした。
 「僕は、承太郎のギターも声も、好きだよ。」
 指先で弦を弾いていた手が、止まる。また、斜めに花京院を見て、承太郎の目元が、そうとはっきりわかる赤さに染まる。
 何もかもが完璧に見える承太郎でさえ、こんな風な真っ直ぐな物言いは、あまりされたことがないのだ。承太郎と自分が、どこか似ているように思えて、花京院はその考えを不遜だと思ったけれど、とりあえずお世辞ではないと示すために、滅多と誰にも見せない無邪気な笑みを浮かべて、承太郎の向かいから、その隣りへ膝を滑らせた。
 承太郎の傍にいると安心するのはどうしてだろうと、思いながら承太郎の手元へ顔を寄せる。
 こうやって傍へ寄って来る自分を、承太郎が拒まないことに、いつだって花京院は安堵している。そのことに、まだ自分で気づいていない。
 承太郎の手が、また動き始める。違う曲が、また穏やかに流れ始める。小さく、また歌い始める承太郎の声に、耳を傾けながら、花京院は、承太郎の腕に、甘えた仕草で自分の頭をもたせかけていた。


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