期間限定花京院誕生日祭り


(13)

 承太郎の方に外せない用があり、家庭教師を1週間休んだ翌週、2週間ぶりに会う花京院は、左の頬骨の辺りに、大きなあざを作っていた。
 明るさの足りない玄関で、やって来た承太郎を迎え、明らかにそのあざに当たっている視線に戸惑ったように、子どもらしい仕草で胸の前で両手を遊ばせて、花京院が力なく笑う。
 「随分と、派手にやられたな。」
 事情がわからないから、なるべく軽口に聞こえるように言ってみる。引きつったように、無理矢理な笑いを口元にだけ浮かべて、けれど花京院の目はちっとも笑っていない。
 靴を脱いで玄関を上がり、一応背を向けて靴を揃え、目の前で向き合うと、あざのひどさがいっそうよくわかる。承太郎は、うっかり眉をひそめた。
 「同級生か? 殴られたのはそこだけか。」
 Tシャツの、まだ細い首筋に手を伸ばし、痛めないようにそっと頬へ指を沿わせる。それだけだったのに、花京院はびくっと肩を震わせて、痛そうに顔をしかめた。
 「ガキのケンカは手加減なしだからな。もうちっと慣れたら、力の入れ具合がわかるようになる。」
 「・・・ケンカじゃないよ。」
 承太郎の指を少し避けて、花京院がうつむいて小さく言う。
 「じゃあ親父さんにでも殴られたか。」
 少し大きく首を振った。
 伸び盛りとは言え、まだ明らかに子どもの花京院を、こんなひどい跡を残すほど殴れる誰かというのを、承太郎は他には思いつけず、街でチンピラにでも絡まれたのかと身構えて、相変わらず留守らしい花京院の両親に憚りはないけれど、場所を変えた方がいいと咄嗟に思いつくと、くるりと背を回して、また玄関に、靴を履きに下りる。
 「缶コーヒー買いに行くぞ。付き合え。」
 花京院の返事は待たずに、さっさとドアを開けた。
 驚いた花京院は、上着も着ないまま、靴紐も結ばずに運動靴をつっかけただけで承太郎を追って来て、吐く息の白い外の寒さに、そのまままだ暖房のぬくもりの残っている承太郎の車の中へ乗り込んで来る。
 肩を縮め、シートベルトの中に小さく収まり、車を走らせる承太郎を窺うけれど、何も言わない。
 「何があった?」
 車の中では、花京院の怪我ははっきりとは見えない。その方が都合が良いような気がして、承太郎は前を向いたままで、なるべく淡々と訊く。
 いっそう体を小さくして、胸元にあごを埋めて、花京院が数瞬言いよどんだ後で、
 「先生にね、殴られたんだ。」
 「担任か?」
 「違う。国語の先生でね、放課後教室でギター弾いてたら、ギター学校に持って来るのは校則違反だって言われて・・・。」
 何を今さら、と承太郎は思った。学校でも練習していると、楽しそうに花京院が言い始めてからもうずいぶんになる。第一、来年3年生になったら、授業の一環で強制入部だというクラブのひとつに、ギターを教えるクラスがあって、それに入るのだと、承太郎にギターを習い始めて以来、花京院はずっと言い続けている。そのクラブに入っている生徒は、ギターを抱えて学校へ来るのだろうし、それだけ見ても、ギターを学校へ持って行くのが校則違反だというのは、ひどくおかしなことに思えた。
 承太郎がそう思った通り、花京院もそれを口にする。
 「でもそんなこと生徒手帳のどこにも書いてなかったと思いますけど、って言ったんだ。だから知りませんでした、って言おうと思ったら、襟をつかまれて、殴られてた。何が起こったかわからなかった。」
 痛みよりも、目の前に迫った教師の、怒りに真っ赤にふくれた顔と、まるで荷物か何かのような粗雑な扱いに受けたショックの方が、最初は大きかった。
 怯えや後悔よりも、驚きでまず無表情になったのを、その教師は、こんなことは堪えないふてぶてしさと取ったらしく、すぐに2発目が来た。最初は平手だったけれど、2度目は固く握った拳で、勢いに揺れてたわんだ首と肩の痛みが、後から襲って来る。気がついたら床に放り出されていて、すぐ傍に、弦の切れたギターが倒れていた。
 「・・・ギターに、傷がついちゃった。」
 顔の傷よりも、そちらの方が重大だとでも言いたげに、花京院がぼそりと言う。
 「ギターは買い替えられるが、人間が傷むと、その先公みたいになっちまうぞ。」
 もう明かりの消えた小さな歯科医院の駐車場に車を停め、承太郎は暖房を調節してから、シートの中に体を伸ばした。
 「承太郎も、先生に殴られたことある?」
 両膝にきちんと手を置いてそう訊く花京院に、承太郎は顔だけ振り向ける。
 「跡が残るような殴られ方はなかったな。」
 痛々しいそのあざにあごをしゃくって答えると、花京院が悲しそうに唇を少しとがらせる。
 「おれは体もでかかったし、半分日本人じゃないせいで腫れ物扱いだったからな。代わりに、他校の連中にはよくケンカは売られたぜ。」
 「ケンカしたの?」
 「おれみたいなのを殴り倒すと、ハクがつくんだそうだ。説教だけですんだが、何度か警察の世話にもなった。」
 「お父さんに怒られたりしなかったの?」
 「親父は滅多と家にいなかったし、何でもかんでも冗談にしちまう野郎だからな、おれが少年院に入る羽目になっても、差し入れに新しいアルバム持って来るような、そういう親父だ、深刻になりようがねえ。」
 口調だけ忌々しげに言うと、初めて花京院がかすかに声を立てて笑った。
 この顔では隠しようもないがと思いながら、一応訊いてみる。
 「ちゃんとご両親には、何があったのか言ったのか。」
 「母さん看護婦だから、頭を打たなかったかって心配されたよ。僕が殴られたのは仕方ないって。言いたいことはあるけど、先生の言うことは絶対だから、とりあえず飲み込んで、ギターを学校に持って行くのはやめろって言われた。」
 「・・・おれなら、"一緒に殴り返しに行くか"って言うところだな。」
 「あはは。」
 大きく笑うと傷に響くのか、喉元だけで声を立て、花京院が、それでも一応はおかしそうに表情を作る。少し明るくなった声と目元に、承太郎はやっと安心した。
 それから、声を低くして、花京院の横顔に視線を当てたまま、少し生真面目に言った。
 「理不尽もいいところだが、転校する覚悟でもない限り、教師なんぞとやり合っても何にもならん。時間の無駄だ。ちっこいガキの胸倉つかんでアザ残す殴り方するようなヤツは、同じことされたって何にも学ばねえ。」
 花京院の軽蔑にすら値しないろくでなしだと、思ったけれどそこまでは口にはしない。学校も教師も大嫌いだった承太郎の、いまだ完全には笑い飛ばせないあれこれを、素直な花京院の肩に乗せてしまうのは大人気ないと思えた。
 勉強は好きらしいけれど、どう考えても学校が居心地の良い場所とは思えない花京院は、承太郎とはまた違った意味で、これからまた理不尽な目に遭い続けるのかもしれない。承太郎は、それをすべて、他人が自分に感じるらしい畏怖の念を利用して解決したけれど、花京院はもう少し、賢いやり方で何とかするだろうと思う。
 完全に同意するかどうかはともかく、花京院の方に折れろと両親が言ったのなら、それが花京院側のやり方だ。
 承太郎のように、誰かを殴ることにためらいのあまりないタイプならともかく、教師のいやがらせに対して、暴力で応えるなど考えもしないだろう花京院には、できる限り柳に風で右から左へ流すのが、最も適したやり方だろうと、承太郎にも思えた。
 正しい正しくないだけでは、物事は判断も解決できない。逃げるが勝ちというのは、決してうそでも恥ずかしいことでもないと、大人になった承太郎にはよくわかる。
 5年前だったら、すぐに学校に乗り込んで行って、その教師とやらを無言で殴り倒したろうと思えば、明らかに丸く穏やかになった自分を淋しく思うとか悲しく感じるとか、そんなことがないのも不思議だった。
 それでも、一言、付け加えるのは忘れなかった。
 「卒業式の後のお礼参りなら、いくらでも手ェ貸すぜ。」
 口調が、ごく自然に、高校生の頃とそっくりになっていた。
 今度こそ、花京院が肩を揺すって笑う。
 「ダメだよ、承太郎に殴られたら先生死んじゃうよ。そしたら結婚したばっかりの奥さんがかわいそうだよ。」
 やっと、何もかもが冗談にできそうな雰囲気になって、承太郎も一緒に笑った。
 それから、ちょっと真面目な顔つきになって、
 「なんだその先公、結婚してるのか。」
 「うん、運動会の後くらいだったから、まだ新婚だよ。」
 「家で同じことしてなきゃいいがな、その野郎。」
 花京院を殴れるなら、結婚したばかりの相手に暴力を振るうなど簡単だろうと、ちょっと人ごとながら心配になる。
 「大丈夫だよ、奥さん、すごい気が強い人で、いっつも家で怒られてるんだって。」
 1拍、間があった。
 「・・・八つ当たりで殴られたんじゃねえのか。」
 「うん、多分そうだと思ってる。」
 その瞬間だけひどく大人びた表情と声で、花京院がうなずいた。
 ろくでなしには違いない。その評価は変わらない。けれど、同情する余地は確かにありそうだったし、教え子からひそかに憐れまれるのは、その教師には何よりの罰だろう。
 少なくとも、花京院は、その程度の事情は読んで、最適と思われる対応ができる程度に大人だということだ。その教師よりも、中身はずっと先へ進んでいる。
 だからこそ、ろくでなしたちの神経に障るのだと、そこを同じようにくぐり抜けて来た承太郎にはよくわかる。
 「よし、コーヒー買いに行くぞ。」
 腕を伸ばして、くしゃっと花京院の頭を撫でた。
 伸ばした腕の陰で、やっと戻って来た花京院の普段通りの笑顔に向かって、承太郎も大きく笑い掛けた。


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