期間限定花京院誕生日祭り


(15)

 雨が降り続く日と、蒸し暑い日々が交互にやって来て、そろそろ学生たちが夏休みにそわそわし始める頃だった。
 高校受験を控えて、承太郎が家庭教師にやって来る日が1日増えた分、週末に承太郎のところへ行く──ギターを抱えて──回数を減らすように言われ、否応なしに受験勉強に集中させられながら、それでも相変わらず勉強の合間にギターの練習をして、会えば承太郎と音楽の話をする日が続いていた。
 ある日、珍しく承太郎が花京院の家に電話をかけて来て、泊まりに来ないかと花京院に誘いを掛けた。
 ホリィのいる実家の方かと思ったら、そうではなくて承太郎のマンションの方へだと言う。
 男のひとり暮らしでは食事の期待はできないから、夕食前にどこかで落ち合って食事を済ませてから泊まりにくればいいと言われて、
 「それなら勉強道具は持って行かないよ。」
と半分冗談で言ったら、承太郎はあっさり好きにしろと答えた。
 両親の手前、ギターだけ抱えて空手で行くわけには行かないから、いつものように勉強をしに行くのだという振りはしておくことにして、それなら来週の週末にでもと軽く決めて、両親に話して許可を得るよと言って電話は終わった。
 承太郎のところへ泊まるのは初めてだ。母親はもしかすると少し渋い顔をするかもしれないけれど、受験の心構えがどうのと適当なことを言えば、きっとだめだとは言わないだろう。
 それにしても、急にどうしたのだろうかと花京院は思った。
 ホリィのところへは、あれから何度か一緒に行った。アンプに繋いだエレキギターを一緒に弾き、大きなステレオでレコードを聴いて、その合間にふたりはそれぞれ好きな本を読む。普段なら絶対にしない時間まで夜更かしをして、ホリィが起こさずにいてくれるのをいいことに、ふたり揃って起き出すのは昼過ぎだ。そんな好き勝手ができるのが、承太郎の実家でだけというのもおかしな話だったけれど、自分の家とは違う意味合いでのびのびと過ごし、花京院はすっかりホリィにも馴染んでしまっていた。
 最初の頃に承太郎にそう言われた通り、花京院がひとりきりだとしてもホリィは変わらず歓迎してくれることは、今では完全に間違いなかったけれど、さすがにそれを実行する神経はなく──母親が、まず絶対に許さないだろう──、あそこに承太郎がいるからこそあんなの楽しいのだと自覚していたから、夏休みになったら、週末に平日を2日ほど付け足してもいいかと承太郎に訊いてみようと心に決める。
 まだ先の話だと思いながら、夏休みが終われば本格的に受験だと、花京院はちょっと憂鬱な気分になった。
 この辺りではいちばんレベルが高いと言われている高校を受ける予定の花京院は、成績については今まで通りでまず間違いないと言われているし、去年の担任に比べればずいぶんとまともな人物に見える今年の担任のおかげで、内申書の内容も心配がない。その高校を自分の生徒が受験する、そして合格することはほぼ確かだと言うことが、つまりは担任教師の評価になるのだと言うことを、思春期特有の潔癖さで少しばかり忌々しく思いながらも、元々勉強も嫌いでなければ、今よりもずっと伸びやかに過ごせそうな気のする高校生活が今から楽しみで仕方のない花京院は、そのための通過点である受験を特に嫌っているつもりはなかった。
 ただ、少しずつ周囲が目の色を変え始め、何もかもがそれに直結してゆく学校内外での雰囲気に、何もかも飲み込まれそうなのが素直に怖かった。二言目には受験受験と、誰もが呪文のように繰り返している。
 他の高校を滑り止めに受ける気がなく、落ちれば後がないという悲壮感もなく、なぜか落ちないという確信があって、自信とは明らかに違う自分の心持ちを、花京院は不思議にも思わない。
 それでも、ひとり端然と構えているわけには行かず、慌しくなる周囲に合わせて、大変なのだという振りをしなければならないのが面倒くさかった。
 同級生たちのあふれる不安を感じ取って、けれどそれに共感はできず、驕っているつもりはなく、特に努力の必要もなく受験は無事に終わるだろうと花京院は思っている。それを態度に出せば、いっそう周囲の不安と不興を煽ると知っているから、皆と同じに自分だって心配なのだと、必死に周囲に自分を合わせようとする。憂鬱なのは受験そのものではなくて、受験という波に飲み込まれ──その必要はないと思えるのに──、翻弄されなければならないと言う、周囲の重い空気だった。
 ギターを弾く時間を少し減らしているのも、その分勉強するためではない。そうして、受験のために必死になっているというポーズのためだ。受験生の正しくあるべき姿に自分を押し込めるために、花京院は好きなことを少し諦め、必要もない勉強をする。嫌いではないから苦痛でもないけれど、自らはまり込んだ狭い型が、毎日少しずつ窮屈になっている。
 ただひとつありがたいのは、承太郎は受験のことなど特にも話題にはしないし、承太郎といる時は、あの息の詰まるような思いをせずにすむということだ。承太郎と一緒の時には、中学3年生で受験生という、今だけ特別な自分の立場を忘れてしまうことができる。承太郎は、花京院に向かって必要のない心配をしたりしない。
 受験受験と口うるさく言うわけではない両親すら、それでも視線に隠し切れない不安がにじんでいる。
 自分の部屋へ上がる前に、花京院はそっと薄いため息をこぼした。
 「天国への階段」は、今ではギターソロ以外の部分は大体弾けるようになっている。承太郎に教えてもらったほかの曲にも手を着け、そちらはコード進行もアルペジオももっと複雑だから、受験が終わったら思い切り練習するのだと思っている。
 高校に入ったら、ギターを持って学校に行っても怒られないといいと思った。エレキギターも何となく欲しい。買うと決めたら、きっと承太郎が一緒に選ぶのに付き合ってくれるだろう。
 来年のことは永遠の向こう側のように思えるけれど、受験の終わった春休みには、毎日承太郎のところへ行こうと思った。ギターを抱えて、勉強のことはひと時忘れて、いろんな曲を弾けるように練習しよう。
 指先に、指板を押さえるのを手伝ってくれる承太郎の手の形を、ふと思い出していた。30分だけギターの練習をして、それから明日の予習をしようと、花京院はやっと階段を上がって、自分の部屋へ向かい始めた。


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