期間限定花京院誕生日祭り
(16)
夕食はどこかで食べると言っていたのに、承太郎は駅前で拾った花京院をそのままマンションへ連れて行った。
ギターと、泊まるために今日は少し大きい荷物を部屋の隅に置いて、花京院はまず、承太郎の大きな本棚に、何か新しい本が増えてないかとそこへ視線を滑らせる。
ほとんどは原語の学術書らしい布張りの、見るからに重々しい背表紙にまぎれて、時々掌サイズの文庫本がひっそりと置いてあったりする。
それは大抵は翻訳もののミステリーや探偵小説で、正直なところ花京院の趣味には合わない──花京院は三国志やホームズ、そしてルパンシリーズが大好きだった──のだけれど、承太郎の読むものと思えば興味も湧くし、市立の図書館でも見かけたことのないタイトルばかりだったから、まだ読んでいないと思えば遠慮なく手を伸ばす。何冊かは、承太郎に断って、持ち帰って読み終えたものもあった。
いつものように本の背表紙に指先を滑らせて、新しいものは見当たらなかったけれど、その感触には目を細めて、それからやっと花京院は、居間に置かれた自分のために座布団に腰を下ろした。
「今夜はカレーだ。文句はないな。」
承太郎が、なぜか重大な秘密を打ち明けるように声を低める。花京院はきょとんと首を振って、
「ないよ。承太郎が作ったの?」
「ああ。」
坐らずにそのままキッチンへ向かう承太郎を手伝おうと、また座布団から立ち上がったところで、承太郎が振り返って長い腕を伸ばした。
「坐ってろ。飯はできてる。ギターでも弾いて待ってろ。」
追い払うような仕草に腹を立てることもせず、はーいと子どもらしい返事を返して、花京院はギターを取りに部屋の隅に戻った。
そうして、壁際に、どこかのデパートの大きな紙袋が重そうに置いてあることに気づく。無雑作に置かれて、中身を隠そうという風にも見えなかったから、ギターケースを取り上げたついでに、花京院はその紙袋の方へ2歩近寄って、首を伸ばすようにして中を覗き込んだ。
見たことのある表紙、承太郎の実家で見かけた、古い野球漫画だ。袋のかさばり方からすると、どうやら全巻揃っているように見えた。
「承太郎?」
「おう。」
キッチンに声を投げると、振り返らずに承太郎が応える。
「このマンガ、どうしたの?」
答える声はないまま、承太郎が大きな肩だけすくめる。
「読むの?」
また、肩だけが動いた。
大人が古い漫画──それが自分の持ち物だとしても──を読むというのが気恥ずかしいのかもと、花京院は承太郎の様子に悟ったつもりで、それ以上は何も訊かないことにした。
読んだことのない花京院でさえタイトルだけは知っている、続編も合わせれば70巻を越える長編だったから、興味はあったけれど触らなかった漫画だった。ここに1週間いられるなら、読んでもいいかと訊くのにと、花京院は名残り惜しげにまだ紙袋に視線を当てたまま、ギターを抱えて座布団に戻る。
じきにカレーの匂いが漂って来て、家を出る前に牛乳をコップに1杯飲んだだけの花京院の胃が、ギターの背板に向かってぐーっと鳴った。
大きな具がごろごろ入った、小学校の時の給食を思い出させるカレーと、鮮やかな緑と赤のまぶしい、何かの果汁の入った甘酸っぱいドレッシングのかかったサラダが出て来て、ふたりは居間のテーブルに向かい合って坐ると、黙って少し早い夕食を一緒に食べた。
「おいしい。」
お世辞ではなく承太郎に言う。
「そうか。」
返事は素っ気なく、同じほど素っ気ない白い大皿に盛られたカレーは、それでもふたりの胃の中にどんどん送り込まれてゆく。
幸いに好き嫌いのない花京院は、サラダも、ドレッシングの甘酸っぱさに時々目を細めて、小さなレタスのかけらも残さない。
初めから多めに盛られていたやや甘口のカレーを、ルーの筋だけ残して食べ終わり、花京院はごちそうさまと顔の前で手を合わせる。それを見て、今日初めて承太郎が微笑んだ。
「映画でも見るか。」
皿と一緒に並べたコップを持ち上げて、水を飲みながら承太郎が言う。
「映画?」
汚れた皿を重ね、スプーンをまとめながら花京院が聞き返す。ああ、とうなずいた承太郎に、うんいいよとうなずいて、花京院は夕食の礼にと、口にも出さずに皿を片付け始める。
ここであまり食事をしたりはしないらしいキッチンは、散らかってはいないけれどどこかくすんだ気配が漂っていて、空っぽのシンクに運んで来た皿を置き、花京院は早速なるべく熱い湯を出した。
今日の承太郎は、いつもよりもずっと口数が少ない。まるで花京院と向かい合うのを避けるように、今も一緒にキッチンへ来たりはしない。
変だなと、花京院は思った。
蛇口の水を止めたところで、承太郎がやっとガラスのコップひとつ抱えて、キッチンへやって来る。
「チェリーパイがある。映画と一緒に食うか、それとも後にするか。」
コップはシンクの傍に置いて、もうやかんを手にしながら承太郎が訊いた。
チェリーパイと聞いて、途端に花京院の目が輝くのにちょっと首を振って、
「今だな。」
花京院の答えは待たずに、承太郎が自分で自分の問いに答えた。
冷蔵庫から、パイシートにきちんと乗ったチェリーパイを出し、その間に、花京院の紅茶と自分のコーヒーのために湯を沸かす。
切り分ける時には、普段には似ない我の強さで花京院が大きさを指定するのに、うるさそうに肘を振った。
「心配するな、帰る時には残りの半分は持って帰れ。」
「いいの?」
「お袋が、てめーのために焼いたんだからな。」
「え、だったらこれ全部僕の?」
今にもナイフの先を突き立てようとした承太郎の腕を引いて、花京院がさらに目を輝かせる。
「・・・あんまり欲かくと、一切れもやらねえぞ。」
小さな小競り合いの間に湯が沸いてしまい、ひとまずナイフは置いて、ホリィの手製チェリーパイ争奪戦はそこで中断された。
「僕が切ってもいい?」
コーヒーのフィルターを取り出す承太郎に、花京院は弾んだ声で訊く。
「・・・やれやれだぜ。」
コーヒーの香りに気を取られた振りで、承太郎は浅く花京院に向かってうなずいた。
意外なことに、パイは8等分のひと切れと6等分のひと切れにきっちり切り分けられ、大きな方は、ごく当然だと言う仕草で、承太郎の前へ差し出される。
「でかい方じゃないのか。」
「僕そんなに欲張りじゃないよ。」
心外だと言う表情で、花京院が子どもっぽく──中学生らしく──頬をふくらませて見せる。
「カレーがおいしかったから、お腹いっぱいだし。」
「パイは入るのか。」
逆らわず、大きなひと切れの皿を受け取りながら承太郎が言うと、その時だけはひどく大人っぽい動作で、花京院が肩をすくめた。
その動きが、自分がそうする時にそっくりなような気がして、承太郎はこっそりとそれに驚く。
皿を受け取った手が、思わずそこで止まった。
「映画はなに?」
承太郎の心の機微には気づいた様子もなく、うきうきとした調子で自分の分の皿を取り上げながら、花京院が承太郎の方を見ずに訊く。
「"コミットメンツ"だ。」
「アメリカの映画?」
明らかに、そんな映画は知らないという風に、花京院が重ねて訊いた。
「アイルランドの映画だ。ダブリンでバンドを組んで、ソウルを演るんだ。」
「バンド?」
「ああ。」
「面白そうだね。」
「映画館で見た方がいい映画だ。いつかどこかで見れるならそっちで見た方が絶対にいい。」
「じゃあその時は承太郎も一緒に行こうよ。」
チェリーパイに心をとらわれているせいだけではなく、花京院が、承太郎に向かって無邪気に笑う。
承太郎が、すぐにそうだなとうなずかなかったことに気づかないまま、花京院はチェリーパイを手に、もうキッチンを出てしまっていた。
その背中の大きさを、どこか痛ましげに見つめている承太郎の視線には、当然気づかないままだった。
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