期間限定花京院誕生日祭り


(17)

 ふたりで順に風呂に入り、キッチンはすべてきれいにして、見終わったビデオは、ちゃんと花京院が巻き戻した。
 どこでどうやって寝ると訊きもしないまま、承太郎の、体に合わせて大きなベッドに、花京院は何のためらいもなくもぐり込んでゆく。
 「映画、面白かったね。」
 「そうか。」
 明かりは全部消して、本を持ち込むこともせず、ふたりはもう眠ってしまう姿勢で、揃って天井を見上げていた。
 「音楽も好きだった。」
 「そうか。」
 アイルランド人はヨーロッパの黒人だと言って、貧しい若者たちがバンドを組んでソウルを演るという内容だ。メンバーを集めて、どうしようもない下手くそたちが、少しずつ洗練されてゆき、ギグのたびに会場をいっぱいにできるようになる。そうして起こる、メンバー間の確執や嫉妬や傲慢や、何となく荒っぽい映画の撮り方そのまま、バンドは結局、絶頂を迎えた夜にそのまま最期も迎えてしまう。決してハッピーエンドでもなければ、明るい未来を予感させる最後でもなかった。ただ救いは、バンドの夢が破れた後も、みんなそれぞれが楽しかった思い出を抱えたまま、何とかなるさと、変わらない笑顔のままでいたことだ。
 画面の中で、演奏しながらひどく楽しそうな彼らと一緒に、花京院もいつの間にか、彼らのひとりになっているような気分を味わった。
 どこにでもいそうな、平凡な、ただ音楽が好きだという、お金も仕事もないけれど、暇と情熱だけはあり余った彼ら。あんな風に、楽しげにこの先の人生を過ごすことができるだろうかと、熱い音楽に興奮しながら、まだ幼い胸の中で少しばかりしみじみと考えもした。
 大きな枕の端と端に頭を乗せて、じっと動かない承太郎に、花京院は少し焦れて顔を振り向ける。
 「承太郎、今日はあんまりしゃべらないね。」
 「そうか?」
 語尾だけが、疑問の形に変わる。
 「うん。」
 うなずいて承太郎の方に軽く寝返りを打つと、顔の辺りに承太郎の腕が伸びて来て、そこに頭を乗せるように促して来る。
 太くて硬い承太郎の上腕は、正直頭を乗せておくには心地良いとは言い難かったけれど、そうすればごく自然に近寄る体温が気持ち良くて、花京院は素直に体を全部承太郎の方へ寄せた。
 承太郎の掌が肩を包む。そうして、猫でも撫でるような仕草で、背中を滑りながら、承太郎は天井に向けた視線を一向に動かさないままだ。
 「あのな。」
 「うん。」
 背を撫でる掌は止まらない。承太郎の声のトーンが、半音下がったのを耳聡く聞きとがめて、花京院は身構えるように肩を硬くする。良い話ではないと、承太郎がそう言う前に悟ってしまっていた。その自分の聡明さを、他のどの時よりも、花京院は激しく憎んだ。
 「・・・アメリカに、戻ることになった。」
 咄嗟に、声を抑えるためか、それとももっと幼い頃にはそうして自分の身を守っているつもりだったからか、花京院は軽く握った拳を、まるで親指を口の中に差し入れているような形で唇に当てていた。
 「受験の面倒を最後まで見れなくて悪いが、おまえならどこでも落ちる心配はないだろうしな。今まで通り勉強してれば、おれなんかいなくても大丈夫だ。」
 「でも、承太郎がいないと、誰もギター教えてくれないよ。」
 「高校に入ったら弾けるヤツが見つかる。そいつに教えてもらえ。」
 「承太郎がいないと、次にどんなギター買ったらいいかわからないよ。」
 「心配すんな、店に行って自分で好きなの見つけりゃいい。」
 「承太郎がいないと、ぼく、卒業式の後でお礼参りができないよ。」
 枕と承太郎の腕から、頭が浮いた。体を起こして、まくれた布団の端に正座するように、そこからじっと承太郎を見下ろして、握った拳が膝の上で震えていた。
 「・・・お礼参りは性に合わねえんじゃなかったのか。」
 やっと花京院の方を向いた承太郎が、唇の端を上げて苦笑して見せる。ずるい大人の表情だ。この場だけを上手く収めようとするときに大人たちが、よくこんな笑い方をする。承太郎に、そんな表情を浮かべて欲しくはなかったと思いながら、花京院は、パジャマの裾を右手の中に握り込んで、またひとりぼっちになるのだと、頭の隅で考えていた。
 「・・・戻って来るの。」
 尋ねると言うよりも、静かに問い詰める口調になった。
 承太郎の腕が肩に伸びて来て、布団の中に戻れと引き寄せる。
 「戻って来ないの?」
 承太郎の手に逆らって、今度こそ、ほんとうに問い詰めるように、花京院はもう涙の混じりかけた声で訊いた。
 「3、4年先の話だ。まだわからん。」
 祖父である、ジョセフから回って来た話だった。
 どこかの考古学者が、海に沈んだ遺跡を調査するとかどうとかで、それならとどこかの海洋学者が、共同で調査をしないかという話にまとまったのだそうだ。
 その考古学者が祖父の祖父──実はこれも、考古学者だったそうだ──の後輩にあたるとかで、ジョセフに調査費用出資の打診があり、海洋学の方で助手も兼ねて人手がいるという話が広がった先で、承太郎が引っ掛かったらしい。
 ひとりで研究をしている連中は、人の調査の手伝いなどしている暇はないし、長期になるとわかっていて、なおかつまず費用が常に問題になるに違いないこの手の調査に協力するとなれば、最初から金銭面で心配のない状態でなければ厳しいことになる。
 そんなわけで、アメリカで不動産を扱っている祖父を後ろ盾にしている承太郎は絶好の候補者となったらしい。もちろん、祖父であるジョセフは、承太郎が参加するという以前に、すでに資金を出すことにやぶさかではなかった。
 つまり承太郎は、調査チームのメンバーであり、調査の資金をほぼ確実に獲得するための切り札であり、同時にスポンサー側のお目付け役でもある、というわけだ。
 鬱陶しい役割ではあるけれど、大きなチームでなければなかなか手の届かない、外海の深海に近い辺りへ出掛けて行けるのは、純粋に学者として興味深いチャンスだった。
 調査に参加を求められた時には助手という名目だったけれど、調査の結果によっては、承太郎を共同パートナーとして報告書に名前を載せるという話にもなっている。断る理由の見つからない話だった。
 それでも、承太郎は即答をためらった。花京院の受験が、真っ先に気になった。
 自分がいなくても大丈夫だと確信しているのに、受験勉強が目的という素振りで花京院と一緒に過ごす時間のことを、思っていた以上に大事にしていたのだと、その時気づいた。
 いつの間にか滅多に手に取ることもなくなっていた──手元にはいつも置いていたけれど──ギターを抱えて、好きな映画や音楽の話をするという他愛もない時間を、承太郎はとても楽しんでいたのだ。
 誰かが話を聞いてくれる、誰かが相手をしてくれる、人間の言葉を話さない海の生き物を相手にして、むしろそちらの方が自分には向いているのだと思っていたのに、いつの間にか、花京院と過ごす時間の方が、海へ向かう時よりもいとおしくなっていた。
 多分、近づき過ぎたのだと思った。花京院の無邪気さに合わせて、自分の無邪気さも、いつの間にか剥き出しになってしまっていた。とうに失くしてしまっていたと思った、幼い頃の輝きのようなものを、うっかり取り戻したつもりになっていた。
 悪いことではない。けれど、そこにとどまるわけにもいかない。考えて、花京院との時間にこんなにもとらわれていた自分に気づいた後で、承太郎は、花京院にそこに置き去りにされることを恐怖している自分にも気づいてしまった。
 高校へ行って、きっと新しい友人を見つけるだろう。年頃の同じ、同じ目線で世界へ向かう、背伸びの必要も気遣いもいらない、ただただじゃれ合っていられる友人を見つけて、それを大人の態度で祝いながら、自分からそうやって離れてゆくだろう花京院を、本音のところで素直に送り出せる自信を、承太郎は自分の内に見つけられなかった。
 やっと少年という言葉が相応しくなったばかりの花京院に、自分がどれほど依存しかけているのか、花京院と離れ離れになると思った途端に背骨の辺りに走った痛みに、承太郎は愕然とする。
 もう必要ないと、捨てられることに耐えられない。だから、今のうちに離れた方がいい。これは、その絶好のチャンスだ。
 自分の中の幼稚な、醜悪とも言っていい心の動きはきちんと隠せる程度には成長している部分、あるいは、そこまではさすがに読み取らない花京院の幼さに感謝して、承太郎は最後まで、これは大人の事情だという振りで、花京院の前から消えるつもりでいる。
 いずれ戻っては来る。けれどその頃花京院は、きっともう新しい生活に馴染み切って、承太郎のことなどただの思い出にしてしまっているだろう。
 それでいいと思った。映画の中で、バンドが終わってしまった後に、清々しい笑顔で楽しかったと言うあの表情そっくりに、ただひたすらに楽しかった、いい思い出になってしまえばいい。
 そうでなければ、その先で傷ついてしまうと、承太郎は思う。花京院が傷つくのではない。傷つくのは承太郎の方だ。
 そこから逃げるために、承太郎はアメリカに戻るのだ。
 今度こそ、逆らうのを許さずに、花京院を自分の方へ引き寄せた。布団の中へ入れると、くるりと薄い背を向けて来るのを、承太郎は両腕の中に抱き寄せる。
 「ぼく、ひとりでギターの練習するよ。ちゃんと勉強して、高校に入ってもがんばるよ。」
 巻いた腕の中で、顔が見えないようにうつむいて、花京院が小さくしゃくり上げ始める。
 「・・・だから、戻って来てね。」
 泣くな、とつい言って、花京院の髪を撫でた。
 求められれば求められるほど、優しくするのを止められなくなる。自分のそばにいてとても楽しいと、花京院が素直に表すのに、そのまま引き止められてしまいたくなる。
 今ならまだ断ってしまえると、自分の中でささやく声を聞いた。
 次第に肩の震えを大きくする花京院を、いっそう縮めた腕の輪の中に閉じ込めてから、今は自分と同じシャンプーの匂いのする柔らかい髪に、思わず唇を押し当てる。
 「承太郎が行っちゃうの、ぼく、いやだよ。」
 おれもだと、言いそうになったのを、ともかくも耐えた。
 「寝るぞ。」
 絶対に決心は変えないと誓いながら、濡れ続ける花京院の目尻を、何度も何度も指先で拭う。
 嗚咽がおさまり、泣き疲れてやっと眠った花京院を抱いたまま、承太郎はその夜、浅い眠りの中で、ひとりきり深い海に溺れてゆく夢を見た。


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