期間限定花京院誕生日祭り


(18)

 ほとんど寝たという感覚もなく承太郎が起き出した後で、寝た振りをしていたのかどうか、花京院が起きて来たのはもう昼に近かった。
 おはようとも言わずに、黙って洗面所へ行き、そのまままた寝室へ消えて、姿を現した時にはもうすっかり身支度を整えていた。
 自分のコーヒーのお代わりと、花京院に淹れる紅茶のためにキッチンへ行った承太郎の背中に、
 「ぼく、今日はもう帰る。」
 いつもよりずっと沈んだ、子どもじみた声が掛かる。
 言い争うのは馬鹿らしかった──言い争う理由など何もない──し、自分が去るのに腹を立てるなと言える立場でもなかったし、明らかに悲しんでいる花京院を抱きしめてなだめる優しさは、よけいに花京院を傷つけるだけだとわかっていたから、承太郎は無言で空のカップを置いて、そうか、とつぶやいて振り返るだけだった。
 夕べそう言った通りに、承太郎が残りのチェリーパイを丁寧に包み直す間に、花京院は自分の荷物をまとめた。
 いつもより時間を掛けて、忘れ物がないかと部屋の中を点検して、ギターもちゃんと一緒にして、その花京院の荷物の傍に、承太郎が、昨日花京院が見つけた、漫画の入った紙袋を置く。
 なんだと見上げる花京院に、もう隠すこともできず、承太郎は淋しそうな表情を浮かべて、
 「おまえにやる。他のも読みたかったら、好きにおれの実家から取って来い。おまえが行ったら、お袋も喜ぶからな。」
 今が、冬だったらよかったのにと、見つめ合ってふたりとも思っていた。
 冬なら、鼻が赤くなるのも、瞬きが多くなるのも、唇が震えるのも、目の奥が熱くなるのも、何もかも寒さのせいにしてしまえるのに。
 冬なら、一緒の方があったかいからと、互いに近く寄って、抱きしめ合うこともできるのに。
 今が冬なら、つい泣いてしまっても、とても寒いせいだと言い訳ができるのに。
 夏が間近い今は、別れの季節にすらならない。人と人が出会って別れるのは、夏が終わってしまってからか、冬の最中(さなか)と相場が決まっている。好きな曲の歌詞を思い出しながら、承太郎は自分を見つめる花京院を見つめて、そんなことを考えていた。
 花京院が、承太郎から、漫画の入った紙袋へ視線を移した。
 「じゃあ・・・借りておくね。これから忙しくなるから、漫画読む時間も、ギター弾く時間も減らさなきゃいけないから、多分読めるのは受験終わってからだと思うけど、それまで借りておくね。読み終わったら、承太郎にちゃんと返すね。」
 そうじゃない、やるんだからと、そう言わせない思いつめた何かが、花京院の震える声に詰まっていて、だから承太郎はそれを正すことはせず、うなずくこともしなかった。
 紙袋とチェリーパイは承太郎が持ち、花京院は自分の荷物を抱えて、
 「忘れ物、ないか。」
 そんなことは、今まで訊いたことがないのに、承太郎はわざわざ部屋の中を振り返りながら花京院に言った。
 一瞬、呆けたような表情を浮かべてから、承太郎がそう訊いた理由を数拍遅れてやっと悟り、花京院はまた泣きそうな顔をする。必死で泣くのをこらえてから、首だけ振って答え、そのままうつむいてしまった。
 名残り惜しげに、承太郎が鍵を閉めるドアに目を凝らし、承太郎より先に立って、駐車場へ向かう。
 花京院の丸まった薄い背を眺めて、抱えたギターケースその重みを、承太郎は自分の肩に感じた。
 日曜の午後だと言うのに、道路は空いていて車はすいすいと先へ進む。花京院は相変わらずうつむいたまま何を言わず、承太郎も前だけを向いて、言葉を掛けなかった。
 遠回りもせず、自動販売機のために止まりもせず、コンビニや本屋へ寄ることもせずに、承太郎の車はじきに花京院の家の前に着いてしまった。
 着いたぞとも言わず、坐ったまままだ動こうとしない花京院を促すこともせず、住宅街の明るい道路の端に車を止め、承太郎はただ静かに、花京院が何か言うのを待っていた。
 キーを抜いてしまい、エンジンの音が消えると、花京院はびくっとしたように肩を震わせて、膝の上に置いた指先を忙しなく組み替え始める。
 横顔に、いつもの大人びた表情はなく、今はまるで迷子になったと気づいて、空の手を中に振り回しながら泣き出す直前の、幼い子どものように見えた。
 その手が伸びる先に、自分はもういないのだと思いながら、承太郎はごく自然に花京院の方へ向いて、けれど体全部は車のドア近くへ残しておく。今慰めるために優しくするのは簡単だったけれど、そうはしたくない自分がいた。
 「受験、がんばるから。合格したら、ちゃんと知らせるから。」
 「住所はしばらく不定だ。いるのはどうせ海の上だろうしな。」
 「・・・承太郎のお母さんに知らせるよ。ちゃんと、承太郎に伝わるように。」
 震える声で、断固とした口調で言う。
 この意志の強さは、花京院だからなのか、それともこの年頃特有の、思い込みの激しさのせいなのか。
 承太郎の通り過ぎたことがあるから知っている。完全にないか完全にあるか、どちらかしかない。今抱いている気持ちが、一生続くと、何の疑いもなく信じている。受験の忙しさと進学の慌しさにまぎれて、そして新しい生活の鮮やかさに目を奪われて、承太郎のことなど、そう言えば自分に付き合ってくれた変わった大人がいたっけと、そうおぼろに思い出すだけになる。
 互いに、進む道がたまたまひととき交わっただけだ。これから背中を向け、振り向かずに別の方向へ歩いてゆく。
 花京院の歳と、承太郎の状況を考えれば、至極当然のことだった。
 楽しかった、と承太郎は思う。17の頃に戻ったように、ギターを抱いて、古い漫画を読み返して、無邪気に振る舞えることの不思議を、いつの間にか不思議とも思わなくなっていた。
 誰かのためにコーヒーや紅茶をいれ、ふらりと出掛ける時には、隣りに花京院がいた。まだ承太郎の肩には届かないけれど、手足の長さや掌の大きさを見れば、数年後には見違えるようになるだろう。ひとりではないという空気を身にまとうことが当たり前になって、そしてまた、ひとりに戻ってゆく。
 また先で、誰かにこんな風に出会うだろうかと、取り返してしまい、また今手放さなければならない自分の稚なさを、承太郎はひとり惜しんでいる。
 「ぼく、承太郎と一緒に車に乗るの、好きだったよ。」
 うつむいていた顔を上げ、目をきらきらさせながら、突然花京院が弾んだ声で言った。過去形の語尾を、承太郎は素早く耳にすくい取って、唇の端が歪むのを止められない。
 「車の中だと、いろいろ素直になれるからな。」
 できるだけ口調を取り繕って、薄く笑った振りをした。
 車の中でこぼした小さな泣き言や、他のどんな時よりも子どもっぽく振る舞った自分のことを思い出したのか、花京院が白い頬を薄赤く染める。
 はにかんだ表情になるはずが、唇の震えで頬の線が崩れる。夕べよりもっと激しく、花京院は泣き出す直前だった。
 「いろんなところに行くのが楽しかったし、承太郎のところに行くのもすごくすごく楽しかった。」
 承太郎に向かって、シートから浮いていた背中を元に戻し、目の前を見据える瞳の光の強さと裏腹に、声はかすれる一方だ。
 「ギターも練習するし、本も大切に読むよ。承太郎のお母さんにも会いに行く。」
 耐えられなくなって、承太郎は持っていた車の鍵を、手の中に握り込んだ。チャリ、と触れ合う鍵が立てた音が、承太郎を無残に現実に引き戻してくれる。
 まるで自分を痛めつけるように、鍵のぎざぎざをわざと強く掌に押しつけて、それからことさら大きな仕草で、車の鍵をハンドルの傍に差し込んだ。
 エンジンがまたスタートすると、さすがにもうこれ以上は引き止められない──引き止められたくないと、承太郎が思っている──と知って、花京院は慌てたようにドアへ手を掛け、けれどそこでもう一度、承太郎の方へ振り返る。
 「またね、承太郎。全部、いろいろ、たくさん、全部どうもありがとう。」
 ドアを開け、足から滑り出して行く花京院に、承太郎はやっと、
 「ああ。」
と声で応えるだけで精一杯だった。
 車を出て後ろに回り、後部座席に放り込んでおいた荷物を丁寧に引き出し、家の前にひとりで全部運んだ後で、花京院はそこに立ったまま承太郎の車を見送っていた。
 車から降りて手伝わなかったのは、そうしたらあっさりと別れられないと知っていたからだ。けれど手を貸さなかった自分の大人気のなさにはきちんと自己嫌悪しながら、承太郎はゆっくりと車を動かし始めた。
 バックミラーに、淋しそうに手を振る花京院が見える。足元に置いた荷物の多さとギターケースの背の高さに、まだ勝てそうにない幼い姿が、鏡の中に小さな点になったところで車が左へ曲がる。
 そうしてようやく承太郎は、足元に向かって大きく息を吐き出し、そしてそれから1分間だけ、淋しさと後悔と切なさを感じることを、自分に許すことにした。


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