期間限定花京院誕生日祭り


(3)

 1回分の問題集のノルマを終わらせて、どうせほとんど間違いはないにせよ、一応答え合わせはして、それから30分はギターの練習だ。
 やっとそれなりに開くようになった左手の指を、けれど時々は右手の指に手伝わせて、きちんとコードの形に整える。うまく弦を押さえなければ、ろくに音も出ない。まだぴきぴきとしか鳴らない、自分の弾く音にちょっと唇をとがらせて、花京院はそれでも熱心に1弦ずつ弾 (はじ)く。
 右手と左手を交互に見て、音を出してから、これでいい?と訊くように隣りの承太郎を見上げて、承太郎が自分に向かって優しく微笑んでいるのを確かめて、もう少し丁寧に弦を押さえて、また右手の指を動かす。
 弦の上に指を置いたまま、次のコードへ移るためにその指をネックに滑らせると、きゅっと弦の鳴る何とも言えない音が、花京院は大好きだった。承太郎がそうすれば、その音は深く長く続いて、何とか同じような音が出ないかと、花京院は自分の指先をじっと見た。
 最初のコードは大丈夫だ。次のコードは、人差し指1本でフレットをほぼ全部押さえなければならないから、まだちゃんと音が出ない。おまけに、普段滅多と意識して遣うこともない薬指と小指を一緒に、別々の弦に向かって折り曲げるので、いつも手の甲が攣りそうになる。コードの移動ももたもたとみっともなくて、承太郎も最初は大変だったと言うけれど、練習すればほんとうに今の承太郎みたいにこの曲を弾けるようになるのだろうかと、花京院は、横目で、手の大きさをこっそり見比べてみる。
 それでも、最近きちんと固くなり始めた左手の指先に、うれしげに肩をすくめてから、またギターに向かって視線を落とした。
 「あんまり手首を前に出すな。」
 そう言って、ふたつ目のコードをきちんと押さえようと悪戦苦闘している花京院の左手に、承太郎が背中側から長い腕を伸ばしてきた。
 「人差し指はなるべくまっすぐ弦に当てろ。」
 そんなことはわかっている。けれどそうすると、小指と薬指が、弦のよけいな部分にまで触れて、きれいな音が出ない。
 花京院は唇をとがらせて、斜めに承太郎を見上げた。
 承太郎が、ちょっとあごを引いてから、やれやれだぜと小さくつぶやいて、坐っていたベッドの端に長い脚も全部乗せて、それから、花京院を胸の前に抱くような形に坐り直してくる。
 ベッドが大きく揺れたのにも驚いて、花京院は肩を斜め上に傾けると、ギターを抱えたままベッドから滑り落ちそうになった。
 「ちゃんと坐ってろ。」
 承太郎が、花京院ごとギターを抱え込む。承太郎の開いた脚の間に坐る形になって、花京院は心臓が飛び出しそうになった。
 腕の位置を同じにして、花京院の左手を包み込んで、承太郎が、一緒に弦を押さえる。
 「・・・痛いよ。」
 やっとそれだけ言うと、おう、と慌てたように、承太郎は花京院から左手を放した。
 「薬指と小指、もうちょっと立ててみろ。」
 言われた通りに、ぎくしゃくと動く指たちを、花京院はそれでも必死にフレットに乗せて、それから、承太郎の右手が、上から1弦ずつ、ゆっくりと音を出した。
 花京院が弾く時よりも、ずっと太い音が出る。承太郎の指先には、きっと何か仕掛けがあるに違いないと思いながら、承太郎の出す音に注意深く耳を傾けて、花京院はコードを押さえる指の形を模索していた。
 5回目に承太郎が弾いた時に、やっとそれなりの音が出て、承太郎は花京院の右手を取ると、自分で弾かせて、両手の具合を確認させた。
 「やった!」
 思わず小さく叫んで、体をねじって承太郎を振り返った。
 「最初から弾いてみろ。」
 承太郎が笑っている。促されて、花京院は生真面目な面持ちで最初のコードを押さえると、少しの間下唇を舌先で湿して、それからようやく、とても難しい数学の問題に取り組む時よりもずっと真剣に、最初の音を弾き出した。
 次のコードに移るのに、相変わらず3小節分くらいの時間が掛かったけれど、音はずいぶんまともに出た。
 長い長い曲の始まりの、最初のたった2小節だ。それでも、こんなに努力したのは初めてなような気がする。出来もそこそこに、たいていのことは、練習も必要なく上手くこなせる花京院は、必死になることがこんなに楽しいことだったのかと、緊張の汗でうっすらと濡れた額の辺りを、右手の甲でそっと拭った。
 よしよしと言うように、承太郎が後ろから頭を撫でてくれた。さっき自分の掌に重なった、とても大きな手だ。指も長くて、花京院の手は、すっぽりとその中に隠れてしまう。
 約束の30分は、そろそろ終わりだ。
 花京院は、そっと腰をずらして、わからないように---と願いながら---承太郎の胸にいっそう近く寄る。
 肩越しに振り返って、ギターを承太郎へ渡しながら、
 「・・・何か弾いて。」
 承太郎がギターを受け取ると、花京院は肩を縮めて、そのまま承太郎がギターを弾くのに邪魔にならないように、承太郎の長い腕の間でなるべく小さくなって、そんな自分に向かって承太郎が苦笑をこぼしているのに、もう振り返ることはせず、承太郎の指が動き出すのをじっと待った。
 承太郎の胸とギターの間に挟まれて、少し傾けた首の辺りに、承太郎のあごが近づいてくる。
 ほとんど手元は見ずに、承太郎が少しばかり弾きにくそうに、けれど、アルペジオの優しい曲を弾き始めた。
 親の膝に坐った記憶もない。誰かと、こんなふうに近く体を寄せたことなど、憶えていない。承太郎の大きな胸の暖かさに、まるで毛布にでも包まれているように、そこにそっと体を伸ばして、花京院は目を細めた。
 承太郎がいやがっていないかと、けれどそれは気にしながら、花京院は少しずつ承太郎に自分の体重を預けて行った。
 寄りかかった承太郎の胸に抱かれて、床に向かって伸びた爪先を、承太郎の弾く曲に合わせてかすかに動かしながら、ネックの背からわずかに見える、承太郎の掌や指先をじっと見ている。
 こめかみの辺りにある承太郎のあごに、花京院は知らずに、自分の前髪をこすりつけていた。
 約束の30分はとっくに過ぎていたけれど、承太郎は黙ってギターを弾き続けて、花京院は、身じろぎもせずに、承太郎の胸の中におさまっていた。


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