期間限定花京院誕生日祭り


(4)

 ここへ来た最初の日は、その日だけはいた花京院の母親が、玄関で見送ってくれた。2回目は、もう花京院ひとりきりだったせいか、一応部屋から出て、階段の上から黙って承太郎を見送った。3度目は、同じ位置で、ちょっと肩をすくめてからわずかに上げた手を承太郎に向かって小さく振り、4度目は、もう少し大きな身振りになって、さようならと消え入るような声で言った。ギターの練習が始まってからは、玄関まで来て、とても名残り惜しそうな素振りで、また今度と承太郎に言うようになった。承太郎は、それに微笑みで答えて、帽子のつばを軽く引き下げて、そうして花京院宅を後にする。
 その日は、承太郎が玄関に着く前に、階段を下りたところで、花京院が承太郎のコートの袖をつかんだ。
 「あの・・・。」
 そう言ったきり、振り向いても、うつむいてシャツの胸の辺りをつかんでいるだけだ。承太郎は、こうやって向き合えばまだ小さな花京院を見下ろして、何も言わずに待った。
 「・・・お茶・・・」
 日に焼けた、けれどそれでも色白の頬が眼下に見えた。うっすらとそこに血の色が上がっているように見えるのは、承太郎の目の錯覚かもしれない。何かとても一生懸命に、引き止められているのだとわかって、承太郎は玄関に向いていた爪先を花京院の方へ向け直し、
 「なんだ?」
 言いながら、花京院の頭を撫でた。
 「あの・・・お茶いれるから・・・よかったら、あの・・・もうちょっと・・・」
 そこまでは、承太郎を見上げて---けれど視線はあちらへ---、それからまた、自分の重なって動く爪先を見下ろして、
 「いて。」
 声がいっそう小さくなった。
 この手の誘いは少なくないけれど、こんなに必死なのは初めてだと、承太郎は表情には出さずに、胸の中で思わず笑う。人とわざわざ関わるなら、サメやイルカと一緒にいる方が楽しいと、正直なところを口にしたことはなく、それでもこんな誘いを受け入れることは滅多とない承太郎は、もう一度くしゃくしゃと、柔らかい花京院の髪を大きな掌でかきまぜてから、その後ろ頭に手を添えて、キッチンのある方向へ軽く押した。
 「ちょっとだけな。」
 自分を見上げて破顔する花京院にではなく、自分自身に言い聞かせるつもりで、そう言った承太郎は、自分の方へ薄い肩を寄せてくる花京院と爪先を揃えて、階段の横を通り過ぎて、その奥のキッチンへ入る。
 頭を打ったりしないように、ちょっと首を縮めて、想像していたよりは広いけれど、承太郎には狭い---どこだってそうだ---その場所で、花京院はキッチンテーブルの椅子を引いて承太郎に勧め、いかにもうきうきとした様子で、薬缶に水を満たし始めた。
 きれいに磨かれているシンクは空で、食器のカゴの中に、ひとり分の茶碗や箸が見えた。
 どこもきれいな、古臭さのないキッチンは、だからこそここでひとり夕食を取るのだろう花京院の姿が難なく浮かび、承太郎は、レンジに向かっている花京院の背中に向かって、ちょっとだけ眉を寄せる。
 花京院が、いかにも楽しそうに、用意したポットに紅茶の葉を入れているのを、承太郎は椅子に腰を下ろしながら見ていた。
 小さくはないキッチンテーブルも椅子も、承太郎には今ひとつ充分な大きさではなく、用心して椅子に腰を落ち着かせて、照れているのかレンジの火ばかり見て、こちらを向かない花京院の背中を、承太郎は、テーブルに頬杖をついて眺めている。
 爪先立ちになって、思い切り腕を伸ばした辺りから、白地に鮮やかに色の散った、見るからに華奢なティーカップを取り出す。波打ったシャツの肩や背中の辺りの線に、育ちかけの筋肉の影が見えて、けれどそれがよけいに、花京院の幼さをくっきりと表していた。
 人よりも成長の早かった承太郎は、同じ年頃に、急に伸び始めた背や、はっきりと現れ始めた筋肉の線に、ひとり戸惑っていたことを思い出している。父方よりも、母方のイギリス系の血が濃く、さらに、イタリア人だったらしい祖父の母の面影の強く残る承太郎は、日本人とは言い切れない自分の外見に、劣等感を抱いたことはないけれど、自分が異質なのだという感覚は、常に抱き続けていた。
 もう、長い間そう誘われている通りに、祖父の下へ行けば、こんな違和感を抱かずにすむのだろう。ついひと月前まで、今やっているヒトデの研究論文が書き上がったら、それを抱えて祖父のところへ行って、あちらの大学の研究室にでももぐり込もうかと真剣に考えていたのだけれど、近頃ちらともそんなことを思わなかったことに気がついて、承太郎はこっそりと驚いている。
 ようやく沸いた湯で、花京院はまずカップを温め、もう一度火に戻した湯を、改めて紅茶の葉に注ぎかけた。湯気を吹く湯が立てる柔らかな音に、承太郎は目を細めた。
 長くひとり暮らしの承太郎は、誰かが立ち働く姿を眺めるのが珍しくて、そして、案外と馴れた花京院の手つきが微笑ましくて、差し出された紅茶の香りよりも、それを差し出した花京院の、ひどく嬉しげな笑みについ誘われて、肉厚の唇に微笑を深く浮かべる。
 「ミルクか砂糖は?」
 自分の分をテーブルに置きながら訊いた花京院に、承太郎は首を振った。
 いつもそうしているのか、それとも承太郎の手前、子どもらしい見栄なのか、花京院も紅茶には何も入れずに、ようやく承太郎の右斜め前の位置に腰を下ろす。
 テーブルの角を一緒に挟む形に坐ると、ふたりはひとまず、黙ったまま紅茶を一口飲んだ。
 「カップを温めるのは、誰に習った?」
 優雅に丸まったカップの取っ手に、ようやく人差し指を通しながら、その取っ手もほのかにぬくもっているのに、唇の端を下げて、承太郎は訊いた。
 いかにも子どもっぽく、華奢なカップを華奢な両の手指で支えて、花京院がちょっと首を縮める。カップに口元を隠したまま、照れたように承太郎を横目に見て、
 「・・・テレビで、そうやるんだって、言ってたから・・・。」
 恥ずかしそうにそう答えたのに、承太郎はそうかとだけ言って、思わず懐かしさを込めた視線を送る。
 アメリカにいる祖母が、彼女の夫である承太郎の祖父の、生粋のイギリス人である祖母にそう習ったのだと、常に愛情にあふれた瞳をさらに輝かせて、夫と娘 ---承太郎の母親---と孫の承太郎に、ミルクをたっぷりと注いだ紅茶をふるまう。そうして、今はすっかりアメリカ人になってしまった、元はイギリス人の祖父は、彼の祖母は、素晴らしい紳士だった彼女の夫、彼の祖父のために、いつだって美味しい紅茶をいれていたのだと、そういつも言っていたと、思い出話に花が咲く。
 新婚旅行の途上、事故で亡くなった祖父の祖父のことを、もう直に知っている人は誰もいない。
 それでも、愛情は形を変えて、世代を越えて伝えられるものなのだと、花京院のいれてくれた紅茶を飲みながら、承太郎はひとり考えている。
 ひとり暮らしを始めて、忙しくなったのを理由に、そう言えばわざわざカップを温めて紅茶やコーヒーを飲むことを、しばらくしていなかった。ほんとうの理由は、誰にふるまうわけでもないのに、そんな手間を掛ければ、ひとりをよけいに思い知るだけだからだ。
 ああそうかと、思って、承太郎は、自分には少し小さい椅子の背に、大きな背中を軽く預けた。
 「美味いな。」
 舌を焼く熱さにもかまわず、カップの中身を半分にしてから、ようやく皿に戻して、承太郎は思わずつぶやいた。
 花京院が、色の薄い瞳だけを承太郎の方へ動かして、目元だけで、ひどくうれしそうに笑った。
 他人の家のキッチンで、珍しく居心地の悪さも感じないまま、承太郎は、カップに添えた指先で取っ手の辺りを撫でながら、自分を見ている花京院を、飽かずに見つめていた。


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