期間限定花京院誕生日祭り


(6)

 冬休みの最初の土曜日に、そう約束した通りに、花京院はギターケースを抱えてやって来た。
 最寄り駅の、気をつけて出て来いと承太郎がそう言った方の出口に、少しばかり不安げな表情で立っているのを、承太郎は数分、声を掛けずに眺めていた。
 駅前の人込みに紛れれば、花京院はいかにも子どもっぽく、体の前に立てている黒いギターケースの方が、よほど大きくどっしりと見える。
 向かいの通りからゆっくりと花京院のいる駅の出口の方へ車を回して、そうして承太郎は、ようやく花京院の前でクラクションを鳴らした。
 承太郎を見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせて小走りに車の方へ来ると、ギターをどうするかと、花京院は戸惑った表情を浮かべる。
 「後ろに乗せろ。」
 空っぽの後部座席を示すと、花京院は日頃の躾けの良さを丸出しに、そっとドアを開けて、そっとギターケースをそこに置いて、そしてそっとまたドアを閉めた。滑るような動きで、ほとんど音も立てずに助手席へ収まると、ようやく、安堵したような笑みを口元に刷く。
 いつものロングコートも帽子もない承太郎を、助手席から、花京院はちょっと不思議そうに眺めていた。
 「迷わなかったか。」
 「大丈夫。」
 花京院の家まで、車で迎えに行くと言ったのに、電車で来ると言い張ったのは花京院だ。承太郎がいつも自分の家へやって来る道筋をひとりで辿りたいと、そう思ったからだとは、さすがに承太郎には伝わるはずもなく、14歳というのがどれほどしっかりしているかなどと、もう思い出せるはずもない承太郎は、思ったよりも花京院のこの短いひとり旅を心配していたのだと、今朝ずいぶんと早く目覚めてしまってから気がついた。
 承太郎の住むマンションまで、駅から車で5分と掛からない。ろくにしゃべる間もなく駐車場へ車を停めると、承太郎はさっさと花京院のギターを車から取り出して、自分で持つからと花京院が手を出してくるのを、うるせぇと制して、頭の辺りを押さえつけるふりでごしごし撫でてやる。
 エレベーターで5階へ上がる承太郎の部屋は、単身者用のものではない。たまたまアメリカで不動産を扱っている母方の祖父が、日本に嫁いだ娘のためにも、家くらい持っていてもいいだろうと、半ば趣味のように買ったものだ。ようするに、祖父のすねを齧っていることになる---だから、この祖父の知り合いの知り合いの知り合いから回ってきた花京院の家庭教師の件も、断れなかった---のだけれど、研究のための膨大な量の本をすべて収めるのにワンルームというのは無理な話だったし、いちいち家やアパートを探して回るのも面倒だったし、欲しければおまえにやると言われているこの部屋は、名義はともかくも実質はすでに承太郎のものだ。
 持ち家なんざ鬱陶しいだけだと思っている承太郎は、祖父の申し出をありがたく受け入れはしたものの、本を読んで、論文を書いて、寝る場所という以上の愛着を見出しもせず、けれど花京院が、足を踏み入れた途端に、物珍しそうにちょっと輝く目で部屋の中を見回しているのに、初めて少しだけ祖父のジョセフに感謝した。
 「紅茶でいいか。」
 それなりに広い板張りのリビングの真ん中に、素っ気もなく置かれたテーブル---と言うよりも、正しく卓袱台---をあごの先で指し示して、ギターを床に置くと、承太郎はひとりキッチンへ入ってゆく。
 いつもなら1枚しか敷いてない座布団が、今日はもう1枚出してある。この間実家に帰って、ここへ持って来たもののひとつだ。
 玄関に近い洋室の方は、ぽつんと机の置いてある図書室のようになっていて、そこにも収まらなかった本棚が、リビングの壁のほとんどを覆っている。テレビも一応置いてあるけれど、時刻合わせとニュース以外の目的でつけられることは、滅多とない。
 紅茶のカップを持ってリビングへ戻ると、まだ腰も下ろさずに、花京院が本棚の本の背を撫でていた。
 「面白そうな本でも見つかったか。」
 見知らぬ他人の家へ来て、やはり緊張しているのか、花京院は口を開かずに、ちょっと頬を染めて首を振る。
 専門でもなければ、手に取る気にもならない学術書ばかりだ。それに花京院が眺めている辺りには、英語はもちろん、ドイツ語の文献も一緒に並べてある。ベネズエラ出身だという学者の家に招かれた時に見た、スペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、英語の原書がずらりと並んだ書斎の風景を、承太郎は思い出すたびに、恍惚となる。そこまでは行かなくても、せめて数ヶ国語くらい、好きな場所へ研究のために出掛けるなら、できてしかるべきだと考える。
 けれど今は、そんなことはすっかり忘れて、この大人びた、けれどまだ充分に稚ない少年と、子どもっぽい時間を一緒に過ごすことの方が魅力的だった。
 花京院は、承太郎が腰を下ろしたのを見て、ようやく本棚から離れてテーブルの傍へ来ると、遠慮がちな仕草で、座布団の上にきちんと正座する。
 そう言えば、玄関でもちゃんと脱いだ靴をあちら向きに揃えていた---承太郎のも一緒に---ことを思い出して、いわゆるきちんとした日本人の家庭で育った子どもは、こんな風に、こちらが困惑するほど礼儀正しいものなのかと、承太郎はわずかに首をかしげた。
 「足くずせ。それじゃあギターが抱えられねえ。」
 承太郎がそう言うと、花京院はやっとギターケースを自分の方へ引き寄せながら、おずおずと床の上に足を組んだ。
 いかにも慣れない様子の胡坐に、承太郎はもう苦笑しかこぼせず、これが手本だと言わんばかりにどかどか花京院の隣りへ歩いてゆくと、どっかりと床に腰を下ろして、長い足を邪魔そうに胡坐に組む。
 承太郎の様子に、花京院がちょっと首を縮めて、ギターに伸ばしかけた手を止めた。
 「ここで気なんか使うな。めんどくせえ。」
 いつもよりもずっとぞんざいな承太郎の口調に、花京院が照れたように笑い、それにつられて微笑んで、花京院の柔らかな髪を、かき回すように乱暴に撫でてから、承太郎は本棚ばかりの洋室の方へ、自分のギターを取りに行くために立ち上がった。
 長い間実家に置きっ放しになっていたギターだ。エレキギターも、小さなアンプやエフェクターと一緒に持って来た。大学も半ばになってからは、滅多と触れることもなく、花京院の家で弾いたのが、もうずいぶん久しぶりだった。指が、まだちゃんと動くのに驚けば、三つ子の魂百までということわざも思い浮かぶ。夢中になっていた頃に自分で書き起こした楽譜を、ケースの中に入ったまま見つけ、まだ黄ばみもしていないそれも、一緒にここへ持ち帰った。
 ギターケースを抱えて戻ると、ひとりでコードを小さく鳴らしていた花京院が、驚いて承太郎を見上げ、睫毛の長い目をしばたたかせ、それは承太郎のかと、目顔で訊く。おう、とうなずいて、また花京院の隣りに坐ると、花京院のそれに比べればずいぶんと傷だらけの、くたびれたケースを開く。
 中身のギターも、同じくらいに傷だらけだ。
 花京院のギターよりも、本体はひと色濃く、そして褪せたように艶が少ない。ネックを握り込んで、弦だけは張り替えたばかりのそれを、承太郎は一瞬息を止めて、弾いた。
 花京院が、承太郎の手元を見ている。
 「・・・ぼくも、そんなふうに弾けるようになる?」
 親指で、5弦を弾(はじ)きながら、
 「好きで練習してれば、誰でもこのくらいにはなる。」
 それはどうかなと、承太郎の言うことを鵜呑みにはしないとでも言いたげに、花京院がひどく大人びた笑みを浮かべて見せた。
 一瞬、花京院がまだ14歳の中学生だということを忘れ、自分が28だということを忘れ、承太郎は、自分がまだ高校生だった頃の気分を思い出していた。なぜか、17という、ひどくはっきりとした数字が浮かんで、切れてしまった弦で裂けた指先の痛みが、不意に甦る。
 自分の場所にいて、素を剥き出しにしている承太郎と、初めての場所で身構えたまま、背伸びをしている花京院と、互いの差がそんなふうに縮まってしまったことにふたり同時に戸惑いながら、意味もなく見つめ合ってしまった互いから、うまく視線を外せない。
 承太郎は、古臭い言い方をするなら、雨露を避けるための場所という程度の認識しかなかったここに、花京院がいることが、とても意味深いことに思えて、今まで誰も呼んだことのないここへ、花京院をわざわざ招く気になった自分の胸の内を、初めて真っ直ぐ見通そうとしていた。
 承太郎よりも先に、花京院の方が目をそらして、自分の手元に視線の先を移した。
 何か、言いたかったことがあったような気がしたけれど、それをつかまえることはできずに、承太郎は抱え込んだギターのピックガードの辺りを撫でながら、時間稼ぎのように空いた方の手でケースの中を探る。
 ギターの形のままのケースの、ちょうど真ん中辺りの、小物を入れておくコンパートメントに指先が引っ掛かり、意味もなくそこを開けて、中身を取り出そうとする。掌いっぱいの、ギターピックだ。
 色とりどりのそれが、承太郎の手からこぼれて目の前の床に散らばると、さっきまでの大人びた表情は一瞬で消え、花京院の視線が釘付けになる。
 「うわ・・・。」
 形はどれも大体同じ三角形の、大きさもほぼ同じものばかりだ。黒や白、オレンジや青、ひびも割れもないけれど、よく使い込んだものは、弦に当てる部分がよく見れば削れている。厚みは、承太郎が好みのものを探り当てるまであれこれと試したせいで、いくつか種類があった。
 透き通った、虹色のピックに、花京院が指を伸ばす。金色の、製造元の会社の名前だったろうか、字が、ちょうどそこに指が当たるせいで、半ば消えかけている。
 親指と人差し指の先につまんで、それで弦を弾(はじ)こうとしている花京院の手元に苦笑して、承太郎も自分で1枚、ピックを拾い上げた。
 その中ではやや小ぶりの、白くて硬いピックだった。
 「こうやって持つんだ。」
 手の形を見せながら、弦を弾いて見せる。ぴーんと突き刺さるような、力強い音が響いた。
 指の曲げ方をよく見ようと、花京院が承太郎の方へ寄ってくる。ほら、と自分の手を渡して、けれどよく合点の行かないらしい花京院の手を、承太郎はピックごと自分の方へ引き寄せた。
 人差し指を完全にふたつに折り曲げさせて、そこに親指を乗せ、その間にピックを挟む。慣れない間は、手の甲に妙に力が入って、手首がきちんと柔らかく動かない。
 ぎこちなく、自分の手を、自分のものではないように見下ろして、夢中になるといつもそうするように、軽く唇をとがらせている花京院を、承太郎はじっと見ていた。
 並んで床に坐って、それぞれギターを抱えて、指の形を整えてやるつもりで、けれどそれだけではなく、承太郎は花京院の手を自分の方へ引き寄せたままでいる。
 まだ柔らかな、何の苦労も知らない、知るはずもない子どもの手だ。その手を持つ花京院を、いとおしそうに見つめている自分の視線に気づかず、承太郎は、不慣れな仕草に、肩の辺りから体を強張らせている花京院の頭を、そっと撫でた。
 テーブルの上で、紅茶が、忘れ去られたままでいる。


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