雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

10) 例えばそんな結末@


 顔と指紋を変えて、別人になって逃げた殺人鬼、吉良吉影の行方を、皆が追っていた。
 杜王町は、ひそやかに進行しているその病いにも関わらず、少なくとも表面上は、変わらず平和に見えた。
 どこかの誰かが姿を消そうと、人たちの生活は変わらない。その変わらなさの中、仗助たちは必死で吉良を追っている。今では、その姿も皆目わからない吉良が、この杜王町で、今まで通りに暮らしているのだろうことだけは確かだった。
 吉良がまた誰かを殺す前に、あるいはせめて、被害者の数をひとりでも少なくできる間に、吉良を見つけ出して追いつめるのだと、幽霊の小道にいる鈴美を初め、皆の気持ちは一致している。
 それぞれが、それぞれにできることを精一杯にやりながら、けれどまだ収穫はない日々だった。
 焦れたところで、結果が出るわけではないと、そう目で言い交わして、何気ない日常を送りながら、神経だけはぴりぴりととがらせて、今しばらくはそっと息をひそめたままでいるのだろう吉良の気配を、誰もが必死で探り出そうとしていた。
 吉良吉影の父親が、あの矢を使って、息子を守るために新たなスタンド使いを生み出すことは間違いがなかったから、この静かで穏やかな街に、殺人鬼とその被害者と、そして己れの力の使い方さえ見極められないスタンド使いたちがあふれ出す前に、吉良と、そして吉良の父親を見つけ出さなければならなかった。
 吉良がどこへ行ったのか、どんな顔で、どんな名前で、どんな姿で隠れひそんでいるのか、手がかりすらない。それでも、仗助たちは、吉良を探し続けなければならなかった。
 諦めない。絶対に諦めない。誰のためでもなく、自分たちと、自分たちの住む、この街のために。
 よそ者である承太郎やジョセフ、花京院も、もう他人事ではなく、この街のことを気に掛けていた。
 吉良と仗助たちの鬼ごっこは、静かに進行している。何の進展もないように見えながら、けれどきっと確実に、吉良を追い詰めているのだとそう誰もが信じて、平凡な日常の表面は変わらないまま、杜王町は今日も新しい1日を迎える。


 一体どういう心境の変化なのか、今までは主に花京院がしていた、あの透明な赤ん坊の子守りに、承太郎はやけに熱心に参加し始めていた。
 花京院の方はと言えば、最初のうちは、一応ジョセフを憚って、夜遅く承太郎の部屋に長居しても、必ず夜明け前には自分の部屋に戻っていたのに、いつももう少しという承太郎の誘いに負け始め、次第に、眠気に耐えてわざわざ服を着直してから部屋に戻るのが面倒くさくなり、今ではほとんど承太郎の部屋に住んでいるような状態になってしまっている。
 安易に流されてしまうのは良いことではないとは思いながら、承太郎の部屋に居着いてしまうのと、廊下を挟んで斜め前の自分の部屋にいるのと、大した違いもないように思えて---言い訳だ---、昼間はそれなりに別々の時間もあるものの、夜は滅多と自分の部屋には戻らなくなってしまっていた。
 久しぶりに、承太郎と分け合うベッドに、最初の数日慣れられず、そのまま寝入ってしまうのは不可能のように思えたのに、今ではまれに、承太郎より先に眠ってしまい、隣りで何をされようと、朝まで目が覚めないことすらある。
 夜中にふと目を覚ますと、部屋のいちばん端で、小さな明かりを点けて、何やら難しい顔つきで書き物をしている承太郎がいる。論文の下書きなのか、それともSPWに送る報告書を書き直しているのか、深く眉を寄せて、彫りの深い顔の造作のひとつびとつが、薄闇の中に白っぽく浮き上がっているのを見ると、ああ承太郎だと、いつも花京院は思った。
 床に脱いだままのシャツをそっと拾い上げ、羽織っただけで床に足を下ろす。そうして、足音を消して承太郎の方へ行くと、ソファの手前で気配に気がついた承太郎が、手元から顔を上げて花京院の方を見る。
 起こしたか。
 承太郎は、いつも同じことを訊く。
 いや、そんなことはない。
 花京院も、いつも同じように答える。
 一緒に裸でベッドにいたと言うのに、今は一応、シャツもズボンも着けて、承太郎は膝の上に乗せた紙の束に、あれこれ書きつけをしている。手にしているペンは、ホテルの備え付けのボールペンのこともあれば、よく使い込まれた万年筆のこともあった。
 邪魔をしないために、花京院はシャツの前をかき合わせたまま、ソファより先へは行かない。ひとり掛けの椅子に坐った承太郎は、日本の家具にはサイズが合わないせいなのか、やけに窮屈そうに体を折り曲げているように見える。
 花京院は、それをとても微笑ましい眺めだと思って、ひとりうっすらと笑って、そのままベッドへ戻る。
 お休み承太郎。
 承太郎は、もう顔を上げずに、おう、と短く言うだけだ。
 花京院はまた裸になってベッドにもぐり込み、すっかり大人になっている承太郎が、自分にはよくわからないことをしているのを眺めるのが好きだと、そう思いながら、また眠るために目を閉じる。
 どんなに遅くベッドに戻って来ても、承太郎はいつも7時半にはちゃんと目を覚まして、花京院を促してシャワーを浴びて、ジョセフを誘いに部屋を出る。
 一緒に朝食を取って、承太郎は自分の部屋に新聞を抱えて戻り、花京院は赤ん坊の世話のためにジョセフの部屋へ行く。
 何も変わらない。変わったことと言えば、午後には必ず、少なくとも2時間ほどは、承太郎がジョセフの部屋へ立ち寄るようになったことだ。
 花京院に会うためにというのが主な目的というのは明らかだったけれど、以前なら、そこで赤ん坊の世話をしている花京院に、自分から手を貸そうとはしたことはなかったのに、今ではミルクの準備をする間に抱いてあやすくらいのことは、花京院がわざわざそう頼まなくても、自分から腕を差し出すようになっていた。
 今さら、花京院の気を引こうとしている下心とも思えず、突然父性愛にでも目覚めたのかと、少々戸惑いながらも、それはそれ、承太郎の好意として素直に受け取ることにする。
 正直なことを言えば、おぼつかない手つきで、一生懸命赤ん坊を抱いている承太郎というのも、悪い眺めではなかった。紙とペンを手に、ひどく難しい顔をしている承太郎も、硬張った顔つきで、ぎくしゃくと赤ん坊を抱く腕の力の込め具合を、いまだ模索中の承太郎も、今ではどちらも同じほどいとしく思えて、外の世界で起こっている陰惨な出来事をすべて忘れて、ここでこのまま、ずっとこうしていられたらと、思わずにはいられない。
 家族というものには、基本的に夢も憧れも抱いてはいない花京院だったけれど、両親がきちんと揃ってはいないとか、子どもと血が繋がっていないとか、それでも仲良く暮らせるなら、どんな形も家族と呼べるのだろうし、気持ちの通い合った間柄なら、変則的ではあっても、その方が家族らしいのかもしれないと、ひそかに思う。
 それでも、ふとした瞬間に承太郎が見せる、赤ん坊へのひどく優しげな表情が、ジョセフのそれと重なって、そこに深い血の繋がりを感じると同時に、きっと自分もあんなふうに、親に抱かれて大事に育てられたのだろうと、感謝することは決して忘れない。
 赤ん坊は、ようやく承太郎のぎこちない扱いに慣れ始めた---承太郎の手つきも、多少はましになりつつある---のか、花京院がそばにいなくても、もうあまりぐずらない。この間は、よだれに濡れた手で、承太郎の長いコートのボタンの辺りを、ぎゅっと握りしめさえした。
 大騒ぎをしなかった承太郎に感心しながら、けれど、ミルクの吐き戻しの洗礼を受けた時には、そんなことではすまないだろうなと、自分の、過去2度ほどの経験から、花京院はその時を心ひそかに待っている。もっとも、承太郎のコートは白いから、白いミルクを胸や肩に吐かれても、大した被害にはならないのかもしれないと、思いながら、緑色の制服の、肩の辺りをちらりと見る。
 ソファに坐って、誰もがそうするように、腕の中の赤ん坊をじっと見下ろしている承太郎に、花京院は人肌の温度にしたミルクの哺乳瓶とタオルを手渡して、承太郎がもたもたとゴムの乳首を赤ん坊の口元に差し出して、ミルクを飲ませ始めるのを、しばらく眺めていた。
 赤ん坊は、自分を抱いている承太郎と哺乳瓶と、傍に立っている花京院を交互に見て、熱心にミルクを飲んだ。
 背の低いテーブルを間に挟んで、承太郎と赤ん坊の向かいに坐ると、花京院は足を組んで、その上にスケッチブックを広げる。目の前の擬似親子の姿を、真っ白な紙の上に描き写し始めた。
 鉛筆を滑らせる音と、ミルクを飲み込む音ばかりがよく響く。やや照れたように、自分をスケッチする花京院の方を見ない承太郎は、赤ん坊の動きや表情に見入っている振りで、大きな手の中に哺乳瓶を収めて、添えた指の位置を何度か変えた。
 承太郎ばかりが描いてあるのは、もう1冊、別のスケッチブックだ。これには、ジョセフや赤ん坊や、記憶に頼って描いてみた仗助、それに康一や億泰の顔ばかりがたくさんある。幽霊の鈴美も、あの小道の風景を思い出しながら、何枚か描いてみた。
 知った誰かをそうして描いてみると、相手の心の内側に、静かに踏み込んだような気持ちになる。穏やかな表情のジョセフと、ちょっと唇をとがらせている仗助と、気持ちよく微笑んでいる康一と、とぼけた表情の億泰と、鈴美はどの顔も、少し淋しそうだ。
 そのどれにも、自分自身の心の中が反映されているのだと、そう気がついて、どんなふうに描いても、強い瞳が熱をたたえている承太郎は、それはそのまま自分の、承太郎へ向かっている視線なのだろうと、花京院は、自分のまぶたの辺りを思わず撫でた。
 指先にかすかに触れる長い傷跡が、熱を持っているように感じて、何気なく瞬きを繰り返す。
 何十枚と描いている承太郎は、色も塗られないまま、けれどだからこそ、生身の承太郎の体温をじかに表しているように思えて、自分の描いた絵だというのに、奇妙な生々しさに驚くことがある。
 17の承太郎ばかりだったのに、今では、大人の承太郎ばかりを描いている。いろんな承太郎を描きながら、花京院は、20歳の承太郎や、24歳の承太郎を想像する。もう、二度と会うことのかなわない、見知らぬ承太郎を思い浮かべて、自分も一緒に大人になるはずだったのだと、制服の胸のボタンにそっと触れた。
 そう言えば、傷のない、以前の自分の姿も、今では思い出すのに苦労するようになっていた。
 肋骨の揃った胸の辺りは、一体どんなふうだったか、引きつった皮膚も縫い跡もなかった腹の辺りは、以前はどんな線を描いていたか、あまりまじまじと眺めたこともなかった自分の体だった。
 いずれ、腹の傷跡を、きちんと描き写しておこうと思っている。鏡を使うか、ハイエロファントグリーンの視界を使うか、どちらでもいい。ハイエロファントなら、自分の背中の傷跡を見ることもできる。紙の上に現れた、自分の目を通して見た傷跡と対峙することによって、きっと何か癒やされるものがあると、花京院は信じていた。
 傷を癒やすというのは、体の穴が塞がって、皮膚が再生するというだけのことではないのだと、承太郎と抱き合う夜に、ことさら強く思う。自分自身に向き合って、その傷に深さに恐怖しながら、けれど目をそらさないということだと、そんなふうに思えば、承太郎はそれに気がついているのだろうかと、花京院は、時折指先に触れる、あちこちに散らばった大きくはない承太郎の膚の上の傷跡に、こっそりと目を細めた。
 花京院を癒やせるのが、花京院自身でしかないように、承太郎の傷を癒やせるのも、また承太郎自身でしかない。
 抱き合って、膚を重ねることで、明らかになってしまった互いの心の内側は、思ったよりも傷だらけなのだと気がついてしまえば、助けの手を差し伸べることはできても、自分自身を救えるのは自分自身だと、そう自覚が深まるだけだ。体という境界線を越えてひとつになりたいと、そう一生あがき続けるのが人間というものなのかもしれないと、承太郎を抱きしめながら、花京院は思う。
 躯を繋げることは、解決ではない。それをひとというものの悲しさだと解釈して、それでも、互いを求めずにはいられないという現実に直面しながら、何もかも、承太郎と過ごした時間で学んだことだと、花京院は複雑な心持ちで、紙の上に次第に浮かび上がる承太郎の目の辺りに、じっと視線を注いだ。
 赤ん坊は順調に哺乳瓶を空にし、満足した表情で、一度大きく息を吐き出す。承太郎は赤ん坊に視線を当てたまま、哺乳瓶を軽く振って、おしまい、とでも言うように、ちょっと肩をすくめて見せる。赤ん坊が、うれしそうにきゃっきゃと笑った。
 花京院は鉛筆を滑らせていた手を止め、スケッチブックを閉じた。
 空の哺乳瓶を受け取るために、立ち上がって承太郎たちの方へ行きながら、自分に向かって微笑む承太郎に、花京院は反射的に微笑みを返していた。
 「じじいから、岸部露伴の話は聞いたか。」
 花京院に哺乳瓶を手渡して、承太郎が危なっかしく赤ん坊を肩の上に抱き直す。
 「岸部露伴? あの漫画家がどうかしたのかい。」
 「駅の通勤客の写真を撮っているそうだ。」
 胃の中の空気を吐き出させるために、承太郎の大きな手が、赤ん坊の小さな背中を撫でる。承太郎のぶ厚い肩に、やわらかなあごを乗せて、赤ん坊は楽しそうに手足をばたつかせている。
 「吉良を探すために?」
 「そうらしい。年齢と体つきから判断して、それらしい通勤客を片っ端から写真に撮って、気の遠くなるような話だな。」
 「それでも、確実に吉良に近づくには、そんな地道なやり方しかなさそうだな。」
 ため息を吐くように花京院が応えると、承太郎はふと真剣な表情を取り戻して、花京院に向かってうなずいた。
 赤ん坊が、けぷけぷと数回、合いの手のように、空気を吐き出す音を立てた。
 「どういう理由か詳しいことは知らんが、被害者がまた増える前に吉良を捕まえたいと、やけに熱心らしい。仗助に言わせると、自分の仕事のこと以外には一切興味を示さない人間らしいが、珍しいことだな。」
 口振りほど、それを奇妙と思ってはいない様子で、承太郎があの漫画家のことを言う。
 あの小道で、初めて鈴美に会ったあの時、その口調や態度とは裏腹に、やけに心配そうに自分の傍にいてくれた露伴のことを、花京院はゆっくりと思い出していた。
 きっと何か、鈴美に関することなのだろう。何事にも動じないように思える露伴が、なぜ鈴美の前では落ち着きを失くすのか、花京院も知らない。訊いても、あの露伴は何も答えないだろう。
 少なくとも確かなのは、露伴は鈴美のために動いているのだろうということだ。吉良に殺されてしまった、鈴美のために。
 鈴美は、自分の愛したこの街と、何も知らずに危険に晒されている、この街に住む人たちを救うために。
 仗助たちは、この街のために。自分たちのために。
 ジョセフは、自分の息子である仗助のために。
 承太郎は、自分の叔父である仗助と、その仲間たちのために。
 自分は、と花京院は思った。承太郎のために。ジョセフのために。承太郎たちが大事に思っている、仗助たちのために。そして、本来なら穏やかな風景を抱えているだけのはずの、この街のために。
 何かが、胸の中で閃いたような気がしたけれど、自分に向かってまた微笑みを浮かべた承太郎に微笑み返すためにふっと意識をそらした瞬間に、それはかき消えてしまった。
 赤ん坊が、承太郎の肩の上から、花京院に向かって、小さなその手を伸ばしている。花京院はまだ、承太郎と赤ん坊に向かって、微笑みを浮かべたままでいる。


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