雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

10) 例えばそんな結末A


 昨日の次は今日、今日の次は明日という、何の変哲もない流れの中に飲み込まれた、平凡な1日のはずだった。
 特に報告することはなしと、いつものようにSPWに定時連絡を送った後で、花京院はジョセフの部屋へ戻り、承太郎はそのまま、ホテルの裏手のプライベートビーチへ出て行った。
 昨日は仗助と出掛けて、少し遅く帰って来たジョセフは、午後の半分をソファでうつらうつらと過ごし、その傍で花京院は、静かに赤ん坊をあやしていた。
 吉良が見つかったというニュースも飛び込んで来なければ、何か手がかりが見つかったという話もないまま、いつものように、午後は音もなく過ぎてゆく。
 花京院は、朝から妙な気分だった。目が覚めた瞬間から、やけに空気がなまぬるく感じられて、ホテルの空調のせいかと思ったけれど、どうやらそうではないらしく、皮膚がぷつぷつと泡立つような感覚に、ひっきりなしに二の腕を掌でこすっている。
 首の後ろに髪が触れるのがひどく鬱陶しくて、何度も何度も髪をかき上げた。
 体の中が、奇妙に騒がしい。頭のどこかでずっと耳鳴りがしていて、風邪でも引いていて、頭痛の前兆かと、他に不調はないかとうかがっても、それらしいところもない。病気というわけではないなら、もしかして、仗助がとっくに治してくれたはずの傷が、どこかぶり返しでもしたのか。けれどどこが痛むというわけではなく、ただ、何となく神経がとがっていて、何もかもにやけに過敏になっているような気がする。
 じきに治まるだろうと思っていたそれは、午後になってひどくなる一方だった。
 どこかで苛立っているのを鎮めようと、赤ん坊を傍に寝かせて、スケッチブックを開く。自分に向かっているそのやわらかな笑顔を描き取ろうとして、けれどなかなか線が決まらずに、紙を3枚無駄にしたところで、やっと諦めることにした。
 何をやってもうまく行かない日というのがあるものだ。今日がその日なのだろうと、もう苦笑をもらす元気もなく、大きく肩を上下させて、花京院はため息を吐いた。赤ん坊は、花京院の気分の悪さを知ってか知らずか、にこにこ笑うばかりだ。
 泣かれるよりはいい、そう思って、丸い頬に指を滑らせる。赤ん坊はいっそううれしげに手足をばたばたさせて、花京院の手首をつかんだ。
 そろそろ午後も遅いというのに、まだ承太郎はここへやって来ない。ビーチで、何か面白いものでも見つけて、夢中になっているのだろうか。
 花京院の指を、まだ歯の生えない歯茎で噛んで、赤ん坊が声を立てる。その声に、向かいのソファでまどろんでいたジョセフが、完全に目を覚ました。
 「いかんいかん、すっかり寝入っとった。」
 ずれた老眼鏡を指先で押し上げながら、ジョセフが体をきちんと起こして、背もたれに沿って背中を伸ばそうとする。小さなあくびをして、目の辺りをこすってから、花京院の傍にいる赤ん坊に向かって両腕を伸ばす。花京院は赤ん坊を抱き上げて立ち上がると、ジョセフの傍へ行って、赤ん坊をその腕に受け渡した。
 「コーヒーでもいれましょう。」
 いつもなら、承太郎がここへ来てからコーヒーをいれるのだけれど、もしかするともうひとりで部屋に戻って、論文の下書きにでも熱中しているのかもしれないと思って、承太郎を待つのはやめることにした。
 赤ん坊は機嫌よく、ジョセフのひげに指先を差し入れて、そのふわふわとした感触をひとりで楽しんでいる。すっかり幼い孫をいとおしむ顔つきで、ジョセフも微笑んでいる。花京院はそれを眺めながら、さっきまでの機嫌の悪さを、わずかの間だけ忘れた。
 コーヒーの香りに目を細めて、それでも、皮膚の裏側が泡立つような奇妙な感覚はまだ消えず、花京院は肩の凝りをほぐすような仕草で、首の後ろを撫でた。
 「寝不足か。」
 花京院が差し出したコーヒーのマグを、義手の方で受け取りながら、ジョセフが怪訝そうに訊く。顔色も悪いのだろうかと、ちょっと唇の端を下げて、花京院は肩をすくめて見せた。寝不足だとすれば承太郎のせいだけれど、ジョセフがそんな意味で言っているはずはないと、狼狽しかけて舌を噛みそうになったのを、ちゃんと寸前で止める。動揺を面に出さないのは、昔から得意だった。
 「風邪かもしれません。今夜ちゃんと寝れば大丈夫だと思います。」
 「気をつけんとな。体の方も、まだ完全に元通りというわけにもいかんじゃろうし。」
 ええと素直にうなずいて、まだ自分の分のコーヒーは注がないまま、花京院はソファの上に置きっ放しだったスケッチブックを、きちんとテーブルの上に片付ける。
 承太郎は今どこにいるのだろうかと、また思った。
 手持ち無沙汰に、なぜか気が進まずに、ジョセフにはそれ以上自分からは話しかけないまま、花京院はコーヒーを注ぎにゆく素振りでジョセフに背を向ける。
 いらいらしているというわけではなくて、何だか、とても落ち着かない。マグに半分だけコーヒーを注いで、いつまでも、何も入れないコーヒーをスプーンでかき回している。
 「この子の親も、なかなか見つからんのう。」
 ジョセフが、赤ん坊の髪を撫でて、少し低い声で言った。
 「まあ、捨て子だとしたら、わざわざ名乗り出ることもせんじゃろうがな。」
 ジョセフの声がごく自然に沈むのに合わせて、花京院も、少し心配げな声を出した。
 「見つからなかったら、その子は・・・。」
 最後まで言えずに、花京院はそこで言葉を切った。やっとスプーンを置いて、少しばかり深刻な表情のまま、ジョセフと赤ん坊の傍へ行く。
 「ほんとうなら、実の親のところへ帰るのがいちばんなんじゃろうが、この子がスタンド使いであることを考えると、そうとばかりも言えん。ワシがこのまま引き取ってしまうのがいちばん良いような気もするが、日本人のこの子をアメリカに連れて行くのは、どんなもんかの。」
 思っていたよりも、ずっと真剣にこの赤ん坊のことを考えているらしいジョセフに、何と答えてよいかわからずに、花京院はただ黙り込んだ。
 生まれつきのスタンド使いであるこの子は、同じスタンド使いであるジョセフの手元で育てられた方が、幸せになれるような気がした。どうやら親に捨てられたらしい原因も、自分を含めた周囲を透明にしてしまうという、この子の能力のせいなのだろうし、けれどそんな自分の考えを、軽々しく口にすべきではないと思って、花京院は横に広い唇を、ことさら強く結んだ。
 「ところで花京院、おまえに頼みがあるんじゃが。」
 「頼み?」
 少し軽くした口調で、ジョセフが花京院を見上げる。口元に、いつものいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。その笑みにつられて、何だろうと身構えかけた肩の力を抜くと、花京院は、自分の内の落ち着かなさと、赤ん坊の身の上の深刻さを、とりあえず頭の片隅に追いやることにした。
 「この子の名前を考えてくれんか。」
 思いがけないジョセフの頼みごとに、花京院は思わずあごを引いていた。
 ジョセフと仗助が見つけた時に、身元を示す何も身に着けていなかったこの赤ん坊は、名無しのまま、あの子とかこの子とか、そんなふうに呼ばれている。勝手に名前をつけてしまっては、実の親が見つかった時に先方に悪い気がするし、何より情が湧いて離れがたくなってしまうだろうからというのが、ジョセフの言い分だった。
 「僕がですか。」
 ジョセフが微笑んだまま、小さく何度もうなずく。ジョセフの腕の中で、それに合わせたように、まるで、自分の周りで交わされる会話の内容をわかっているとでも言うように、やけにうれしそうに、当の本人である赤ん坊が、きゃっきゃと声を上げる。
 ジョセフの笑みが、ふと慈愛に満ちたそれに、ゆっくりと変わった。
 「おまえなら、この子によく似合う日本語の名前を考えてくれるじゃろ?」
 ジョセフの、こんな表情には、誰も逆らえない。
 まさか、赤ん坊の名付け親を頼まれるとは、夢にも思ったことはなかったけれど、照れくささと晴れがましさの両方を頬の辺りに浮かべて、花京院は静かにうなずいた。
 「何か、いい名前を考えてみます。」
 自分に言い聞かせるように、微笑んだまま花京院がそう言った時に、静かにドアがノックされ、承太郎がようやく姿を現した。
 どうしてか、今朝とまったく変わらない承太郎を見た途端に、心臓が2拍跳ねた。花京院は慌てて自分の胸元を押さえて、心臓がちゃんと動いていることを確かめて、けれど自分の傍にやって来た承太郎の首筋の辺りから、強く潮の匂いといつものコロンの香りが鼻先をかすめた瞬間、背骨が真っ二つに裂けたような音が、体のどこかで聞こえた。
 承太郎とジョセフが、何か言葉を交わしているのを、きちんと聞き取ることができずに、花京院はひどく慌てた仕草で、テーブルに片付けておいたスケッチブックを取り上げると、無礼も構わずに、まだ会話を続けているふたりの間に、突然割って入った。
 「すみませんジョースターさん、何だか気分が悪いので、今日はこのまま部屋に戻ります。」
 言いながら、こめかみの辺りがどくどくと脈打っている音のせいで、自分の声さえろくに聞こえない。
 ジョセフが心配そうに何か言ったのに、当たり障りのない返事を上の空で返してから、花京院は承太郎のコートの袖を引いた。
 「すまないが承太郎、一緒に来てくれないか。風邪薬か頭痛薬か、君なら持ってるだろう。」
 承太郎に触れると、心臓の辺りがぎりぎりと痛む。
 花京院の只事ではなさそうな様子に、その場ではそれ以上は質問はせずに、承太郎はジョセフの方へいつものように口悪く言葉を投げて、先に立って部屋を出て行く花京院の後を追った。
 「どうした、大丈夫か。」
 「・・・大丈夫じゃない。」
 ドアを閉めて、廊下を3歩進んだ辺りで、隣りに追いついた承太郎が、今にも肩を抱き寄せそうに体を寄せてくる。花京院は、はっきりと、今朝からの自分の落ち着かない気分の原因を悟って、さらに足を速めた。
 「とにかく君の部屋に行こう。話はそれからだ。」
 「一体なんだ? じじいに何か言われたか。」
 「・・・ジョースターさんは関係ないよ。関係あるとしたら、むしろ君の方だ。」
 はっきりと怪訝そうに、承太郎が眉をしかめる。それをちらりと見て、花京院はぎゅっと唇を結んだ。
 角をふたつ曲がって、やっと承太郎の部屋へ着くと、承太郎よりも先に部屋の中に滑り込んで、花京院はドアを閉めた承太郎を、素早く自分の方へ引き寄せた。
 持っていたスケッチブックが、床に落ちる。自分の首にぶら下がるように体をぶつけて来た花京院を抱き止めて、承太郎も、手にしていた小さなノートを、足元へ落とした。
 焦って、一度目は唇がうまく重ならずに、二度目で、押しつけるだけの仕草で承太郎の唇を奪うと、花京院は、承太郎に触れた自分の体が、久しくなかった反応を示していることを確かめてから、ようやく腕の力を抜く。
 「・・・花京院、てめー・・・。」
 花京院の様子に気がついて、承太郎は、花京院の腰の辺りを、もっと近く抱き寄せようとする。それから逃れようと、軽く身をよじって、花京院は頬を染めてうつむいた。
 「今朝から、妙だったんだ。まさかこんな急に、いきなり元に戻るなんて・・・確かめたかっただけなんだ、悪かった。」
 早口に、一気にそう言って、花京院は承太郎から離れようと、胸を手で押し返す。承太郎はそうさせずに、いっそう腕に力を込めた。
 もがく花京院を片腕だけで抱え込むと、もう一方の手を、腿の辺りへ滑らせる。そうして、はっきりとそれを掌に確かめながら、承太郎は花京院の首筋に歯を立てた。
 「おい承太郎・・・ッ。」
 はっきりと抵抗することができないのは、体に力が入らないせいだ。追い詰めようとする承太郎の手指の動きにきっぱりと逆らえないのは、このまま流されたいと、心のどこかで思っているからだ。
 楽になってしまいたいと思いながら、それでも、今ここでこんなことをしている場合ではないと、理性が一片だけ、花京院を押しとどめている。
 もっと確実に探ろうとする承太郎の手を、押さえて止めると、その手を振り払おうとする承太郎と、少しの間揉み合いになる。
 ベッドのある方へ引きずられながら、これも本気で抗えば、承太郎を止めることができないわけではないとわかっていて、まだ決心がつかないまま、制服のボタンを外し始めた承太郎の手を、往生際悪くまた止めようとした。
 「・・・まだ、こんな、明るいじゃないか・・・。」
 夕方には、まだもう少し間がある。カーテンを閉めない部屋の中は、真昼のように明るい。
 乱れのないベッドに押し倒されて、両手は縫い止められ、両脚の間には、承太郎の膝が割り込んでいる。
 承太郎は、脱いだ帽子を、ベッドの向こうに放り投げた。
 「始めたのはてめーだ。とりあえず最後まで確かめさせろ。文句があるなら、後でいくらでも聞いてやる。」
 全身の血が逆流していて、確かにこのままでは治まりそうにはなかった。
 承太郎が、コートを肩から滑り落とすのを、腕を伸ばして手伝いながら、花京院はそれでも諦め悪く、つぶやきをこぼすことを忘れない。
 「・・・別に、そんなつもりじゃなかったんだ。」
 制服の前が開いて、シャツのボタンを外すよりも先に、承太郎は、花京院の腰のベルトに手を掛けた。
 そう言ったのが、本音だったのかどうか自分でもわからずに、滑り込んできた承太郎の掌に、花京院は息を飲む。花京院の上で、承太郎が大きく息を吐き出した。
 熱いのは、承太郎の掌ではなくて、自分の躯の方だ。明るさに羞恥ばかりが湧いて、承太郎の肩口に顔を埋めながら、花京院は、あまり見るなと、何度も承太郎に言った。
 少しずつ服を剥ぎ取りながら、花京院の耳朶を赤いピアスごと噛んで、
 「・・・やかましい。」
 しみとおるような承太郎の声に、全身が慄える。
 黙るためと、承太郎の視界を塞ぐために、花京院は、承太郎の濡れて光る唇に、自分の唇を重ねて行った。


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