雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

9) 傷つけばいいC


 ささやかに波乱万丈の買い物を終え、仗助と食事をすませてくるはずのジョセフを待たずに、承太郎と花京院は、赤ん坊を連れて、ホテルのレストランで夕食を終わらせた。
 ジョセフの帰りを待ちながら、SPWへの定期連絡の内容を話し合うのに思ったよりも時間がかかったのは、花京院の傷の具合を詳細に報告するべきだと主張する承太郎と、そんなことは一行も書く必要ないと言う花京院と、赤ん坊をそばに置いて、久しぶりに白熱した議論になったせいだ。
 結局、花京院典明は少々---ここは承太郎が折れた---怪我をしたけれど仗助がスタンドで治し、その後はまったく心配がないようだと、簡潔にまとめるということで合意したところに、ロビーで仗助と別れたジョセフが、ひとりで部屋に戻って来た。
 笑顔で迎えた花京院から、笑顔で赤ん坊を受け取って、ジョセフがやれやれとソファに腰を下ろすのに、ふたりは揃って場所を譲り、承太郎は、それを潮に書類をまとめてそこを辞した。
 ドアの向こうへ消えながら、承太郎が送ってきた合図を正確に受け取って、花京院はけれどそんなことはおくびにも出さずに、買い物の成果をジョセフに報告する。
 花京院のいなかった3日間、ほとんどひとりきりで赤ん坊の面倒を見ていたジョセフは、今日の外出も重なってひどく疲れているように見えたので、今夜はなるべく早くここから去ろうと、花京院はさり気なくジョセフの腕から赤ん坊を取り上げた。
 「そろそろ寝る支度をしましょう。」
 花京院がそう言うと、ジョセフはどこかほっとしたように微笑んで、少し震える手を伸ばして---手袋の包まれた、義手の方だ---、赤ん坊の頭を撫でる。
 「体はもう、大丈夫か。」
 疲れのにじんだ声で、花京院を気遣う表情が口元に浮かんだ。
 花京院は苦笑いでそれに応えて、軽く肩をすくめた。
 「ええ、熱はもう下がりましたから。ケガは心配ありません、仗助くんのおかげです。」
 息子の名を聞いて、途端にジョセフが、照れた笑みに頬の辺りを赤く染める。
 寄る年波には勝てないとは言え、仗助に会い、この赤ん坊を拾った辺りから、少しずつ態度に、エジプトへの旅の頃の若々しさが見えるようになっているジョセフは、丸めていた背をちょっと伸ばし、くくくと、華やいだ声を立てて笑った。
 仗助と、今は歳の変わらない花京院を、けれど見上げる目は、祖父のそれだ。エジプトのあの頃と、それはまったく変わらない。
 父親かと、花京院はふと胸の中で思う。
 騒めいた胸の内を悟られないように、ジョセフに横顔を見せて、
 「着替えをさせて来ます。」
 わざわざそう言って、バスルームの方へ足を向けた。
 赤ん坊は、花京院に久しぶりに会えたのがうれしかったのか、今日は1日機嫌の良いまま、今もおとなしく花京院に抱かれている。
 大きな洗面台にタオルを敷いて、サングラスを外し、おしゃぶりを取り上げてそこに寝かせて、おむつを替える。花京院とジョセフが精一杯気をつけているので、つるつるした肌のどこにも、かぶれやただれは見当たらない。
 足をばたつかせて、けれどもう眠そうに自分の指を噛み、柔らかくてまだ薄い髪を花京院が撫でると、うれしそうに声を立てた。
 ごく自然に、やわらかな声で話しかけながら、丸い額や頬に唇を触れさせる。赤ん坊の小さな指が花京院の髪をつかんで、握りしめれば離さない。
 一緒に声を立てて笑って、引っ張られる髪をそっと取り上げながら、少し厚いガーゼの夜着に着替えさせた。
 肩にタオルを乗せて、そこにあごが乗るように赤ん坊を抱いて、背中を撫でながら、ゆっくりとバスルームを出る。そうっと揺すって、小さくささやきかければ、くたりと花京院の腕の中に体を伸ばしてくる。
 爪先を滑らせるように、音をさせずにソファに近づくと、背もたれに寄りかかって、目を閉じているジョセフがいた。
 こちらも、どうやらもう寝る時間のようだ。
 それに苦笑を送ってから、さらに足を進めて、ベビーベッドのそばへ寄る。
 腕に抱いて、しっかりと、けれど穏やかに視線を合わせて、花京院は小さな声で歌を歌う。子守唄ではなかったけれど、何でもいい、耳に心地良く響く優しい歌を、知っている限り、腕の中の赤ん坊のために歌う。ごくまれに、スティングのバラードが混じるのはご愛嬌だ。
 見開かれていた、瞳の見えない目が、次第にまぶたに覆われて、すっかり肌色になるのに、そう時間は掛からない。
 自分も、こんなふうに育てられたのだろうかと、歌う声をさらに小さくしながら思う。そんなことを尋ねる時間すらなかったことを、今さら思い出して、これから先会うことはきっとないだろう両親のことを考えれば、人並みに胸も痛む。
 花京院は、力を入れずに赤ん坊を抱いた。
 そうだと、わざわざ考えたことはなかったけれど、これは両親への罪滅ぼしのつもりかと、自分の胸の内を覗き込む。この赤ん坊を大事にすることで、きちんと別れの言葉さえ交わすことのなかった両親へ、決して届きはしないにせよ、感謝の意を示しているのだろうかと、花京院は考えた。
 暖かく優しい家庭だったとは言えなかった。けれどそれは彼らのせいではない。少なくとも、あの時まで16年間、大事に育てられたのだとそう思える。ただ花京院は、彼らとはあまりに違いすぎたのだ。
 父さん母さん、すみません。
 エジプトでの死に際に思った同じことを、また思う。
 赤ん坊は、すっかり寝入っていた。
 そろそろと腕を伸ばして、ベッドの中に寝かせ、小さな枕の上に小さな頭の位置を定めて、1分ほど寝顔を眺めてから、花京院はやっと体を起こす。
 今日は、とても穏やかな、良い1日だった。だから、悲しいことや胸の痛むことを、こうして考えることもできるのだ。
 ソファで眠ってしまっているらしいジョセフを起こすために、花京院はうっすらと微笑みを浮かべたまま、また音もなく爪先を前に滑らせた。


 自分の部屋には戻らずに、そのまま承太郎の部屋へ行くと、待っていたように1度目のノックでドアが開いた。
 「遅かったな。」
 帽子もコートもなく、すっかりくつろいだ姿で、論文か何かの下書きでもやっていたのか、ソファの前のテーブルには、山ほど紙が散らかっている。
 それを片付ける様子もないまま、承太郎はソファのそばで花京院を抱き寄せた。
 「ジョースターさんがベッドに入ったのを見届けてから部屋を出たんだ。」
 時間の掛かった理由を手短に言うと、その終わりを待たずに、承太郎がせっかちに唇を触れさせてくる。
 「ジジイと赤ん坊の面倒で一生終わらせる気か。」
 今日散々こき使われたお返しだとでも言うつもりか、承太郎の声が少しとがる。それを苦笑で受け流して、花京院も承太郎を抱き返した。
 承太郎に向かって背を伸ばしながら、外出の間中ずっと心穏やかではなかったらしいと、やたらと動き回る腕にはっきりと感じて、花京院はいっそう苦笑を深くした。
 別に承太郎をないがしろにしたつもりはないけれど、ジョセフや赤ん坊と秤にかければ、どうしても後回しになるのは仕方なく、その埋め合わせをするつもりで、もう承太郎の腕には逆らわない。
 髪の中にもぐり込んだ指先が、耳や首筋を撫でる。耳朶を噛む承太郎の首筋に埋めた鼻先に、昼間に比べると少し薄くなったあのコロンがかすかに匂った。
 思わず鼻を鳴らすと、それに気がついた承太郎が、なんだと腕の力をゆるめる。
 「いや、君のコロンが、匂っただけだ。」
 汗の匂いと交じったそれを、こっそりと胸いっぱいに吸い込みながら、花京院はそこで目を細めた。
 「てめーがいやなら、もうつけねえ。」
 承太郎が本気らしく言うのに、慌てて、
 「いや、そうじゃない、いい匂いだ、君に似合ってる。」
 あの頃は削いだように見えていた首筋からあごと頬にかけての線を下から見上げて、花京院は低くなった声で言う。
 承太郎の腕が、また背中にしっかりと回った。
 「・・・てめーもつけるか。」
 耳にかかる息が、もう熱い。その熱さに、ぞくっと首筋が慄えたのを隠せず、花京院は、自分から承太郎の唇を奪いに喉を伸ばした。
 「僕には無理だ。まだ早い。」
 コロンのことを言ってるつもりの言葉が、どこか別のところへ上滑りする。
 もう、邪魔が入る気遣いはなかった。
 承太郎の唇を軽く噛んで、そのままそこで、際どいことを言ってみた。
 「・・・どうせそのうち、僕にも君の匂いが移る。」
 だから、と続けた言葉は、承太郎の唇の中に飲み込まれた。
 承太郎の誘いに、花京院がはっきりと乗った形で、ふたりは交互にシャワーを浴びて、ベッドに滑り込んだ。
 承太郎は相変わらず、そうしたくて仕方がなかったという態度を隠しもせず、今日は余裕もない仕草で花京院に触れる。唇と鎖骨の辺りに何度も噛みついて、わざわざ薄く歯型を残した。
 一度馴染んでしまった膚は、たやすく相手に向かって溶けてゆく。これが欲しかったのだと、承太郎以上に思いながら、花京院は、承太郎の硬い腿や腹の辺りに掌を乗せて、そうして、わかりやすく自分を欲しがっているその辺りに、指先を滑らせてゆく。
 相変わらず反応のないままの花京院の躯を、承太郎はかまわずに自分の方へ沿わせた。
 手足を、けじめもなく絡めて、色を塗りたくるように、互いを口づけで覆って、今夜はベッドがひどく音を立てるのを気にする素振りも、ふたり揃ってない。
 伸ばした爪先に蹴られた上掛けが床に半分ずり落ちて、シーツもしわだらけになっていた。
 上と下と、何度も飽きずに入れ替わりながら、ベッドの上を暴れて転がるうち、開いた脚の間で、承太郎が花京院の、そこは平らになめらかな下腹に歯を立てる。そうして、いきなりそんな気になったとでも言うような唐突さで、花京院の形の変わる様子のないそれに、唇を寄せた。
 逃げようと動く花京院の腰を抱え込んで逃がさずに、承太郎は、いつまでもやわらかなままのそれを、食む。
 こんな時に触れることは滅多となかったから、まるで小さな生きもののようなそれが、傷つきやすさばかりを主張していて、承太郎は、それをただ穏やかに舌の上であたためた。
 いくら待っても、応えて来る様子はなく、昂ぶることさえできない花京院が、逆につらそうな声をもらすのに、承太郎はようやくそこから唇を外した。
 「・・・まだ無理だって、言ったじゃないか。」
 見上げる承太郎に、あごを引いて唇を突き出した花京院が言う。赤くなった目元が、かすかに慄えていた。
 「勃たせるためにやったわけじゃねえ。」
 「僕のことはいい。」
 腹立たしさよりも、羞恥をあらわにして、花京院が承太郎に背を向ける。承太郎は、間を置かずにその背に重なりながら、花京院の腹の傷の辺りに腕を回した。
 「こっち向け。」
 そう言うと、素直に承太郎の腕の中で体を回して、すぐにしがみついてくる。ようやく、自分の胸に顔を埋めている花京院を、ただ抱き返せるだけの余裕を取り戻して、承太郎はゆっくりと息を吐き出した。
 少し落ち着くために、けれど裸の体を覆わないまま、ふたりは黙ってそうして抱き合っていた。
 重なった胸は暖かく、互いの腕の中で、膚だけをこすり合わせて、さっきまでの騒がしさを恥じるように、ふたり一緒に小さく笑った。
 花京院の指先が、承太郎の耳に触れ、その複雑な流線をたどる。こめかみや目尻の辺りを、何度も何度も、親指の腹が探って行った。
 「てめーは、なんにも欲しいものはなかったのか。」
 承太郎の質問の意味が一瞬うまくつかめずに、花京院は眉を寄せて承太郎を見上げた。硬いあごに唇が触れた辺りで、
 「赤ん坊のものしか買わなかったろうが。」
 今日のことだと付け加えられて、ようやく合点が行く。意識を日常に戻して、花京院は少しの間肩をすくめた。
 「別に、欲しいものなんて・・・。」
 すくい上げるように承太郎を見上げながらそう言えば、言葉に、それ以外の意味が含まれてしまうと、言った瞬間は気づかずに、花京院はうっかり熱に潤んだ瞳のままで承太郎を見つめている。
 けれど一瞬後に、頭に浮かんだものがあった。
 「・・・色鉛筆が欲しいな。」
 ちょっと遠くを見るような目つきで、そう素直に口にしてみた。
 「色鉛筆?」
 案の定、そんなものが欲しいのかと、承太郎がちょっとだけ唇の端を上げる。苦笑によく似た、薄い笑みだ。
 「できたら、色数の少し多いのがいい。そうしたら、君の絵に色が塗れる。」
 花京院は、まるで今その色を塗っているかのように、承太郎の腕を、ゆっくりと肩に向かって撫で上げた。
 スケッチブックは、もう何冊か埋めたけれど、どれも鉛筆で描いただけのものだ。そろそろ色を塗りたいと、そう思う。
 「そう言えば、あの頃は日に焼けて真っ黒だったな、僕ら。」
 いつもきっちりと、学生服の詰襟を乱すことのなかった花京院と違って、承太郎は、シャツの首の辺りが丸く日に焼けていた。それはもちろん、今は跡形もない。
 花京院は、承太郎の喉の辺りに掌を当てて、今はどこにも日焼けのない膚の色---あの頃とは、違う---を、目を細めて眺めた。
 承太郎も、花京院に誘われたように目を細めながら、腕を後ろの方へ伸ばして、あらぬ方へ広がっていた上掛けを引き寄せる。それで、自分も花京院も覆いながら、もっと近く体を寄せた。
 「・・・もう黙れ。」
 言った通りに、花京院の唇をふさいで、自分に触れていた花京院の手を取って、下の方へ導いた。
 今度は静かに、まるで隠れ家で息をひそめるように、躯の熱さを互いの皮膚で覆い隠す。
 承太郎と、掌を重ねて、その熱さに素直に煽られながら、昂ぶりを示せない自分の躯に、花京院はわずかに焦れた。
 それでも、潤う全身を承太郎の腕に納めて、自分の掌には余るそれに、指を滑らせていた。
 体の位置を変えるために、承太郎の腕の輪から抜け出しながら、何もかもが穏やかだった、今日一日のことを考える。
 生き延びたのだと、今さら、深い安堵に沈み込みながら、承太郎のすべてを今覚えておくために、花京院はいつの間にか、承太郎に向かって全身を開いていた。


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