雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

10) 例えばそんな結末D


 とても気持ちの良い午後だった。
 久しくひとりで外に出た覚えのなかった花京院は、ジョセフがその午後外出しないことを確かめて、承太郎に、ちゃんとジョセフと赤ん坊の傍にいてくれと頼んで、ひとりホテルを後にした。
 これと言って何か目的があるわけではなく、小さなスケッチブックと読みかけの本だけを携えて、少しばかり街中を歩き回った後で、カフェ・ドゥ・マゴに腰を落ち着けたのも、最初から計画していたわけではなかった。
 メニューのチェリータルトに心魅かれながら、ひとまずは紅茶だけを注文して、こんな時間には少々目立つ学生服姿ではあったけれど、周囲の誰も花京院に注意を払っている様子もなく、辺りを一通り見渡してから、花京院は膝の上にスケッチブックを広げる。粗い線のジョセフや赤ん坊ばかりのページをめくって、半ばに見つけた白い紙に、きちんとナイフで削った濃い鉛筆を滑らせると、早速テーブルの上にある、塩と胡椒の揃いの容器を描き写し始める。
 丸みを帯びた形や、模様の浮き出ている表面の質感を、見ているまま紙の上に写すことに、しばらくの間楽しく腐心する。
 久しぶりに邪魔の入らない、ひとりの時間だった。動かないもの、表情というものがない物を、こうして無心に描き写していると、他のものがすっかり消えて、音も聞こえなくなる。背後の雑踏から、完全に意識を飛ばして、花京院は自分の手の動きに没頭していた。
 鉛筆が紙をこする音だけを聞いて、そこに現れる線に、満足の小さな笑みを浮かべていることに、自分で気づかずに、だから、ひとり坐っているテーブルに近づいてきた人影にも、その気配すら感じないまま、手元を凝視していた。
 「君も絵を描くのか、誰もそんなことは言わなかったな。」
 挨拶の言葉も、名前を呼びかけることもない、唐突なその声のする方へ、花京院は驚いて弾かれたように顔を上げる。うっかり滑った鉛筆の先が、せっかく乱れずに描けた、胡椒入れの蓋の部分の丸みの線から、横滑りにはみ出す。
 それに失望するよりも先に、目の前にいる岸部露伴へ、花京院はびっくり箱をうっかり開けてしまったような表情を、思わず隠せない。
 「やあ、君か。」
 ちょっと声が上ずったのは、売れっ子のマンガ家である露伴に、描いていた絵を見られてしまった気恥ずかしさのせいだ。花京院は、さり気なくスケッチブックを閉じて、社交辞令ではあったけれど、なるべくにこやかに微笑んで、閉じたスケッチブックの上に、一緒に持って来た本を重ね、露伴の視線には引っ掛からないテーブルの端へ置いた。
 「ぼくはここにはよく来るんだが、君を見かけたことはなかったな。もちろん君は、スタンド使いを追っかけるのに忙しくて、こんなところでのんびりしてるヒマなんかないんだろうが。」
 花京院に尋ねることもせずに、露伴は花京院のすぐ隣りの椅子へ腰を下ろし、肩に掛けていた大判のスケッチブックを、空いた椅子の上に置く。
 珍しく、機嫌の良い調子でしゃべる露伴に、花京院はちょっと目を見開いて、もうぬるくなっている紅茶を、落ち着くために一口、音を立てずに飲んだ。
 「君も方も、わざわざ駅で通勤客の写真を撮っているそうじゃないか。」
 ああ、と、花京院がそのことを知っているということに、軽く驚いた様子で、露伴がうなずく。
 「まだそれらしい人物の目星がついたわけじゃあないが、近いうちに何か手がかりが見つからないか、撮った写真を全部詳しく見直すつもりだ。」
 「全部・・・ものすごい数なんじゃないのか。」
 花京院が素直に感嘆の声を出すと、露伴は特に表情も変えずに、
 「さあどうかな、別に通勤客を全部撮ってるわけじゃない、年齢と体格が一致しそうな辺りだけを撮ってるからな、今のところ四、五百っていうところか。」
 「他人の顔ばかり写真で眺めてると、気がおかしくなりそうだな。」
 冗談めかしたつもりでうっすら笑ってそう言うと、露伴は心外だというふうにむっと唇を結んで、その時ちょうど、注文を取りにテーブルへやって来たウェイターに、素早くアイスコーヒーと言ってから、また花京院の方へ向き直った。
 「とんでもない、気がおかしくなるどころか、ひとつひとつ違う人間の顔を観察できるんだぞ、最高じゃないか。」
 同意するには微妙な露伴の口調だったので、花京院はまたぬるくなった紅茶を飲んで、返事をごまかす。
 露伴は花京院の反応などどうでもいいと言いたげに、ひとり滔々と続けた。
 「僕は人を見る時に、いつも骨格を想像するんだ。皮を剥いで、筋肉も脂肪も全部取ってしまう。いちばん奥にある骨を想像するのは、案外と難しい。骨というのは特徴なく見えて、どれも同じだと思えるが、それは違う、長さや形、様々に違って、非常に個性的だ。いずれ骨格標本が欲しいと思ってるんだが、あれは個人的な使用ではなかなか手に入れられない。骨の持ち主の生前の姿の情報も欲しいと思ったらなおさらだ。まさか死体をどこからか見つけてくるわけにもいかないし、第一ぼくは死体を処理して骨格だけにする方法を知らないんだ。おそらく資格がいるんだろうが、そんな資格を取っているヒマがあったら、さっさと諦めてマンガを描いてる方がいい。でも、そういう資格を取るというのも、また面白いネタになりそうだな。」
 紅茶のカップを皿に戻せずに、花京院は呆然と露伴がひとりまくし立てるのを聞いていた。
 絵を描くのに骨格を見たいというのは、花京院にもわからないでもない感覚だけれど、そこからいきなり、骨格標本が欲しいから死体がどうこうと、たとえ思っているだけにせよ、さらりと口にできる露伴を、確かに奇妙な男だと、花京院は初めて実感する。
 絵を描くということで、いずれ身を立てて行こうと、冗談でも思ったことはないけれど、絶対にそちらの道へ進むことはやめようと、こっそり決心したことを、なるべく表情には出さずに、ようやく紅茶のカップを皿に戻した。
 「そうだ、骨と言えば---」
 テーブルに置かれたアイスコーヒーには見向きもせずに、露伴は、椅子に乗せていた大判のスケッチブックのいちばん後ろを開きながら、ついでにペンも取り出して、急に真剣な顔つきで、花京院に、予想もしていなかった質問をする。
 「空条承太郎の身長と体重を教えてくれないか。もし知っているなら、ついでに首回りと肩幅とウエストのサイズも知りたい。」
 口に含みかけた紅茶を、慌ててそこで止めて、花京院は今度こそ本気で呆然と露伴を見返す。
 露伴はもうスケッチブックを開いて、花京院が答えるのを待っている。
 「知らないのか?」
 花京院が黙っているのを、戸惑っているせいだとは思わないらしい露伴は、少しばかり咎めるような口調で言った。
 「・・・いや、身長くらいなら・・・確か190は越えてたはずだが・・・昔ジョースターさんと身長は同じだと言っていたから・・・。」
 「ジョースターさんも同じ身長だったのかッ! 今は仗助とそう変わらないように見えるが、そうするときっと、体重も今の仗助より大分重かったに違いないッ!」
 日本の既製服は、サイズがないと言っていたのを覚えている。あの白いコートだって、花京院が羽織れば、ほとんど裾を引きずりそうになるに違いないのだ。
 興奮気味に、白紙の上に何やら書き取っている露伴を見つめて、そう言えば今の承太郎は、あの頃よりも少し重い気がするけれど、それは抱き合い方が違うせいだろうかと、ふとそんなことを考えた。思ってから、頬に血の上がるのを止めるのに、少しばかり苦労する羽目になった自分を、胸の内で罵った。
 「なんだ、君も空条承太郎のサイズを知らないのか。残念だな。彼はいつも厚着をしているから、全然筋肉の形が見えない。日本人どころか、白人種にも珍しい完璧な頭身だ。機会があるならぜひ骨の形を見てみたい。筋肉のつき方でもせめてわかれば、体重も大体推測できるんだが。」
 ほんとうに心底残念そうに、舌打ちしそうな口の形で露伴がまたまくし立てる。けれどもっと恐ろしいことが、まだ先にあった。
 「君は彼の裸を見たことがあるのか? どんな筋肉のつき方をしている? 腿や膝頭の線を知りたいんだが、やはり手足は大きいのか?」
 何だか、よく小説やマンガで見かける、女の子が好きな人のことを、その人の友人に根掘り葉掘り訊いている場面のようだ。
 露伴の質問に他意はないのだろう。多分。けれど、花京院にはひどく際どい質問だった。もう答えるどころではなく、呼吸困難に陥りそうなのを、隠すのに精一杯だ。
 そんなに承太郎のことを知りたいなら、スタンドを使えばいいじゃないかと、そう、少々苦々しく思ったのが、うっかり顔に出た。露伴がスタンドを使えば、自分たちのことも全部ばれるということには思い当たらない程度に、花京院も落ち着きを失っていた。
 露伴が質問を止めて、にらむように花京院を見つめる。
 「・・・ぼくは、ネタになりそうにないことには、わざわざスタンドを使ったりはしない。空条承太郎へのぼくの関心は、純粋に、彼の外見の造形に対するものだけだ。君も絵を描くならわかるだろう、美しいと思うものを目にした時の、あの気分、すべてを完璧に描き取って、永遠にそこにとどめておきたいと思う、あの気分だ。」
 後半は、露伴には珍しく、視線を花京院の背後に移動させて、どこかうっとりとした口調で言う。その気持ちは確かにわからないでもないと、ようやく露伴の方へ数センチ近づいた気分になって、花京院は肩の力を少し抜いた。
 「彼の全身を、ぜひ一度見てみたい。機会があれば、ヌードモデルを頼みたいくらいだ。」
 またそこで頬の辺りを硬張らせて、露伴に近づきかけた自分の気持ちを、やはりそこで引き止める。
 裸の承太郎ばかりを描いてあるあのスケッチブックは、絶対に誰にも見られないようにしようと、心の中で素早く隠し場所を思い巡らせて、ついでに狼狽している自分を落ち着かせるために、承太郎の裸の背中を、ほんの数秒思い浮かべた。
 露伴---と他のたくさんの人間たち---に対する優越感が、その瞬間、まったくなかったと言えばうそになる。自分は案外と俗物なのだなと思って、それでも、承太郎を独占しているのだという事実のためになら、あまり誉められたものでもない自分の性分には、あっさりと目をつぶることができた。
 そう言えば、露伴に一方的に話しかけられるばかりで、ずいぶん前にあの幽霊の小道で手を貸してくれた礼を、そう言えばまだきちんとは言っていなかったなと、話を変える目的半分で、花京院はゆったりとした笑みを作って口を開こうとした。
 「ぼくは君の体にも興味がある。」
 開きかけた口元はその形のまま、頬の線が瞬時に凍った。
 「身長は平均より少し高いくらいだが、肩や胸の厚みからすると、案外と体重はありそうだな。その割りに腹の辺りが薄くて、手足が長い。掌に比べて指が長いし、爪の形もいい。全身もだが、体のパーツをじっくり観察して描きたい。君は、セルフポートレートは描いたことがないのか。」
 取ってつけたような質問の部分にすら、花京院はうまく反応できなかった。
 一体いつの間に、そんなところを見ていたのかと、思わず自分の手を見下ろして、花京院は頬を赤くした。
 声が出せずに、露伴に向かって首を振るだけで精一杯だった。
 今では、テーブルの上の紅茶もアイスコーヒーも、すっかり存在を忘れられて、露伴だけが妙に熱っぽく輝く瞳で、花京院をじっと見つめている。
 承太郎を描く時に、自分はこんな目をしているのだろうかと、花京院はそっと唇の端を下げる。花京院を描きたいという露伴は、花京院の腹と背中の傷跡を見て、やはり眉を寄せるのだろうか。少しばかり自虐的にそんなことを思ってから、ようやく気分が少し落ち着いて、やや余裕を取り戻した花京院は、露伴に向けて、いちばん大人びて見える角度に顔の向きを変えて、そこでにっこりと微笑んだ。頬がまだ硬張っていたけれど、それでもできる限り、この状況から自分を救い上げるために、横に広い薄い唇を、力一杯笑みの形に曲げる。
 さすがの露伴も、花京院の浮かべた表情に、一瞬気圧されて黙り込み、ようやく口を閉じて、ついでに広げていたスケッチブックも閉じた。
 もう氷も溶けてしまい、結露で水滴だらけになったアイスコーヒーの背の高いグラスに手を添えて、ストローで音もなくぬるいコーヒーを飲む。そうしながら、またちらりを花京院を見る。
 露伴がまた何かしゃべり出す前に、こちらが会話の主導権を握った方が良さそうだと、花京院は素早く考えをめぐらせた。
 「君が吉良追跡に熱心なのは、何か理由があるのか。マンガのネタ探しにしては、ずいぶんとあの幽霊の少女に対して親身だったようだが。」
 正確には、鈴美が露伴に対して、はっきりと親密な態度を表していたのだけれど、少しばかりの意趣返しのつもりで、わざと露伴の神経に障るような言い方をする。案の定露伴は、突然水をかけられたように、さっと表情を消すと、少し厳しい目つきで花京院をねめつけた。
 「彼女とは、ぼくの憶えていないところで、ちょっとした因縁があっただけだ。」
 「因縁?」
 露伴には似合わない言葉に、花京院はちょっと興味をそそられて、思わず聞き返す。
 鋭さばかりの露伴の口元や頬の辺りが、わずかにゆるんで、花京院を見ていながら、どこか別のところを見ているような遠い目つきをする。それは、懐かしさだとかせつなさだとか、そんなふうに形容される類いの視線だった。
 口を開けば鋭い毒舌ばかりの露伴にも、こんな表情を浮かべる瞬間があるのかと、親しみを感じるところまでは行かずに、けれど腕の辺りの力を抜いて、花京院は露伴が話し出すのを待った。
 「彼女が殺された夜、ぼくも彼女の家にいたんだ。」
 話し出すまでに、ゆっくり20数えられた。そこから先は案外とすんなりと、露伴の唇がなめらかに動く。驚きに目を見開いて、その動きを追いながら、花京院は聞こえないように、そっと大きく息を吐き出した。
 「彼女の家の近所に住んでいたということを、ぼくは憶えていなかった。彼女の話の裏づけを取っている時に、ぼくはそのことを知った。彼女はぼくを逃がしてくれたんだ。両親が、当時4つだったぼくを杉本家に預けて、その夜、あの殺人鬼は杉本家を襲い、ぼくだけが助かった。彼女が、犯人に見つかる前に、ぼくを窓から逃がしてくれたんだ。彼女は、ぼくをかばって死んだんだ。」
 汗のひと筋もかかずに、露伴はひどく衝撃的な告白を、その内容にはそぐわない平たい声で、まるで目の前のテーブルに書いてある文字を読み上げているとでもいう調子に、けれど言葉の最後はやや重々しく、終わった後では、自分の言ったことを信じたくはないという表情を浮かべて、睫毛の長い目を伏せた。
 気がつけば、テーブルの上に乗せた右手が、拳をつくって震えている。それを見て花京院は、あからさまではない同情を、もっと慎重に隠して、露伴に向かって目を細めた。
 人にはそれぞれ、事情というものがあるのだと、まるで自分のことのように思う。
 花京院の視線の色合いに気がついたのか、露伴が急にまた気を取り直したように、あの鋭い視線を取り戻して、花京院をにらんでくる。
 「ぼくのために誰かが死んでしまった、そんな負い目を負ったまま生きるのはぼくの性分じゃない。借りは絶対に返す。だからぼくは、そのために早く吉良を見つけたいんだ。」
 自分のために誰かが死ぬ、負い目、借り、露伴の動く唇から滑り落ちる言葉が、どれも、奇妙な尖りを持って、花京院の胸を刺した。
 似ているような気もしたし、まったく似ていないとも思えた。花京院は承太郎をかばったわけではなかったし、承太郎は花京院の死---仮死ではあったけれど---を、借りだと考えているとは思えなかった。それでも、露伴と鈴美の因縁が、自分たちに重なるような気がして、いつの間にか考え込むように、さっき露伴がそうしていたように、花京院もテーブルの上で、右手を握りしめている。
 初めて、露伴が、視界の中でやけに近くに見えていた。


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