雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

10) 例えばそんな結末F


 「吉良が見つかったかもしれない?」
 誰もが待ちわびていたニュースは、岸部露伴によってもたらされた。
 「例の駅の通勤客の中に、それらしい男を見つけたらしい。」
 仗助経由でそのニュースを持ち帰った承太郎は、それと一緒に、露伴からだという写真を花京院に見せた。
 慌しい朝の駅の構内だ。どれも似たような背広に身を包んだサラリーマンたちが、どこか疲れた顔で、改札を通り抜けようとしている、どの街でも同じような風景が毎朝繰り広げられているだろう、いかにも忙しげな駅の様子だ。
 承太郎は、花京院の手の中の写真を、静かに指差した。
 「この子が持っているのは、明らかにビデオカメラだ。」
 大きな柱の陰に、ビデオカメラを構えている少年がいる。半ズボンにランドセルという姿は、どう見ても小学生だ。通勤客のあふれる駅には、少しばかりそぐわない年の頃だ。
 「ランドセルの名札によると、この子の名前は川尻早人、そして偶然かどうか、ここには、その子の父親らしい川尻浩作が写っている。」
 写真の上で指先をずらして、承太郎は人込みの中の男のひとりを指差した。
 「・・・小学生が、自分の父親を盗み撮りしてるってことかい?」
 ビデオカメラは、確かに、川尻浩作という、少年の父親の方に向けられている。少年の表情に、父親をおどかしてやろうだとか、そんないたずらっぽい笑みなどどこにもなく、この年頃にはまったく似合わない、猜疑心に満ちた色ばかりが見える。
 花京院は写真を眺めて、眉をひそめた。
 「父親に化けた誰か、かもしれんな。」
 「・・・岸部露伴の地道な努力が報われるかもしれないってことか。」
 あごに指先で触れながら、花京院は、あの時対峙した吉良と、この川尻という写真の男と、どこか似たところはないだろうかと、確かな証拠を探すように目を凝らす。
 吉良の、底なしのうろを抱えたような、あのぞっとするような冷たい瞳は、写真ではよくわからないような気がして、じかにこの男に会えば、きっと一目で吉良かどうか見抜けるに違いないと、花京院は思う。
 今度こそ、これが間違いなく吉良なら、絶対に逃がしはしない。承太郎に写真を返して、引き締めていた口元を少しゆるめるために、かすかな笑みを浮かべて、けれど花京院は、隠しきれない決意に燃える瞳を、承太郎に向けていた。
 「明日の朝、岸部露伴がこの子に会いに行くそうだ。おれと仗助たちも一緒に行く。」
 「仗助くんたちも?」
 まだ、川尻浩作に化けているらしい吉良に直接対面するというわけでもないのに、ずいぶんと多人数だ。そんなに大勢で行って、この少年を怯えさせたりはしないだろうかと、ふと不安が、花京院の口元の辺りに浮かんだらしい。承太郎が、説明を始める前に、花京院の心配に同意をするけれど、事情があるんだとでもいうように、ちょっと肩をすくめる。
 「岸部露伴ひとりでは、暴走される恐れがある、それを止められるのは康一くんだけだ。康一くんが行くとなれば、仗助や億泰もくっついてくる。仗助たちは、そもそもこの子と同じぶどうヶ丘校に通っているという共通点があるからな、こうなると、おれがその場に立ち会わないわけには行かない。」
 「・・・お目付け役ってわけか。」
 露伴だけでは、少年を警戒させるだけかもしれない。あの不愉快にも思える強引さで、事の次第を聞き出そうとしても、康一がいるなら、ちゃんと止めてくれるだろう。康一だけで心許ないなら、少なくとも外見だけは頼りになりそうに見える---失言だ---仗助や億泰がいる。けれど、あまり仲が良いとは言えない仗助と露伴が万が一仲違いでも始めては、康一だけでは気の毒だ。なるほど、少々数は多くなって大袈裟だけれど、確かに承太郎がその場にいた方がいい。
 花京院は、力の抜けた苦笑をこぼした。
 「世界最強のスタンド使いも大変だな。」
 仗助たちが、深く敬愛を込めて承太郎をそう呼ぶ呼び方で、花京院は、わずかな本気も込めて、そう言ってみる。
 「・・・からかうな。」
 声は低かったけれど、心外だと思っているのは確かに伝わる口調で、承太郎が憮然とする。
 「スタンドに、強いも弱いもねえ。」
 仗助たちを、わざわざたしなめる気はない承太郎だったけれど、エジプトへの旅で、力はないスタンドに散々苦しめられた経験から、仗助たちの無邪気な賞賛が少々的外れであることは、承太郎自身がいちばんよく知っている。
 スタンドの能力がどれほど高かろうと、結局は、本体がいかにそれをうまく扱えるか、事はそれにかかっている。そして、本体の、何かを為したいと心の底から願う、強い気持ちが、すなわちスタンド能力の高さだ。
 吉良を、確実に追いつめていると、承太郎は心のどこかで確信していた。
 あの旅を通して、スタンドを扱うということに長けた承太郎と花京院と、何が何でも生き延びてやると、凄まじい意志を発現させている吉良と、そして、この街を守ろうと、必死になっている仗助たちと、この闘いに勝つのは誰だろうかと、承太郎はふと思う。
 自分たちでなければならない、それは確かだ。けれど、勝利は、犠牲なしには掴み取ることのできないものなのだろうかと、目の前の花京院を見て、ひとり静かに考えていた。
 これ以上もう、失うものがあるとも思えない。失い続けて、ようやくここまでたどり着いた。そして今、花京院がここにいる。生きて、ここにいる。
 それだけが、長い間の自分の希(のぞ)みだったのだと思いながら、承太郎はそっと花京院に腕を伸ばした。
 「・・・明日は、早いんじゃないのか?」
 承太郎に引き寄せられるのに、わずかにためらいを見せて、花京院がつぶやく。
 「待ち合わせは8時半だ。」
 「だったら、少し早く起きないと間に合わないじゃないか。」
 「朝メシはひとりで先に食って行く。心配はねえ。」
 「・・・そんなことなんか心配してない。」
 黙れと言う代わりに、花京院の唇をふさいだ。
 何もせずに眠る気はなかったし、明日のために、少し手加減しておこうという気もなかった。
 いつもの同じ朝を迎えるために、明日が、また同じような1日であるために、何もかもが同じ夜を繰り返すために、承太郎は、自分に添ってくる花京院の体を、いつもよりも強く抱きしめていた。


 目覚ましも仕掛けないくせに、承太郎はきっちりいつもより30分早く起きて、きちんとシャワーを浴びて出て行った。
 行ってくると、まだ完全には目を覚ましていない花京院に、どうした風の吹き回しか、日本人らしくもない仕草で額に口づけを残して、いつもよりもひそやかな足音で、部屋を出て行った。
 承太郎のいない承太郎の部屋から、朝ひとりで出るのはどんなものかと思いながら、まだぬくもりの残るベッドで手足を伸ばすのが気持ちよくて、承太郎をきちんと見送らなかった自分を、夢うつつの退屈しのぎに叱ってみる。
 眠り足りないように思うのは、少しばかり体がだるいせいだ。体がだるいのは、主には承太郎のせいだ。あの化け物のような体力だけは、10年経っても変わらないらしい。これからさらに10年も経てば、承太郎に少しは追いつけるだろうかと、ひとり笑おうとして、花京院はそこで唇の動きを止めた。
 承太郎の枕へ頭を乗せるために、ごろりと寝返りを打つ。手足を縮めて、まるで承太郎に抱かれているように、少しだけ喉を伸ばして、またゆっくりと目を閉じた。
 今日は、承太郎とバスルームの順番を争わなくてもいい。だから、いつもよりも20分ほど長くベッドにいた。
 ようやく、いつもは承太郎が起きる側から体を起こして、ベッドの端に腰掛ける形に足を床に下ろす。子どもっぽい仕草で、勢いをつけて立ち上がった。部屋はもうすっかり明るい。大きな窓へ歩み寄ると、カーテンの陰に、全裸の体を隠して、そこから街を見下ろす。
 明るいけれど、少し灰色がかった空は、雨が降るかもしれないと思わせた。傘を持ち歩くどころか、差すことすらしない承太郎は、途中で雨に降られて、びしょ濡れで帰って来るかもしれない。
 空に向かって目を細めて、数分眼下の街を、どこか淋しげな目で眺めた後で、花京院はようやくシャワーを浴びるために、そこから離れた。
 いつもよりも5分ほど遅れて、ジョセフと赤ん坊と一緒に、ホテルのレストランで朝食を取る。
 少し遅れたせいか、いつも坐る席がふさがっていて、キッチンに近い、少し慌しい辺りに、今日は3人で腰を落ち着けた。
 赤ん坊は、妙に機嫌悪く---やたらと、人が行き来するせいだろう---、ジョセフに手を焼かせ、先にさっさと自分の皿を空にした花京院が赤ん坊を受け取り、ハイエロファントを呼び出すと、ふたり---というべきなのか---がかりで抱いて、ジョセフの静かな朝食を煩わせないように、辛抱強くあやした。
 花京院の指の代わりに、ハイエロファントの、触手にほどけた先を噛む。歯茎の奥から、少しずつ歯らしきものの伸びかけている赤ん坊の口の中は、1日1日、確かな硬さをあらわにして、今では強く噛まれれば、思わず声を立てるほど痛い。
 赤ん坊に笑いかけて、以前に比べればずいぶんとしっかりした顔立ち---あまりよくは見えないけれど---の輪郭を視線でなぞって、花京院は、また、今はこの場にいない承太郎のことを考えていた。
 あの少年には、無事に会えただろうか。あの川尻という男が吉良だという確証を、あの少年の言葉から見つけただろうか。あの少年は、自分の父親についてあれこれ訊く、年上の男たちに怯えたりせずに、承太郎たちの知りたいことを、すべてしゃべってくれただろうか。
 今度こそ、吉良を追いつめ、そして、裁きを下すことができるだろうか。間違いなく、もう吉良が、誰にも危害を加えたりはしないと、どんな形でもいい、何か目に見える形で、この事件を終結させることができるだろうか。
 幽霊の小道で、鈴美がその時を待っている。
 仗助たちも、ジョセフも、承太郎も、そして花京院も、その時を待っている。
 そう思ってから、ふと、赤ん坊の頬を撫でる指を止めた。
 ゆっくりと目玉焼きの黄身を、ちぎったパンでぬぐっているジョセフの、少し震えている手を眺めて、花京院はその手に向かって微笑みかけた。
 きっと大丈夫だ。もうすぐ、何もかもに決着がつく。ほんとうに、何もかもに決着がつくのだ。
 自分にそう言い聞かせながら、食事を終えて、席を立つジョセフを助けて、花京院はレストランを後にした。
 承太郎のために新聞を買った売店で、何気なく壁に掛かった時計を見上げて、時間を確かめる。そろそろ9時だ。
 レストランにいる間は気づかなかったけれど、雨が降ったらしい。ロビーから外を見ると、道路が濡れていて、起きた時に見た空よりも、明るくなっていた。
 ジョセフの部屋に戻って、赤ん坊のミルクを作るついでに、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
 毎朝、6時前には目が覚めてしまうというジョセフは、もうソファでうつらうつらと眠そうに、けれどコーヒーの匂いに、時折うれしそうに鼻を鳴らしている。
 赤ん坊は、部屋に戻って静かになったせいか、すっかり機嫌を治して、いつもより勢いよくミルクを飲んだ。
 空気が雨に洗われたせいか、外がやけに明るい。拭ったように、きらきらと鮮やかに光って見える外の風景に目を凝らして、花京院が赤ん坊に笑いかけようとした時に、電話が鳴った。
 ソファの上で、その音に驚いて背を伸ばしたジョセフに赤ん坊を預け、もう少しミルクの残っている哺乳瓶も一緒に手渡すと、花京院は慌てて電話へ向かって走る。
 承太郎だと、予感がした。
 はい、と出ると、何の前置きもなく、花京院かと、思った通り承太郎の声がする。
 それから数瞬、沈黙があった。
 「・・・承太郎?」
 訊かなくても、何かが起こったのだとわかる、承太郎の雄弁な沈黙だった。
 「吉良が死んだ。」
 川尻浩作は、間違いなく吉良吉影だった、あるいは、あの少年が、今は川尻である吉良を追いつめるのを、手伝ってくれると約束してくれた、あるいは、川尻は吉良のようだが、あの少年は怯えて何も話してくれなかった、そんな報告を期待していたから、いきなり承太郎が言ったことが理解できずに、花京院は一瞬混乱して、耳から離した受話器を、ほんものかどうか確かめるために、じっと見つめる。
 「何だって?」
 「吉良が死んだ。救急車に轢かれた。スタープラチナが殴り飛ばした先で、バックして来た救急車に轢かれて死んだ。」
 「救急車? 誰かケガをして呼んだのか? 君は大丈夫なのか?」
 矢継ぎ早に訊く花京院に、すぐには答えずに、まるで承太郎自身も息を整えるように、受話器の向こう側で、大きく息を吐き出した気配がある。
 「仗助のヤツが多少やられたが、大したことはねえ。みんな無事だ。詳しいことは後で話す。とにかく、終わった。吉良は死んだ。じじいにも、そう伝えてくれ。」
 わかったと言ってから、花京院も、突然のことに驚いて、ひどく乱れている呼吸を落ち着かせると、自分の胸の辺りを掌でゆっくりと何度も撫でた。
 「幽霊の彼女に、報告に行くんだろう?」
 「・・・皆で行った方がいいだろうな。」
 言葉を選ぶような間を置いて、承太郎が、誰かに言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
 承太郎の言ったことを、自分の中に染み込ませて、花京院もゆっくりとうなずいた。
 「後でもう一度電話する。今日はそこから動くな。」
 「わかった、待ってるよ。」
 承太郎に先に電話を切らせてから、花京院は受話器をそっと置く。
 ソファの背中越しに、こちらを向いているジョセフに振り返って、花京院は、どんな表情をすべきか迷った。
 笑顔ではなく、安堵でもなく、かと言って、淋しさを現すのはとても不謹慎だと思ったから、何もかもをない交ぜにした感情をすべて押し隠して、近頃使ったことのなかった無表情を刷いてから、花京院はジョセフの方へ近づいてゆく。
 「吉良が、死んだそうです。」
 事態が急展開したことは、花京院の背中の表情に悟っていたらしいジョセフも、そこまでは想像できなかったのか、驚きに息を飲んで、赤ん坊を抱いたまま、自分の方へ近づいてくる花京院から視線を外さない。
 「・・・誰が、吉良を・・・?」
 懸念を露わに、ジョセフが少し震える声で訊く。花京院は、それに向かって首を振った。
 「直接誰に、というわけではなく、救急車に轢かれて死んだそうです。詳しいことはまだ僕にもわかりません。」
 「・・・救急車・・・。」
 口移しにつぶやいて、ジョセフの視線がふと遠くなる。怪我人や病人を素早く運ぶ、人命救助のための車が、殺人鬼吉良を轢き殺したらしいという皮肉に、けれど、確かに人の命を救ったのだとも言える結果に、ジョセフも複雑な表情を浮かべた。
 「それで、よかったんじゃろうな・・・。」
 この街の誰かが、吉良に直接手を下すことにはならなかった。ジョセフも花京院も、そしておそらく承太郎も、そのことに安堵している。吉良が殺してきた人たちのためにも、それだけの罰を与えられるべきだと誰もが思っていて、けれど、その罰というのが、具体的にどういうものなのか、誰もがそこへ触れるのを、こっそりと避けていた。
 吉良を追いつめたら、それをするのは、承太郎か自分のどちらかだろうと、花京院は口にはせずに考えていた。その方がいい。殺人鬼を葬るために、この街の人たちがその手を汚すべきではない。たとえ吉良が、死以上の報いに値する人間だとしても、彼を殺せば、それも殺人だ。
 平和で平凡な街に起き続けた殺人事件に決着をつけるのが、吉良の死でしかありえないとしても、それを為すのは、この街に住む誰か個人であるわけにはいかなかった。
 吉良は死んだ。人命を救うための救急車に轢かれて、死んだ。この街そのものが、吉良を裁いたのだ。
 これで終わった。何もかもが終わった。そうして、これから始まるのだ。
 花京院は、気が抜けたように目の前の床を見下ろしているジョセフを見つめながら、淋しげに微笑んだ。
 それから、その笑みを、もっと力強いものに変えてから、音もさせずに深呼吸をした後で、腹の底から声を出した。
 「ジョースターさん、僕が仗助くんたちの学校に編入できるように、手続きをSPWに頼んでいただけますか。」
 耳が遠くなったせいの聞き違いかと、ジョセフが花京院の方を向いて、まだ聞こえの良い左耳の後ろの掌を添える。
 「なんじゃと?」
 花京院は、自分の決心を揺るぎないものにするために、またにっこりと微笑んだ。
 「僕は、この街に残ります。仗助くんたちと一緒に学校に通って、高校を卒業します。どこの大学で何を勉強するかは、もう少し後で決めたいと思っています。」
 すべてを、一気に言った。真っ直ぐに背を伸ばして、微笑んだまま、とても明るい決意だと、自分と、それからこの世界のすべての人たちにきちんと伝わるように、けれど知らずに、制服の胸の辺りを、ぎゅっと右手で握りしめていた。
 「・・・承太郎は、知っとるのか。」
 思い遣りばかり目立つジョセフの声で承太郎の名前を聞くと、胸が震えるのを止められない。思わず頬の線を少し固くして、花京院は首を振った。
 「承太郎には、まだ何も言っていません。」
 そうか、とジョセフが、責めるようではなく、むしろ慰めるような視線を花京院に当てて、それから、白いひげにふさふさと覆われた口元を、薄くゆるめる。
 「・・・がっかりするじゃろうな、おまえと一緒にアメリカに戻って、家を買う話をしとったからのう。」
 ジョセフの言葉を、ひとつひとつきちんと受け止めるために、考え込むように顔を傾けて、ようやく花京院の口元から明るい笑みが消える。淋しさが、そこにあらわになって、けれど、意志の強さを表すように、唇は引き締められたままだ。
 ジョセフは、空になった哺乳瓶を片手に、腕の中の赤ん坊を見下ろした。
 「この子を、おまえと一緒に引き取って育てたいとまで言っておったが・・・承太郎じゃあ、無理じゃったか、花京院。」
 一言一言区切るようにしゃべるジョセフの、かすれた声のせいだけではなく、最後の辺りに込められていた意味をきちんと聞き取って、花京院は、ジョセフが自分たちのことを知っていたということに驚いていた。
 「・・・ご存知だったんですか・・・。」
 「血の繋がった孫のことじゃ、そのくらいわからんでどうする。ワシにとっては花京院、おまえも孫同然じゃ。」
 恥ずかしさと照れで、少し頬を赤らめて、花京院は、おかしげにそう言うジョセフから、するりと視線を外した。
 「僕が承太郎に追いつくために、時間が必要なんです。僕も承太郎も、まだ傷ついたままでいる、傷が癒えるというのは、血が止まって治るというだけのことではないのだと、この街に来て気がつきました。」
 だから、とそこで言葉を切って、ひどく抽象的な物言いを、ジョセフがきちんと理解してくれるだろうかと窺いながら、花京院は言葉を続けた。
 「僕は、この街に残ります。」
 制服を握っていた手を放し、姿勢を正して、自分の決意を宣言するように、もう一度固い声で言う。胸を張りながら、それでも、言ってしまった言葉は返せないのだと、一抹の淋しさがあった。
 そうかと、ジョセフが小さな声でうなずいて、両腕の中に赤ん坊を抱き直す。赤ん坊は、近づいたジョセフのひげを、無邪気に指先で探った。
 「ワシは、あの時、エジプトで、おまえを死なせたことを、ずっと後悔しとった。」
 花京院の方を見ないまま、珍しくつかえながら、どこか吐き出すような様子で、ジョセフがぼそぼそと話し始める。
 「・・・あの時、ワシがポルナレフを止めておれば、おまえは死なずにすんだかもしれん。承太郎たちと分かれたりしなければ、おまえが死ぬことにはならなかったかもしれん。おまえが承太郎と一緒にさえいたなら、DIOにやられることはなかったかもしれん。承太郎と歳の変わらんおまえが逝って、ワシみたいな年寄りが生き延びて・・・だから、承太郎がおまえが死んでないと言い張った時に、承太郎の言うことを信じたからではなくて、ワシは、誰のためでもなく、ワシ自身の罪悪感を消したくて、SPWに必死に頼んだ。おまえは死んでいないし、ハイエロファントも生きておるし、いつか絶対に目覚めるはずじゃからと、必死でそう言った。そう言いながらワシは、おまえをエジプトに連れて行ったことを、死ぬほど後悔しておった。」
 小さな老眼鏡の奥で、今は力のない瞳が、少し潤んで見える。
 それを慰めるために、花京院は、ジョセフの隣りにそっと腰を下ろした。
 近くで見れば、丸まった背も肩も、ずいぶんと薄くなっている。今なら、自分の腕にすらすっぽりと収まってしまうように見える、ジョセフの老いた姿に、花京院はわずかの間唇を噛んだ。
 ジョセフに対する敬愛は、一向に色褪せることもない。ジョセフがすっかり歳を取って、あの頃とは違って頼りなく見えるとしても、ジョセフは永遠に承太郎の祖父であり、そして、花京院にとっては、父親のような、大事な存在であることに変わりはない。
 たった今ジョセフが剥き出しにした、普段はちらりと見ることすらないジョセフ自身の弱さも含めて、花京院は、ジョセフをこれほど身近に感じたことはなく、何もかもすべてが大事な人なのだと、胸の中でつぶやいている。
 ジョセフの肩に、花京院はそっと掌を置いた。
 「ジョースターさん、僕は、あのエジプトへの旅で生き返ることができたんです。あれ以前の僕は、生きてはいても、死んでいるも同然の人間でした。スタンドのせいで、何もかもに絶望して、ハイエロファントが僕自身を殺せるほどの力はないことに、本気で腹を立てるくらいに、望みのない人間だったんです。僕は、あの旅で生き返ったからこそ、あの時ちゃんと死ねたんです。死んで、承太郎やあなたのおかげでまた生き返りました。今度は、僕は、ちゃんと生きたいんです、僕自身のために、他の誰のためだとか、何かのためだとか、そんな言い訳はせずに、僕は、僕自身のために、きちんと生きたいんです。スタンド使いの花京院としてだけではなく、ただの、まだ高校生の、花京院典明として、どんなふうに生きられるのか、きちんと見極めてみたいんです。」
 珍しく能弁に、花京院は、ずっと考えていたことを、一気に吐き出していた。
 軽くなった胸の中に、ゆっくりと息を吸い込みながら、自分の中に降り積もっていた澱に、ついに別れを告げて、感じているのは、晴れ晴れしさよりもやはり淋しさだ。
 けれど、これは自分で決めたことだ。自分のために、考えて考えて、考え抜いて、決めたことだ。
 どれほどの淋しさを今感じても、後悔することはないはずだと、信じられた。
 ジョセフが、潤んだ目を隠すように短くまばたきをしながら、隣りに坐った花京院を見上げる角度に顔を振り向ける。
 「ワシらがこの街から去る前に、この子に名前をつけるのを忘れんでくれよ。」
 からかうように言って、一生懸命笑いにまぎらわせようとするジョセフにつられて、花京院も薄く笑った。
 「大丈夫です、そんな大事なこと、忘れたりはしません。」
 ふたり一緒に、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
 近づいた距離のまま、ジョセフが、まるで花京院に言い聞かせるように、そこでひとり言のように言った。
 「・・・ジョースターの男は、一途じゃからな・・・。」
 そこからまだ先があるというような、中途半端な切り方で、ジョセフはとても淋しそうに、それきり口をつぐんだ。
 泣いているようなジョセフの横顔に目を凝らして、花京院は、とても細く、息を吐いた。
 「・・・ええ、知っています。」
 微笑む口元には、やるせなさばかりが浮かぶ。あてどなく、花京院は、ジョセフの頭越しに、すっかり空気の澄んだ窓の外の景色に目をやって、空の青さに向かって目を細めた。


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