雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

10) 例えばそんな結末H


 夕方遅く、承太郎は相変わらずの仏頂面でホテルへ戻って来て、そのまま花京院を、車で街の方へ連れ出した。
 ジョセフは、仗助と一緒に、あれからどこかへ出掛けてしまったのか、もう夕食の時間だというのに姿が見当たらないまま、それを気にする花京院に、承太郎は何も言わない。
 花京院が知らない間に、何かふたりの間で約束ができてしまっているのか、もしかして、どこか人気のないところで、自分がこの街にとどまるというのを思いとどまらせようと、力づくの説得にでもかかる気かと、走る窓の外を眺めて、花京院は考える。 
 珍しく、沈黙が肩に重い。
 どこへ行くのかと思っていたら、繁華街を通り過ぎて、駅も通り過ぎ、まさか仗助たちの高校へ行くのだろうかと、花京院は承太郎を盗み見た。
 これから編入の手続きをしに行くにしては、時間が遅すぎる。まだ外は充分に明るかったけれど、仕事帰りの人込みも、もうゆるやかになり始める頃だ。
 仗助たちの学校へ向かうずっと手前で、承太郎の車は右へ曲がる。静かな住宅地に入り込んだ先に、小さな霊園が見えた。
 その霊園のすぐ傍の、洒落た外観の家の前で車を止め、
 「着いた、降りろ。」
 素っ気なく承太郎があごをしゃくる。
 後ろの座席に置いておいた包みを取り上げて、さっさと車を降りる承太郎を追って、花京院も外へ出る。
 家だと思ったそれは、小さなレストランだった。
 「ここは、もしかして・・・。」
 ドアの上に、なだらかな筆記体で、トラサルディーと記してある。イタリア語はわからないけれど、これがあのトニオの店なのだと悟って、花京院は少し慌てた。
 承太郎は、もう扉を開いて、戸惑って足を止めた花京院に、先に入れと促すように、中に向かってまたあごを振る。
 一体何が起こるのかわからず、かと言って逃げ出すこともできず、花京院は覚悟を決めて、承太郎の傍を通り過ぎて、先に店の中に入った。
 外から見た通り、小さな店だった。テーブルはふたつ、入って右手にはどっしりとした暖炉がある。この暖炉はほんものだろうかと、ふと見入って足を止めた花京院の肩を、頭を打たないように気をつけて入ってきた承太郎が、軽く押す。
 奥のキッチンから、トニオが出て来た。
 「いらっしゃいマセ。」
 訛りのある、けれど流暢な日本語だ。外で見るよりもずっと穏やかな笑顔につられて、花京院も軽く会釈を返す。
 「お待ちしてマシタ。」
 花京院の肩越しに、承太郎へ向かってそう言って、トニオは窓に近いテーブルを指差す。
 椅子に手を掛けた承太郎に、トニオが、白のハウスワインでいいかと訊いた。
 「ああ。おれと、こいつと、両方にだ。」
 もう、椅子の中に収まっている花京院を指差して、これもまた愛想のない声で答える。花京院は慌てて、それを止めようとした。
 「おい承太郎、僕は未成年だぞ。」
 「やかましい、ワインなんざ水と変わらねえ。」
 丸いテーブルに、ふたり肩を並べて落ち着いたのを確かめたトニオが、花京院のアルコール摂取については何の意見も差し挟まずに、そのままにこにことキッチンへ消えた。
 承太郎は、花京院の視線を避けるように、手にしていた包みを左側の空いた椅子に置いて、それから、ぎしりと椅子の背に、大きな体を馴染ませる。
 コートを脱ぎもせず、帽子はもちろんそのままで、まだ不機嫌そうな表情で、腹の辺りで両手を組んだ。
 花京院は、真っ白なテーブルクロスを、所在なさげに掌で撫でながら、店の雰囲気はとても気に入ったものの、承太郎の意図がわからずに、まだ何も言えずにいる。
 この店の評判は、仗助や億泰から散々聞いているけれど、それを楽しむための、和やかなイタリア料理の夕べ、というわけでもなさそうだ。
 トニオは、にこにことテーブルに戻って来て、淡い黄金色のワインを満たした丸いグラスを置くと、またすぐにキッチンへ戻って行った。
 もうここまで来たら、じたばたするのはやめようと、冷たいグラスの脚を、指先でつまんだ。口元に近づけた途端に、とても深い、酸味のある香りが、鼻先を打つ。思わず、目を細めた。
 承太郎は、味と香りを味わっているようにも見えず、大雑把にグラスを傾ける。
 「もったいないなあ。」
 思わず承太郎に向かってそう言って、花京院は、ほんの少量、そのワインを口の中に含んだ。
 酒を飲むような習慣はもちろんなかったけれど、これがとても美味いワインだということはわかる。ふうっと息を吐いてから、もう一口、今度は好きなだけ喉の方へ流し込んだ。
 「・・・気に入ったか。」
 グラスをテーブルに戻して、承太郎が訊く。ああとうなずいて、花京院は初めて笑った。
 「こんなところで制服姿で、誰かに見つかったらどうするつもりだ。」
 胸のボタンの辺りを撫でて、ようやくいつもの調子を取り戻して、手にはまだ中身の残ったワイングラスを持ったまま、行儀悪くテーブルに肘をつく。そこに頬を傾けて、花京院は承太郎に向かって視線を流した。
 こんな量のアルコールで酔うはずもなかったけれど、頬が火照っているような気がした。
 「今夜は貸切にした。誰かに邪魔される心配はねえ。」
 「貸切?」
 「もっと欲しけりゃ好きに飲め。何なら、ボトルごと頼んでやる。」
 花京院のグラスを指差して、承太郎があっさり言うのに慌てて首を振って、花京院は思わずドアを振り返る。
 なるほど、あの小道で鈴美を見送った時に、トニオに何やら耳打ちしていたのは、このことだったのかと、ようやく合点が行って、あの時にすでに花京院の決心を知っていたのだとすれば、これはまさか、前途を祝しているつもりかと、そこまで素早く考えをめぐらした。
 それにしても貸切とは、小さな店とは言え、承太郎の思い切った行動に、花京院は心の中で眉を寄せる。
 「・・・未成年を酔わせて、どうするつもりだ。」
 「そういえば、てめーが酔ったところは見たことがなかったな。」
 「・・・承太郎、あの頃は君も未成年だったじゃないか。」
 ふん、と肩を揺すって、それがどうしたと、帽子の下の目が光る。途端に、17歳の承太郎が顔を覗かせる。
 椅子の背に、すっかり体を預けて、承太郎はじっと花京院を見ている。息苦しくなるような視線は、それもアルコールのせいなのだろうかと思って、花京院は、息を継ぐために、一度するりと視線を外した。
 気がつけば、とても小さな音で、オペラが流れている。女声の、これはアリアというのだろうか、この場の空気をすべて震わせるような高音が、ふたりの頭上を走ってゆく。花京院は、今だけそれに耳を傾けた。
 次にトニオは、承太郎には生ハムと薄切りのマッシュルーム、花京院には、真っ赤に熟れたトマトの薄切りに、同じ厚さのモッツァレラチーズを乗せて、白地に、鮮やかな模様がぐるりと描かれた皿を運んで来る。
 皿と同じほど真っ白なチーズには、あまりくせのある匂いはなく、トマトは、花京院の舌の上で甘く溶けた。
 承太郎は、今度はゆっくりと、生ハムとマッシュルームの絡み具合を味わって、上品に盛られた小さな山を崩さないように、丁寧にフォークを使う。
 生ハムにかけられている爽やかな酢の匂いが、花京院の方まで届いた。
 「うまいな・・・。」
 「ああ・・・。」
 思わずつぶやく花京院に、承太郎も、珍しく心ここにあらずと言った相槌を返して、ふたりはほんのしばらくの間、互いよりも、自分の目の前の皿に魅了される。
 トニオは、笑顔を絶やさず、そろそろ空になり始めているふたりのワインには気づかない振りをして、これもとても澄んだ味の水を、テーブルに置いて行ってくれた。
 億泰が絶賛していた、これがトニオの料理かと、皿をすっかりきれいにして、唇についたオリーブオイルを、真っ白なナプキンで拭ってしまうのも惜しい気がしながら、花京院は、口の中に残ったトマトの甘さを、最後までゆっくりと味わっている。
 料理にスタンドを仕込むスタンド使いだと聞いたけれど、今食べたトマトやチーズには、それらしいものは見えなかった。普通の料理ならそれに越したことはないと、花京院は、今はトニオ---と自分たち---がスタンド使いであることは忘れることにして、あちらできれいに空になっている承太郎の皿を見て、くすりと笑いをこぼす。
 トニオが皿を下げて、水のグラスをまた満たして行ってくれた後で、承太郎は、少しためらうような仕草をしてから、椅子の上に置いてあった包みを取り上げた。
 いつも空手の承太郎が手荷物とは珍しいと思っていた花京院は、その包みを手渡されて、まず呆気に取られた。
 「僕に?」
 膝に置けばかさばるそれは、見た目よりは軽かったけれど、触れればしっかりと硬くて、けれどどこか柔らかな感触は、ケース入りの本を思わせた。
 ただ茶色い、少し厚い紙袋に入ったそれが一体何なのか、まったく見当もつかず、横に長く厚みもある箱らしいその中身を、花京院は必死に想像しようとした。
 「開けてみろ。」
 外を撫でるばかりで、中を見ようとしない花京院に、承太郎が、どこか優しい声で言った。
 戸惑いながら、丁寧に袋の口を剥がし、中に手を差し入れる。思った通り、紙の箱らしい感触だ。花京院は思い切って、袋を取った。
 箱の表面は、2色に分かれていた。下は灰色がかった紫、上の部分はもっと白に近い薄紫だ。150と、大きく黒で書かれ、箱の下の辺りには、色鉛筆の写真が印刷されている。
 まさかと思って、顔を上げて承太郎を見る。
 承太郎は、あの、人の心の内側をすべて見透かすような表情のない目で、促すように、花京院に向かって肩をすくめる。
 膝の上の箱から、花京院はゆっくりとふたを取った。
 ほんとうに、色鉛筆だ。中は、3段か4段に分かれているらしい。正確には今はわからないけれど、1段におそらく40色か50色、鮮やかな赤系と黄色の色鉛筆が、最初の段にずらりと並んでいる。花京院は、鮮やかな色のまぶしさに、思わず目を細めた。
 ふたにあった150という数字は、これが150色という意味なのだろう。
 途端に、膝の上の箱が重みを増したような気がして、花京院はまだふたを戻せずに、呆然と大量の色鉛筆に目を凝らしている。
 「承太郎・・・。」
 「ちと早いがな、てめーの誕生祝いのつもりだ。アメリカに戻って、じじいと一緒にと思ってたが、事情が変わっちまったからな。」
 鉛筆の表面に押されている、金色の文字を指先でなぞって、ふと声が湿るのを止められない。
 「・・・こんなにあったら、どの色を使うか、迷うじゃないか。」
 承太郎が、ふっと笑った。
 「好きなだけ迷え。何でも、てめーの好きに塗れ。」
 うつむいたまま、承太郎から目元を隠して、箱のふたを、元の通りにかぶせながら、
 「ああ、そうさせてもらう。」
 がさがさと鳴る紙袋の音にまぎらせて、ありがとうと小さく言って、花京院はもう一度箱の表面をゆっくりと撫でた。
 自分の傍の椅子の上に、色鉛筆の箱を置き、照れを隠せずに、珍しく歳相応のはにかんだ表情を浮かべると、花京院は、テーブルの下で承太郎のブーツの先を、自分の革靴でこつんと蹴る。
 「誰かにわざわざ誕生日を祝ってもらうなんて、生まれて初めてだ。」
 触れ合った爪先を離そうとはとはせずに、承太郎がうっすらと笑い、そして、腕を伸ばしてきて花京院の手を取った。
 テーブルクロスの陰で、確かに誰にも見られはしないだろう位置だったけれど、そんなふうに手を握り合うことがいっそう照れくさくて、花京院は思わず手を引こうとした。
 「・・・見られるかもしれない。」
 キッチンの方へ目配せすると、承太郎は平然と、もっと強く花京院の手を握った。
 「心配ねえ。」
 あっさりというのに、少し呆れ顔で首を振って、けれど花京院はもう、その手を振り払おうとはしなかった。
 「君は、相変わらず強引だな。」
 ちょっと肩の辺りをそびやかして、わざと誇らしげに、
 「惚れ直したか。」
 承太郎が冗談めかして訊く。それをさらりと流して、花京院は、自分から、承太郎の手を握り返した。
 「君に惚れ直すなんて、今さらじゃないか。」
 トニオが、次の皿を運んで来た時に、一瞬だけ手を引きかけたけれど、あくまで平然としている承太郎を見習うことにして、花京院はうっすらと赤くなった目元を隠すために、窓の外を眺めている振りをした。
 テーブルに皿を置くトニオに、ふたりの手はテーブルの下で繋がれたままだと、きっとわかっただろう。けれどトニオは、あの見事な笑みを一筋も崩さずに、静かな背中を見せて、またキッチンへ去って行った。
 花京院の前にはスープが置かれ、承太郎の前には、冷たいパスタがあった。
 ほうれん草のように見える、濃い緑の葉が、たっぷりと、透き通った金色のスープの中に浮いている。小さくて丸いパスタと、ちょうどスプーンに乗るほどの大きさのミードボールも、同じほどたくさん入っていた。
 空いている右手でスプーンを取り上げ、承太郎が手を離してくれるかとうかがったけれど、承太郎はそんなことは考えもしないように、左手で、器用にナプキンを膝の上に広げ、そのままパスタのためにフォークを取り上げる。
 手を繋いだまま食事をするというのは、明らかにマナー違反のはずだ。左手で食事をするというのを、蛇蝎の如く嫌う家庭もあるはずだけれど、承太郎は、一向に頓着する気もないらしい。
 開き直りに近い気分で、花京院は、スープをスプーンにすくい取りながら、握っている承太郎の手の、つるつるとした爪の辺りを、そっと親指の腹で撫でた。
 承太郎のパスタに乗せられた、みじん切りの赤いトマトには、ハーブか何かの緑が鮮やかに散って、その上にさらに、白いチーズが盛られている。軽いオリーブオイルの香りが、承太郎がフォークを動かすたびに漂って、花京院は自分のスープの、見た目と同じほど透き通った深い味わいに、時折手を止めて、もう、言葉すら失っている。
 ふたりとも、指先だけでそれぞれの料理の感想を伝え合って、無言で、きれいにスープやパスタを平らげてゆく。
 承太郎が健啖家であることはともかく、あまり食べるということに執着のない花京院も、食べれば食べるほど増す食欲に従って、思ったよりもずっと量の多いスープの中身を、すっかりきれいにしてしまった。
 利き手ではない左手でフォークを使っている承太郎は、花京院よりは少し遅く、けれどトマトのかけらも何も残さず大振りの皿を空にして、やっと満足げな表情をかすかに浮かべて、また左手でナプキンを使い、口元を丁寧に拭う。
 トニオの料理の見事さに、ふたりとも、知らずに無口になっていた。
 だから、手を繋いだまま、皿を下げにトニオがテーブルに戻って来ても、互いを見つめる以外のことには心を砕けず、ずっと流れ続けているオペラに、一緒に耳を傾けていた。
 これが、デザートの前の最後の皿だと言って、やけに静かになってしまったふたりを気にしたのか、トニオが少し明るい声で、また新たな皿を運んで来る。
 承太郎には、小さく切った牛肉のステーキ、花京院には、たっぷりとソースをかけた、仔牛肉にベーコンを巻いたものだった。
 承太郎のステーキは、和牛を使ったものだとか、花京院のベーコンは、イタリアものの生ベーコンで、カルボナーラによく使われるものだとか、トニオはにこにこと説明して、ふたりが笑顔を浮かべたところで、安心したようにテーブルを離れて行った。
 慎重に焼かれた肉は、どちらも香ばしい匂いをさせて、ふたりはまた互いを見交わしてから、ナイフとフォークを使うには両手が必要だと悟って、どちらからともなく手を離した。
 掛けられた手間に感謝の意を示して、ふたりは、黙々と皿を空にする。舌を通り過ぎてしまえば、味覚というものがない人間の体を残念がりながら、食欲を満たすためだけではない、それを心から楽しむための食事が、そろそろ終わりに近づいている。
 ほんとうにふたりきり、静かな、平和な夕食だった。
 窓の外は、すっかり暗くなっている。
 流れているオペラは、一体どれほど進んだのか、また違う女声が聞こえて、今度はやや低めのその声に、花京院はうっとりと目を閉じた。
 今朝、吉良が死んでしまったばかりだということが信じられず、鈴美が、もうこの街のどこにもいないのだと、それを思い出して、そうして、平和を取り戻したこの街にとどまる、自分の姿を想像した。
 ここにも、たまには仗助や億泰と、顔を出すかもしれない。あのふたりとなら、もっと騒がしいことになるのだろう。それも、またきっと楽しいだろう。
 花京院は、自分から承太郎の手を取った。
 テーブルの下で、こっそりと握り合う手に、力がこもる。
 「ありがとう、承太郎。」
 とてもシンプルに、それだけの言葉に、すべてをこめた。やっと、そう素直に承太郎に向かって言えたのだと、そんな自分を誇らしく思う気持ちが一緒に湧いて、花京院は、深い笑みを口元に刻んだ。
 握りしめた承太郎の指を、また撫でた。
 ふと、承太郎の口元が、少し淋しげにゆがむ。
 「向こうで家を買うことに決めたら、てめーも一緒に見に来い。」
 頼むような口調ではなく、命令するように言って、承太郎は帽子のつばをほんの少し引き下げた。
 花京院は苦笑を返して、困ったように顔を傾けた。
 「せめて、僕が大学を卒業するまで待ってくれないか。」
 「アメリカの大学に行けばすむ話じゃねえか。」
 「簡単に言うな君は。僕に海洋学を専攻させて、君の助手にでも雇うつもりか。」
 「おれが欲しいのは助手じゃねえ。」
 冗談の応酬の間に、するりと本音が滑り込む。
 けれどもう、それに動揺したりはしない程度に、花京院の心は固まっている。
 やけに子どもっぽく、承太郎が、やはり完全には腑に落ちないという表情で自分を見返してくるのに、花京院は、ひどく大人びた笑みで応えて、また、承太郎の手を強く握った。
 キッチンの方をちらりと見て、まだトニオが姿を現す気配のないことを確かめてから、花京院は、後ろに流れている女声の、高く張り上げたその音に負けない声で、承太郎に向かってささやいた。
 「承太郎、君は、僕の右手だ。」
 前後の繋がりはなく、万感の思いを、そこだけぽっかりと浮いた言葉にこめて、花京院はできるだけ無心に、承太郎に微笑みかけた。
 花京院の笑顔に、承太郎はまぶしげに目を細めた後で、ようやく照れを刷いた表情を浮かべると、こつんと、ブーツの先で花京院の靴の爪先をつつく。
 くつくつと、一緒に笑うふたりに、トニオがデザートを運んで来た。
 承太郎はカプチーノだけを楽しんで、花京院は、出されたチェリータルトを、心の底から楽しんだ。
 承太郎がそう期待した通り、花京院はトニオのチェリータルトに一瞬で心を奪われ、無言で繋いでいた手を離すと、もう何も目に入らないという風情で、日頃の慎み深さと、さっきまで言ったことなどすべて忘れてしまった様子で、きっかり15秒で皿を空にした。
 ひとり分の大きさのチェリータルトはそれが最後で、もう一皿頼めないということに花京院が絶望の表情を浮かべ、そのチェリータルト---花京院のためにと、わざわざトニオに頼んだものだ---にすべてを奪われたように思った承太郎が、本気の嫉妬を感じたという以外は、何もかもが完璧な夜だった。
 トニオは、最後の最後まで、にこにこと笑っていた。そんな夜だった。


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