雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

3) 鳥籠に似た


 年が明けた頃には、言葉の不自由さも減って、花京院の体は、確実に回復に向かっていた。
 まだ10代のままの体は、きちんと食事と運動を管理されて、みるみるうちに失った筋肉を取り戻して、看護チームが予想したよりもずっと早く、花京院は元の花京院に戻りつつあった。
 クリスマスから新年にかけてを、花京院のそばで過ごした後、せめて月に1度は財団本部を訪ねようとは思っても、実際にはそううまくも行かず、2月の初めに花京院を見舞った後で、承太郎の足は、そこから少し遠のいていた。
 見知らぬ人間たちに囲まれて、慣れない英語だけの生活を強いられている花京院は、承太郎を恋しがりながらも、それにだけ気持を向けている余裕はなく、眠っていた10年の間に、世界では一体何が起きていたのか、それを学び直すのに必死で、それでも、会えない承太郎に、まめに手紙を書いた。
 紙とペンは好きに使わせてくれるけれど、封筒と切手は渡してはくれず、ルーズリーフにぎっしりと並んだ日本語を、看護チームの誰かが読めるとも思わないにせよ、承太郎へと言って剥き出しの手紙を手渡すのは、いつも少しばかり気が引ける。
 承太郎から来る手紙も、封筒はすでに取り去られて、便箋だけを手渡されるのが常だった。
 それがないと、建物の中さえ自由には歩けないので、顔写真のついた身分証を渡され、どんな時も常に携帯しているようにと、動き回れるようになって最初に念を押された。
 病室はすでに出て、今は違う階の、仮眠室のようなところにいる。とは言え、内側から鍵もかかるし、部屋にはバスルームもついている。机は、部屋の広さのわりに大きくて、部屋にいる時はずっとそこに坐っている。小さなテレビが、ベッドに寝転がって見れる位置に据えつけてあるけれど、それを見ることはあまりない。英語の番組を面白いとは、まだ思えなかった。
 部屋の明るさは充分だったけれど、いくつかある窓は、とても小さくて、届きにくい高い位置にある。ここから決して出ることのないように、そういうことなのだろう。
 そもそも、花京院がこの建物から外に出るためには、指紋認証のゲートをくぐらなければならず、花京院の指紋は、そのためにはまだ登録されていないから、ひとりの時、あるいは登録されていない誰かと一緒では、エレベーターや階段を使って、他の階にゆくことすらできない。
 閉じ込められているのだと、素直に思えば悔しさも湧く。それでも、守られているのだと、今はそう思うことにしていた。
 ハイエロファントグリーンを使えば、おそらくゲートを抜けることもできるかもしれなかったけれど、その向こうにあるものに対して、今は憧れや懐かしさよりも恐怖の方が強く、体力が回復するにつれ、ここでの、何もかもを監視されている生活に慣れるにつれ、怯えはいっそう強まってゆく。
 誰もはっきりそうとは言わないし、何度かした質問も、ほんとうに英語のせいかどうかわからない曖昧さで、はぐらかされてしまったから、推測するしかないけれど、どうやら自分はとっくに死んでいることになっているらしいと、花京院はそう考えている。
 10年以上もここで眠り続けて、そして今、こんなふうに閉じ込められたままなのは、花京院の体を心配してというよりも、人目を避けているとしか思えない厳重さだった。
 家出同然にエジプトへ向かい、挙句理由もわからないまま自分の死を伝えられた両親の悲嘆を想像すると、胸が痛んだ。
 それでも、死んだかどうかわからない状態で放置されるよりはいっそ良かったのだろうと、理性が花京院を慰める。
 これからのことは、おそらく花京院の知らないところで決められてしまうのだろうし、もはや死んでしまった人間が外の世界へ出てゆくには、さまざまな事情と思惑が絡んで、あれこれと煩雑な手続きも必要なのだろう。
 ここから出られるのだろうかと、ふとそう思う。出してもらえるのかという意味と、出てゆくことを自分が選択できるだろうかという、ふたつの意味を含んで、そう思う。
 世界はすっかり変わってしまった。
 ベルリンの壁は壊され、東西ドイツは統一された。ソ連は消滅し、ロシアに戻った。中国の天安門では、大虐殺が行われた。東京の地下鉄でサリンがばらまかれ、たくさんの人が死んだ。神戸の街が、地震で破壊された。湾岸戦争が始まり、あっけなく終わった後で、けれど余韻がまだくすぶっている。香港も返還された。
 そうやって数え上げてゆくだけで、いきなりそんな世界に放り出されてしまった自分は、ほんとうに迷子のようだと思って、そんな自分に今手を差し伸べているのはこのSPW財団だけだと、そう思って息を吐く。
 そうして、承太郎のことを考えた。
 外見だけのことなら、ほとんど何の変化もない。もうすぐ30だと言うことが信じられないくらいに、花京院の目には、承太郎はあの時のままだ。
 それでも、覚えている承太郎の声よりも、今は深みが増していて、あの頃剥き出しだった荒々しさは、今はひっそりと隠されて、言葉遣いも仕草も、とても穏やかに見える。少年どころか、青年ということもはばかられそうな落ち着きぶりが、何よりも強烈に、花京院に、過ぎ去って失ってしまった10年という時間を感じさせていた。
 もうきっと、あの丈の長い学生服は、今の承太郎には似合わないだろう。
 自分ひとりが取り残されているのだと、花京院はまた唇を噛む。
 16のまま、時間はそこで止まってしまった。
 再び動き出した時の中で、けれど花京院は、まだそこから動き出せずにいる。時を止めるDIOの能力を曝いた、これはそのせいなのだろうかと、下らないことを考える。
 DIOはもういない。すべては、あの時、承太郎が終わらせてくれた。今度は、花京院の番だ。何もかもを終わらせるために、花京院は、ひとりで歩き出さなければならない。
 そのために失ってしまった、この10年だったはずだ。
 自分の足で歩き出そうとするその時に、承太郎は、変わらずにそばにいてくれるだろうかと、そう考える自分を女々しいと思いながら、花京院はひとりきり、頭を振った。


 3月になる頃、ようやく花京院の元へやって来た承太郎は、まずはしばらく会えなかったことを謝った。
 「悪かったな。いろいろ立て込んで、予定が狂った。」
 「別に大丈夫だよ。君が研究であちこち飛び回らなきゃならないのは知ってる。」
 「研究じゃねえ、今回は。」
 花京院に与えられた部屋で、承太郎は机の椅子に腰掛け、花京院はすぐそばのベッドの端に腰を下ろしている。
 いつもの、丈の長いコートを脱ぎもせず、承太郎は胸のポケットから封筒を取り出すと、それをまだ花京院には渡そうとはせずに、話を続けた。
 「ジジイに、隠し子がいやがった。」
 「は?」
 珍しく頓狂な声が出る。
 午前中のトレーニングを終えて、汗を流したばかりの花京院は、白いTシャツの上に濃い緑のパーカーを羽織っている。部屋の中は暖かかったから、厚着の必要もない。少しだぶついているジーンズの、軽く開いた膝の間に投げ出した両手を、思わず力を入れて組んだ。
 「隠し子?」
 「ここ何年か、病気が多くて、用心のために今から財産分けの話が出てやがった。おれには関係ないが、オフクロとおばあちゃんが弁護士に言われて、一応調査をしたらしい。そしたら、ジジイに隠し子がいることがわかった。」
 承太郎は、この手の話は苦手なのか、花京院の方はちらちらとしか見ずに、相変わらずふっくらと形の良い唇を、忌々しそうに曲げて、嫌悪というよりは困惑の表情をそこに浮かべている。
 「・・・ジョースターさん、やるなあ。」
 花京院はぽかんと口を開けた後で、頬をうっすら赤らめた後、思わずそう言った。
 生臭い話だけれど、あのジョセフのことだと思うと、どこかユーモラスに聞こえるのは、やはり人徳だろうか。
 「その隠し子だって人は、一体どこにいるんだ? いくつなんだ、その人は。」
 承太郎が、ちらりと花京院を横目に見た。
 「日本だ。おれと同じで、母親が日本人だ。」
 なるほど、忌々しいのは、ジョセフの浮気そのものや、隠し子の存在だけではなくて、そうなれば間違いなく、承太郎が事の次第を確かめに狩り出されることになるからかと、花京院は、苦笑を隠して承太郎に同情する。
 けれど、承太郎の困惑が、それだけが理由ではないことを、花京院はさらにもっとよく知ることになる。
 「あのクソジジイ、もう80になるくせに、今頃これから高校生になるガキがいやがるなんて爆弾、今さら落としやがって、ジョースターの家は大騒ぎだ。おれもそのとばっちりで、おばあちゃんがジジイと離婚するってのを止めなきゃならねえは、可愛い弟に今すぐ会いたいだのはしゃいでマヌけたこと抜かすオフクロを落ち着かせなきゃならねえは、こんなにめんどくせェのは、DIOの時以来だぜ。」
 「高校生?!」
 なるほど、確かに大騒ぎだ。
 「ちょっと待ってくれよ、相手の女性って、いくつなんだ。」
 「・・・ジジイに会った当時、21かそんなもんか。」
 今度こそ、呆れたわけではなくて、驚きで、開いた口がふさがらなかった。
 「すごいなあ・・・。」
 「これからもっとすごくなるぜ。」
 うんざりしたように、承太郎が言う。
 「君も、大変だなあ、相変わらず。」
 慰めの言葉が見つからずに、ちょっと棒読み気味に言うと、けっと、承太郎が肩を揺すった。
 あの頃のままのような承太郎の態度に、花京院はちょっと笑って、けれどしばらく静かになった後で、承太郎が見せた表情は、もう花京院の見知っているものではなかった。
 「これを見ろ。」
 手にしていた封筒を花京院に差し出しながら、承太郎の声が曇る。
 すっと、形の良い眉を自然に寄せて、花京院は唇を引き締めた。
 オレンジ色の封筒の中には、ポラロイド写真が数枚入っていて、学校らしい建物や、どこかの街の風景が写っていたけれど、そのどれにも、どう見てもスタンドにしか見えない不気味なものの姿が、すべてに覆いかぶさるように写っていた。
 丸い頭に、細い気持の悪い目つきをしたスタンドは、最後の写真で、どうやら本体らしい男と一緒に写っている。スタンドの見た目と同じほど、寒気のする表情の男だった。
 「・・・これは?」
 どう見ても30半ばに見える男が、今話したばかりのジョセフの隠し子のわけはなく、花京院は、写真からあふれてくるおぞましい雰囲気に、額にうっすらと汗をかいていた。
 「ジジイが、隠し子とやらを念写しようとして、その男が現われた。明らかにスタンド使いだ。どうもいやな感じだな。」
 「・・・どう見ても、善人って顔つきじゃないな。」
 花京院は、もう一度写真の男に目を凝らしてから、凶悪そうなその顔に、ちょっと嫌悪の情を示して、丁寧に写真を全部封筒の中へ戻す。
 「どうも怪しげなスタンド使いが、ジョースターさんの隠し子が住む街にいるらしい。」
 話をまとめるように、固い口調で花京院は言った。その後を承太郎が、同じような口調で続ける。
 「ジジイの隠し子も、ジジイの血を引いてるってことは、スタンド使いの可能性がある。」
 「ということは、何かとんでもないことが起こる、あるいはもう起こっているかもしれない可能性がある、ということか。」
 「おれとジジイは、そう考えている。」
 「・・・スタープラチナの出番かい。」
 「仕方ねえな、ジジイはあの歳だ。今さらスタンド絡みの事件に巻き込むわけにはいかねえ。」
 「・・・DIOとは、関係がないんだろう、この男。」
 ふと思いついたことを口にして、そんなばかなと自分で思った花京院と同じように、承太郎もそう思った表情を浮かべた。
 「なぜ、そう思う。」
 「理由はないよ、ちょっと思っただけだ。」
 「DIOは死んだ。おれが倒した。」
 「・・・知ってるよ。」
 DIOの名前を口にすると、変わらずに胸が騒ぐ。そのために、死ななかった自分が、10年も経って目覚めることになったのだと思うと、今さら抱いたところで仕方もない憤りばかりが湧く。
 無意識に、みぞおちの辺りを撫でて、花京院は、早くなった動悸と、止めようもない怒りを鎮めようとした。
 花京院が返した封筒を軽く手で叩いて、
 「この男と、ジジイの隠し子の調査が終わったら、おれは日本へ行く。一体どのくらい向こうにいるかわからんが、何もなければすぐにすむ。」
 承太郎はそう言って、花京院をじっと見た。
 「何か起こったら、いつ戻れるか、わからん。」
 その後に来る言葉を予想して、花京院は体を硬くした。
 思ったよりも長い間、承太郎は言い淀んで、封筒をコートの内ポケットに戻してしまってから、ようやくまた口を開く。
 「てめーも、おれと一緒に来い、花京院。」
 思った通りだと、花京院は、承太郎から視線を外してうつむいた。
 写真の男を見て、スタンド使いだと思った瞬間に、体中を熱が駆けめぐるような、そんな感覚が甦ったのは確かだ。
 男から、抑えようもなく噴き出ている悪意のようなものに、自分が敵対するに違いないという、感覚。戦いの予感に、怖気づきもしなければ、それを嫌悪することもなく、むしろその中へ---おそらく、承太郎と一緒に---戻れることに、一瞬、喜びかけた自分がいたことに、花京院は自分で驚いている。
 命を落としかけた---実際には、落としたものを拾い直したのだろう---暴力の中へ、自分がまた引き戻されようとしていることに、花京院は安堵すら覚えている。
 鳥籠の中で、羽根を切られて飼われている小鳥のような生活に安住しながら、結局はスタンド使いとしての力が、花京院を平和な生活の中へ永遠に埋没させてはくれない。そして、平和な生活を、望んでいるのは本気だというのに、それに物足らなさを感じているのも事実だと、花京院は今思い知っていた。
 それでも、10年という知らぬ間に過ぎ去ってしまった時間が、花京院を臆病にしている。
 以前と同じように戦えるだろうかと、足手まといになるだけではないかと、そして何より、見知らぬ外の世界がただただ怖ろしくて、花京院は、今承太郎が開けようとしてくれている鳥籠の入り口から、いちばん遠くに離れて、そこから出て行くことができずに、ひとり震えている。
 すっかり大人になってしまっている承太郎を目の前に、自分がまだ無力な子どもであることを、いやというほど痛感して、花京院は、かばうように自分の腕を撫でていた。
 返事のないことが、つまりは返事だと、承太郎は、うつむいたまま唇を引き結んでいる花京院から、けれど目をそらさない。
 重苦しい空気に、酸素が薄くなったような気がして、目の前にいるはずの花京院の姿が、すうっと視界の中に小さくなる。
 遠くなった花京院に、伸ばすための手を持ち上げられずに、承太郎は、ただ奥歯を強く噛み締めた。


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