雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

5) 深すぎる想いA


 表面だけは、穏やかに時間が過ぎていた。
 新たにスタンド使いと出会ったという報告もなく、攻撃されたという話もなく、今日も特に何もなしと、そればかりの報告書をSPWへ送るのは、いつのまにか花京院の役目になっていた。
 承太郎は、空いた時間があれば、ホテルのプライベートビーチへ出て、海水に手を浸しては、そこで見つけた生きものを眺めるのを楽しんでいる。
 3日に一度はジョセフを迎えに来る仗助とも、それなりに親しく言葉を交わすようになって、花京院は、街の中に大きな本屋があることや、仗助たちの学校の近くにある、小さくても品揃えのいい画材を扱う店のことを教えてもらった。
 花京院は、あまり外を出歩くことはしなかった。
 目立つ承太郎と一緒に行動して、わざわざまだ出会っていないスタンド使いたち---の間で、最強のスタンド使いという承太郎の噂は、すでに広まっているに違いない---を警戒させる必要はなかったし、花京院が誰で、どんな能力を持っているのか、あるいは、スタンド使いかどうかすらわからない、そんな存在にとどまって、いざとなればいつでも使える、花京院を知らない相手の油断につけ込める、一種の切り札として、承太郎やジョセフの影に隠れている気でいた。
 それに、ここは日本だ。高校生にしか見えない花京院が、昼間街中をうろうろして補導でもされては、目も当てられない。
 出掛ける時はいつも、学校が終わる時間をきちんと見計らって、あるいは、必ずジョセフと一緒にと決めていた。
 日本へ行くこと、普通の生活へ戻ってみること、それ自体がリハビリなのだと思って下さい。あなたはまだ完全に回復はしていませんが、日常生活に支障はないはずです。くれぐれも、無茶はまだ控えて下さい。
 目覚めて以来、ずっと付ききりで花京院の体の状態を見ていた看護チームの責任者が、握手のための手を差し出しながら、硬い表情でそう言った。心配しているというよりも、花京院を手離さなければならないのが残念だと、そんな気持ちを隠しもしないのが、花京院には逆に気楽だった。
 今のところはまだ、無茶をする機会にさえ出会っていない。これだけ承太郎に仲間がいるなら、花京院があえてしゃしゃり出る必要もないかもしれなかった。
 ひとりで行動するには少々不安のあるジョセフの付き添いと、ジョセフの拾った透明になる赤ん坊の世話と、それから、ほとんどひとりでこの街を見回っている承太郎を、いざとなれば助けるために---もし、必要なら---、花京院は、ひっそりとこの街にいる。
 昔そうしたように、気配を消して、息をひそめて、目立たないように、自分がここにいるのだということすら、最低限にしか知らせずに、花京院は隠れるようにこの街にいて、そしてそれを、何だか懐かしく感じている。
 目立つのは承太郎だけでいいのだ。承太郎の存在におびき寄せられて、隠れているスタンド使いたちが尻尾を出すのを待っていればいい。承太郎ひとりの手に負えなくても、仗助たちがいる。それでもだめなら、花京院の出番だ。そこまで手の焼ける状況は、あまり考えられなかったから、花京院は、この頃は人前でハイエロファントグリーンを呼び出すことさえ滅多にしない。もっとも、人前に出ることがあまりない。
 閉じこもっているのは、元々嫌いではないのだ。
 眠って過ごした10年を埋め合わせるように、本ばかり読んでいる。承太郎がくれたMDプレイヤーの使い方は、すっかり覚えてしまった。少しずつ、また絵も描き始めている。
 ぬるま湯につかったような日々を、花京院は、奇妙な心地好さで受け入れていた。


 その日午後遅く、読みかけの本と、ノートほどの大きさのスケッチブックと筆記用具を手に、花京院はひとり街に出た。
 日本の湿気の多さのせいか、腰や膝の痛みを訴えていたジョセフに、2、3日付ききりになっていたのだけれど、
 「いい若いモンが、わしみたいな年寄りと同じような生活しとってどうする。」
 そう一喝されて、花京院は久しぶりに、ひとりきりで外に出てみることにした。
 承太郎は、SPWの人間と直接会う用があるからと言って、朝から出掛けてしまっていた。
 ホテルの周囲の地理と、仗助たちの通う学校の位置、それから本屋やコンビニエンスストアくらいの場所は覚えている。街の中心なら、ひとりで出歩いても迷うことはない。
 街中の眺めというのは、どこへ行ってもそう変わるものではないけれど、店の中にひとたび入れば、10年前の記憶などすべて吹っ飛んでしまう。本屋に入れば、並んでいる雑誌のどれも、もう見覚えのないものばかりだし、画材の店に行けば、見たこともない種類のペンや、目を見張るほど色数の増えた色鉛筆が並んでいて、もうそれだけで圧倒されて、花京院は逃げるように店を後にした。
 耳にする久しぶりの日本語も、覚えているものと少し違って、まるで外国語のように初めて聞く言葉や表現や文法まであって、何度か承太郎に助けを求める羽目になった。
 凄まじい勢いで流れて行った10年という時間を花京院が取り戻すには、思ったよりも時間がかかりそうだった。
 特に目的もなく、しばらく歩き回った後で、仗助たちがよく行くと言って教えられた、カフェ・ドゥ・マゴに腰を落ち着ける。
 一緒に散歩に出たジョセフと、一度来たことがあった。
 外に並べられたテーブルで、早速スケッチブックを開いた。
 真っ赤なチェリーを目当てに、パフェでも頼みたいところだったけれど、甘いものの気分ではなく、それだけ注文した紅茶がすぐにやってくる。
 スケッチブックの中身は、色を塗ることも、きちんと仕上げることも特には何も考えていない、鉛筆で描いただけのスケッチばかりだ。ジョセフやあの透明な赤ん坊を描き取ったものもあるけれど、ほとんどは承太郎かスタープラチナだった。
 承太郎は、今の承太郎ではなく、エジプトへ一緒にいった頃の承太郎だ。学生服を着て、何もかもをにらみつけるような視線で、白い紙の中から、さまざまなことを今にも言い出しそうに、花京院の描いた承太郎は、どれもやけに生き生きとして見える。
 人に見せられるものではないけれど、記憶に頼って描いた、裸の承太郎もいた。
 スケッチブックの中身を眺めて、花京院は、無意識に耳からぶら下がったピアスをいじっていた。
 描きたかったのは、あの時の承太郎だ。紙に写しながら、自分の内側に刻みつけるように、承太郎を見つめて、描きたいと思っていた。それはもう、どんなに望んでもかなわない。だから花京院は、憶えている限りの承太郎を、紙の上に写している。
 髪を乱して、片足を胸に抱き寄せて、今にもこちらに腕を伸ばしそうに、軽く身を乗り出している承太郎は、明らかに何も身に着けていない。その視線の先にいたのは、同じように裸の自分だったと思い出しながら、花京院は、また自分の耳に触れた。
 絵の承太郎の肩の辺りに指先を乗せた時、少し遠くから名前を呼ばれた。
 「花京院さーんッ!」
 声の方に振り向くと、仗助がこちらに歩いてきながら手を振っている。隣りには康一が、すぐ後ろには億泰もいた。
 ちょっと肩をいからせた、足を引きずるような仗助と億泰の歩き方は、10年経っても、あの手の格好の高校生の間に、きちんと変わらずに伝えられているらしい。花京院は手を振り返して苦笑をちょっと浮かべると、開いていたスケッチブックを閉じて、その上に本を置いた。
 「ひとりでお茶っスか。承太郎さんは?」
 「承太郎は今日は朝から出掛けてるよ。夜には戻って来ると思うけどね。」
 承太郎ほどではないにせよ、充分に背高い体を少しかがめて、屈託のない笑顔で仗助が話しかけてくるのに、花京院は少しまぶしげに目を細めた。
 「コンチワ。」
 「こんにちは。」
 億泰と康一も、仗助の両隣りからそれぞれに挨拶してくるのに、花京院がちょっと椅子を後ろに引いて挨拶を返すと、
 「一緒にいいっスか。」
 仗助はもう、空いた椅子の背に手を掛けて訊いてくる。花京院がうなずいた瞬間に、仗助と億泰は我勝ちに椅子に腰を下ろし、ひとつ空いた花京院の右隣りの席に、康一が軽く会釈をしながら遠慮がちに、静かに坐った。
 5分ばかり、仗助と億泰が、花京院にはまったくわからない学校での話をして、康一がそれに少し加わって、その間にテーブルにやって来たウェイトレス-- -花京院の紅茶を運んで来てくれたのは、年かさのウェイターだった---に、いっそうやかましくそれぞれが注文を伝えて、億泰が、そのウェイトレスの形のいい胸の辺りにずっと見惚れているのを、花京院はテーブルの向かい側から、こっそり笑って見ていた。
 「花京院さん、オレらと同じ高校生なンっしょ?」
 億泰が、妙に躾の良い仕草でコーヒーのカップを持った手を途中で止めて、まだ声の定まっていない頃特有の、言葉の間が少しかすれる話し方で突然訊く。
 花京院は紅茶のカップに手を添えたまま、そうだとうなずいた。
 「花京院さんは、今は学校には行ってないんですか。」
 康一が、ストローの入っていた包装紙をきちんと小さくたたんで、アイスティーのストローをくわえながら、ちょっと目を丸くする。
 「今は、承太郎を手助けするためにこの街にいるからね、学校は休学中っていうことになるのかな。」
 花京院が言葉を選んでそう答えると、その語尾をすくい取るように、
 「長くなるようなら、おれらの学校に編入すりゃいいじゃないスか。」
 背の高いコーラのグラスを流れる水滴を指先で熱心に拭いながら、仗助が軽く言った。
 「億泰だって受かったんだから、ウチのガッコの編入試験なんてチョロイもんスよ。なあ億泰。」
 「そーだよなー、オレみてェーなバカでも入れたんだもんな。」
 「ダメだよ億泰くん、自分のことバカバカって言っちゃあ。」
 「あんだよ康一ィ、イイ子ぶんなよォー、オレがバカなのは事実だしよォー。ウソついても仕方ねェだろォー。」
 「そうだけどさー。」
 間の抜けたやり取りの末の、さり気ない康一の失言に、花京院はうっかり吹き出した。
 こうやって、承太郎もジョセフも抜きでこの3人と話をするのは、初めてだった。
 承太郎の前では妙におとなしい億泰も、花京院が自分たちと歳が変わらないと思うと気が楽になるのか、だらけた喋り方を隠しもせず、けれどひとまず3人とも丁寧な口調を崩さないのは、花京院が承太郎と親しいということに対する、敬意の表れなのか。
 楽しげな3人の会話に、花京院はちょっと体を引いて、ゆったりとテーブルの下に足を伸ばす。
 「でもすげーっスよォー、あの承太郎さんとタメ口なんて。なッ、康一ッ。花京院さん、オレらと歳変わんねーのにッ。」
 億泰が、テーブルの向かい側から、花京院の方へ身を乗り出してくる。同意を求められた康一は、ストローを口にしたままうなずいて、それから花京院に顔を振り向けた。
 「承太郎って、そんなに怖いかい。」
 花京院は、口元に浮かんだ笑みを消せずに、億泰と康一の両方に訊いた。
 「こわいっていうか・・・無口な人だから、一緒にいても会話に困るっていうか・・・ぼくらなんか話しかけてもつまんないだろうなって思っちゃって。」
 肩をすくめて、ちょっと言いにくそうに康一が言う。
 「ヘタなこと言うとすぐブン殴られそうだしなッ! スタープラチナでやられたらよォー、オレなんか再起不能だぜェー。」
 「そうだよなー、承太郎さんのスタープラチナ、すげえもんなあ。でもよォー億泰ー、テメーがもちっとうまくザ・ハンド使えるようになりゃ、そこそこイケるぜェ?」
 「マジかよ仗助ッ! それマジで言ってんのかよッテメェーッ! おだてたってナンにも出ねえぞッこのヤロー!」
 浮かれた調子で、億泰が仗助の肩を小突いた。
 無邪気に、スタンドのことを口にする彼らの様子に、花京院はちょっとあごを引く。こんなふうに屈託なく語るべきものだったかと、スタンド使いであることに引け目を感じて、友人すらまともに作れなかった自分のことを思い出して、あまりの違いに、ただ驚くばかりだった。
 承太郎が、彼らの前ではいっそう無口になるらしい理由に思い当たって、花京院はちょっと弱々しく笑ってみる。
 「承太郎は、多分理由もなく誰かを殴ったりはしないと思うけど、でも確かに、あんまりべらべら喋る方じゃないなあ、昔から。」
 一応は擁護するつもりで言ってはみるけれど、エジプトへ向かう途中で、とりあえず怪しいやつは全部殴ってみるということを、何度かやらかしかけたことを思い出して、花京院は思わず声を小さくした。
 ごく自然に、昔と言ってしまったことに花京院は気づかなかったけれど、康一がそれを聞き咎めて、さらに訊いてくる。
 「花京院さん、承太郎さんと、仗助くんのお父さんのジョースターさんと一緒に、エジプトに行ったんですよね。」
 「ああ、そうだよ。」
 何も考えずに、そう答えた。
 「花京院さん、まだ子どもだったんですよね、その時。」
 仗助が、ちょっと片方の眉を上げたのが見えた。億泰は、康一の言ったことを考えている表情を浮かべて、康一は、単なる好奇心から出た問いの、ほんとうの意味をわかってはいないらしかった。
 承太郎は、彼らに一体どこまで話しているのだろうかと、少しの間考えて、自分のことも他人のことも、あれこれ口にするのは好きではない承太郎が、花京院に起こったことすべてを、この屈託なく無邪気で子どもっぽい高校生たちに話しているとは思えず、瞬時に、ほんとうのことはまだ言わないことに決める。
 「ああ、そうだね。僕は生まれつきのスタンド使いだから。」
 語尾を切り捨てるように言って、花京院は、ただ康一に向かって微笑んだ。
 康一が聞きたい答えではなかっただろうけれど、一応質問には答えたことになっている。16を、子どもと言えないこともないから、完全にうそというわけでもない。
 胸の前に両手を組んだ花京院の、少し硬くなった表情の意味を読み取ったのか、康一が戸惑ったようにちょっと首を縮めて、その康一に、仗助が、ちょっと叱りつけるような目配せをする。康一は、自分が何かしてしまったことにだけは気がついたのか、うつむいて顔を赤く染めた。
 億泰だけが、ふたりのやり取りに気づきもせずに、
 「生まれた時からスタンド使えるってどんな気分っスか。」
 失笑ものの質問を重ねてくれた。
 けれどそれのおかげで、まだうつむいている康一から気をそらして、花京院は、少し微笑みをやわらげて、億泰の方へ向いた。
 「どんな気分って・・・わざわざ考えたことがないな、そんなこと。僕は、スタンド使いでなかった時がないから。」
 目の前の高校生たちへの好感と同じだけ、自分の中に湧き上がる違和感を止められずに、けれど花京院は、口元から笑みだけは消さずにいる。
 彼らに他意はない。承太郎よりも自分たちに近しい存在として、花京院を受け入れようとしてくれているだけだ。親しみの表現は、けれど示されれば示されるほど、花京院を彼らから遠ざける。
 やはり自分は承太郎側の人間なのだと、今さらのように思い知って、花京院はそんなことずっと前からわかってたじゃないかと、胸の中で自分に向かって言った。
 億泰のおかげで、気まずい雰囲気にはならずに、また仗助と康一も、はしゃいだ会話を再開する。
 それに形だけ加わって、楽しい部分だけを受け取りながら、花京院は、ここに今はいない承太郎のことをずっと考え続けていた。


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