雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

6) 乾いた瞳@


 朝7時半に起きて、シャワーを浴びて、承太郎はまず花京院の部屋へ行く。ふたり連れ立ってジョセフの部屋へ行って、ホテルのレストランで3人と赤ん坊ひとりで朝食を取るのが、大体8時。承太郎は、ホテルのロビーで、中央紙2紙、地元紙を1紙手に入れて、コーヒーをポットで部屋に運ぶように頼んでから、まずひとり部屋に戻る。
 花京院は、透明な赤ん坊の世話を手伝うために、ジョセフと一緒にジョセフの部屋へ行く。
 ミルクを飲ませて、風呂に入らせて、おしめを替えて、着替えさせる。これに、たっぷり1時間はかかる。
 承太郎は、自分の部屋でひとりになると、コーヒーを片手に、新聞3紙を隅から隅まで読む。これに大体1時間半かかる。
 最後の新聞を読んでいる辺りで、花京院が承太郎の部屋にやって来る。まだ残っている---承太郎が、花京院のために残している---コーヒーを飲んで、承太郎が新聞を読み終わるのを待ち、それから、SPWへ送る報告書のチェックを一緒にする。
 今のところ、大した事件もない。花京院と承太郎がふたり、特に報告することはなしと、そううなずき合って、その場で承太郎が、自分のノートパソコンからSPWに電子メールを送る。
 何か事件があれば、前夜花京院がざっとまとめた報告書を、ふたりで推敲し合って、それをやはりSPWにメールする。その場合は、もう少し時間が掛かる。そして、たいてい事件の調査や後始末などで、1日の残りがほとんどつぶれることになる。
 しばらくそんなこともなく、ふたりは、新聞を隅から隅まで読むことと、赤ん坊とジョセフの世話で時間をつぶす毎日だった。
 承太郎は、2日に1度は仗助に会いに行き、何か変わったことはないかと話を聞く。小さな噂話、かすかな不穏な動き、街で見かけた見慣れない顔、どんなことも漏らさず聞き取って、翌日からしばらくは、耳に入った話のひとつひとつの真偽を、目立たない動きで調べ始める。2、3日もせずに、スタンド使いとは何の関係もないとわかるのが常だった。
 承太郎から渡されたメモを受け取って、整理し、書き直し、SPWに報告するためにまとめるのが、花京院の仕事だ。報告書をまとめる仕事から解放された承太郎は、空いた時間には、もっぱらホテルのプライベートビーチを歩き回って、そこで見かけた海の生きものをスケッチしたり、観察メモを取ったりしている。
 ジョセフは、週に2、3度の割合で、夕方学校の終わった仗助に会って、一緒に食事をするのが習慣になっていた。体調が許せば、透明な赤ん坊を一緒に連れて、そうでなければ、ジョセフが出掛ける間、花京院がひとりで赤ん坊の面倒を見る。
 花京院は、1日のほとんどをホテルの中だけで過ごして、たいていはジョセフと赤ん坊のそばにいる。承太郎が読み終わった後の新聞と、読みかけの本と、スケッチブックと、承太郎から渡されたメモがあれば、それも一緒に、学校へでも通っているように学生服をいつもきっちりと着て、変わり映えのない1日を過ごしていた。
 スタンド使いを追跡するという、字面は勇ましい目的の後ろで、この街での日々は、ただひたすらに穏やかに地味であることがほとんどだった。少なくとも、今はまだ。


 いつものように、ホテルの裏手にあるプライベートビーチで、小さなノートを片手にふらふらと歩き回った後で、承太郎はジョセフの部屋へ行った。
 花京院を誘って、またビーチに戻って、ふたりきりで少し話でもしたいと思っていたのに、部屋の中にジョセフの姿は見当たらなかった。
 「ジジイはどこだ。」
 「仗助くんに会いに行ったよ。今日は学校が昼で終わるから、早目に会ってゆっくりしてくるって言って。」
 そういう花京院の腕には、あの透明な赤ん坊がしっかりと抱きかかえられていて、白くファンデーションを塗られた顔に、大きなサングラス---元々は、花京院のものだった---を乗せて、おしゃぶりを吸う小さな音を、たまにかすかに立てている。
 「てめーはひとりで子守りか。」
 そうだよとうなずいて、承太郎を中に招き入れながら、裾の長い学生服に赤ん坊という珍妙な姿も、今ではすっかり板についてしまっている。
 承太郎は、舌打ちしたいのをこらえて、ドアを閉めて花京院の後ろに従った。
 赤ん坊を連れて、ホテルの外へ出るのはかまわないけれど、何かあって突然透明になられるのは面倒だったし、たとえまだ言葉のわからない赤ん坊でも、一緒にいれば花京院とふたりきりということにはならない。第一、学生服の花京院が赤ん坊を抱いていれば、よけいな誤解をする人間がいないとも限らない。その連れが承太郎では、いろんな意味で目立つことこの上ない。承太郎は、ひとまず花京院だけを部屋から連れ出すのは無理そうだと、あっさりとあきらめることにした。
 ジョセフひとりのための、あまり広くはないこの部屋---広すぎては、動き回るのが大変だ---の、ベッドの近くに、ホテルが用意してくれたベビーベッドが置いてあり、花京院は、その中に赤ん坊を置いて、ベッドに背を向ける形で承太郎がすでに腰を下ろしている、ソファの近くへ少しだけ寄る。
 「コーヒー、飲むだろう。」
 小さな冷蔵庫の上に置いてあるコーヒーメーカーのスイッチを入れながら、花京院が訊いた。
 「泳ぐにはまだ早いけど、海の風は気持ちいいだろうな。」
 ソファの後ろを通って、明るい窓の方へ行く。自分の隣りに腰を下ろす気はないらしい花京院の素振りに、承太郎は、少し浮かせた腰を、またソファの上に戻した。背もたれに腕を乗せて、窓の外を眺めている花京院の背中を眺める。
 「明日晴れたら、一緒に外に出るか。」
 ちょっと、花京院の背中が揺れた。すっかり、承太郎の記憶通りの厚みを取り戻している肩に、あごを乗せるように振り向いて、ちょっと戸惑ったような笑顔を浮かべたのを、承太郎は確かに見た。
 「君の邪魔はしたくないよ。」
 遠慮がちなふりでそう言うと、また窓の外に顔を向きを戻して、すっと伸びた背筋には、それ以上の言葉を受けつけないという決意が、うっすらと浮かんで見える。
 長い長い眠りから目覚めて、この街へ、承太郎の後を追うようにやって来たというのに、花京院との距離は広がるばかりだと承太郎が感じるのは、なぜなのだろう。
 強引に奪ったつもりはなかった、あの久しぶりの口づけ以来、触れ合うことすら拒むような花京院の態度に、承太郎は大人げもなくいら立ちをつのらせている。
 やっと、人目を気にせずにいられるというのに、承太郎に親しんでくる様子もなく、部屋のこちら側とあちら側で、花京院の胸の内を覗こうと、承太郎はみっともなく焦れていた。
 「邪魔なんかじゃねえ。おれは、てめーと一緒にいたいんだ。」
 こんな直截な言い方は、あの時だってしなかった。
 抱き合うことから始めてしまったふたりは、行為に添ってくる心を持て余した後で、ようやくそれを恋だと認め合って、けれど決着を着けないまま、こんなにも時間が過ぎてしまっている。その時間が、思った以上に大きな壁になっているのだと、今さら思い知っているふたりだった。
 無言のままの花京院の背中を見つめていることに耐えられずに、承太郎は、ソファの前のテーブルに置かれた、今朝すでに読み終わってしまっている新聞の束を眺める。知らないうちに通り過ぎて行ってしまった時の流れの中に、せめて置き去りにはされまいと、貪欲に知識を求めようとする花京院が、10年の穴を埋めるために必死で紙面に目を据えている横顔を、承太郎は何度か見た。必死さばかりが目立つその表情に、ふと同情を感じて、そんなに頑張る必要はないと、言いそうになった唇を、思わず噛んだ。
 あのエジプトへの旅で、何があっても小さな文庫本を手放すことをしなかった花京院は、もう何度も読み返して、そして襲撃の間にぼろぼろになってしまったそれを、月明かりの下で膝の上に開いて、そうして、とろけそうに幸せそうな表情で、日本語の活字を追っていた。
 これでLed Zeppelinが聴けたら、最高だと思わないか承太郎。
 聴きたい音楽の代わりに、時折、承太郎のために、そして何より花京院自身のために、外国語ばかりに囲まれた日々の中で、美しい日本語のその音を、決して忘れることのないようにと、懐かしむように目で追っている字を声に出して読み上げた、花京院の、その時だけは鮮やかに感情を散りばめた短い朗読は、何も考えられなくなるほど熱中したハードロックのバラードよりも、承太郎の心を潤してくれた。
 日本を離れて、命以外の何も携えられはしないと思うほど、過酷な旅の途中で、けれどいつだってふたりが、ささやかな愉しみを忘れることは、決してなかった。
 読んだ本の話をして、子どもの頃に好きだったテレビ番組の話をして、音楽の話をして、そうして生まれた、ごく普通の意味合いの親しみ---スタンド使いであるということを、抜きにした---の先で、ふたりは、動機はどうあれ抱き合うことを選んだ。
 ベッドの中で本を読むことよりも、承太郎と抱き合うことを優先するようになっていたことに、花京院自身が気がついていたのだろうかと、承太郎は考える。
 あの、見ている方が照れるほどの幸せそうな顔は、まだ目覚めた後の花京院の顔に浮かぶことはなく、好きなもの、好きなことに囲まれているはずだと言うのに、何が足りないのかと、承太郎はひとり思いあぐねている。
 目覚めてしまったことを、あの時に死ななかったことを、まさか後悔しているのかと、訊けるはずもなく、その答えを知りたくないのは、何より承太郎自身だ。
 コーヒーメーカーだけが、部屋の中でこぽこぽと音を立てている。
 花京院は、自分が何か言うのを、辛抱強く待っている承太郎の気配に、わざと気づかないふりをして、窓の外の明るい風景に見入っているのだと示すために、そこから振り向かないままでいた。
 承太郎と花京院の求めるものは、過ぎてしまった10年の間に、はっきりとすれ違ってしまっているのだと、承太郎だけが気づかずにいるということが、花京院には信じられない。
 あの時ふたりが欲しいと思ったのは、まだ17だった承太郎と、16の花京院だ。まだ、抱き合うことの意味すら、ろくに知らなかった互いだ。今承太郎は、まだ16のままの花京院を、おそらくあの頃と変わらない気持ちのまま、けれどあの頃の承太郎ではなく、30に手の届く大人の承太郎として、欲しがっている。
 そんなことが可能なはずがないと、花京院は、窓に映る承太郎をちらりと見た。
 承太郎の、花京院の知らない10年間のことを考える。
 高校を卒業して、大学へ行ったと言った。それからアメリカで大学院へ行って、卒業した後は、イルカやサメの研究をしていると、深くなった声で言った。その間に、一体何人の人間と出会って、そして魅かれたのか、そのことを、承太郎は一言も言わない。30にもなって、恋人のひとりもいなかったと下らないうそを承太郎がつくはずもなく、それを聞いて---理解はしても---気分の良いわけのない花京院を思いやって、口にしないことを選んだに違いなかった。
 あの口づけを思い出すたびに、ざわめく心と一緒に、皮膚の下が熱くなる。そのために、この長い時間があったのだと、吐息を吹き込むような承太郎の唇の熱さに、溺れそうになった。溺れてしまえればよかったのだと、こんなことにはことさら臆病な自分が疎ましくて、けれど同時に、自分が欲しいのは17の承太郎だと、そう必死に、そこに踏みとどまろうとしている自分を感じる。
 描きたいと、心の底から思ったのは、あの承太郎だ。目の前の薄闇の中に、全身を晒して、その姿を目に焼きつけた。焼きつけたその姿を、今花京院は、必死に再生しては自分の中に刻み込み続けている。
 そのことが、どれほど今の承太郎を傷つけるかとは、痛みに溺れている今、花京院は気づけずにいる。
 それが自分の幼さなのだと、けれど自覚はしていて、だからこそ、今の自分が、今の承太郎にふさわしいわけはないと、そんな結論に導かれてゆく。
 大人びてはいても、まだろくに世界の仕組みも体感してはいない。失った10年を取り戻すために費やさなければならないだろう花京院のこれからの10年を、承太郎はまた黙って待つと言うのだろうか。
 そんなことを、承太郎にさせてはいけないのだと、花京院の中で声がする。
 承太郎には、もっと他に大事なことがあるはずだ。その大事なことは、自分ではないのだと、そう確信している花京院は、あの頃と変わらない気持ちのままでいるのだという承太郎の態度を、素直に受け取れないでいる。
 部屋に降り下りた沈黙の重さに、ふたりが耐え切れなくなって、何か言おうと息を継いだ時、ベビーベッドにいた赤ん坊が、突然ぐずり出した。
 花京院が、慌ててベッドへ寄って、抱き上げようと両腕を伸ばす。
 おしゃぶりを落としてしまって、大きく開いた口の中が赤いのが、今はよく見える。花京院に抱き上げられて、落ち着くどころかいっそうひどく泣き出した赤ん坊は、瞬く間に花京院の腕の中にかき消え始めた。
 「あッ!」
 驚いて声を出した時には、もう花京院の腕も消え始めて、ソファからそれを見ていた承太郎が、まるで非常事態といったふうに、ソファの背を軽々と飛び越えて、花京院と赤ん坊のそばへやって来る。
 「花京院、その子をベッドに降ろせッ!」
 けれど花京院は、もう姿の見えない赤ん坊を、見失うことを恐れて、逆にしっかりと自分の腕の中に抱え込んだ。
 「ベッドまで透明になったら、この子を探せなくなる。」
 そう言う花京院の腕も胸も、もうすっかり透けてしまっている。
 承太郎は、どこにいるか見えない赤ん坊がいるだろう辺りに長い腕を伸ばしながら、素早くスタープラチナを呼び出して、時を止めた。
 空気の流れさえ静止したその中で、心配そうに自分の腕があるだろう辺りを見下ろしたまま止まっている花京院の、まだちゃんと見える肩から、赤ん坊を抱き止めている腕を探る。
 「やれやれだぜ。」
 その腕に、以前と同じように思える、しっかりとした筋肉が戻っていることを、今は確認している時ではない。
 花京院の腕から、まだ泣いている透明な赤ん坊を自分の腕に抱き取ると、承太郎は残った1秒でしっかりと腕の輪を固めて、時が再び動き出すのを待った。
 「承太郎ッ!」
 目の前で花京院が叫んだ時には、承太郎の腕はすべて透け、上半身はおろか、顔の下半分も消え始めていた。承太郎に抱き取られたことに驚いて、その憶えのない腕の硬さに、赤ん坊はいっそう怯えたらしい。
 「承太郎ッ!」
 消えてしまっている腕を、すでに足まで透明になっている承太郎に向かって伸ばして、花京院はまた呼んだ。
 「心配するな。この子はおれが抱いている。てめーはそれ以上消えねえように離れてろ花京院。」
 もう、ほとんど見える部分のない承太郎がそう言った声が、別のことを言っているように、花京院の耳には聞こえた。
 消えるなと、眠っている間に、そう承太郎が言い続けていたのを聞いたと思ったのは、あれは花京院の夢だったのだろうか。
 承太郎の姿が、完全に消える。赤ん坊は、まだひくひくと泣いている。
 「承太郎ッ!」
 ひどい恐怖に突然襲われて、花京院は、いっそう大きな声で、叫んだ。そうすれば、ますます赤ん坊を怯えさせるとわかっていて、けれど今花京院は、足元の床と一緒に消えて行った承太郎が、ただ透明になってしまっただけではなく、一生、自分の腕からすり抜けて行ってしまったように感じていた。
 もう二度と、承太郎に会えなかったらどうしようと、ありえもしないことを考える。赤ん坊が落ち着けば、透明になった部分はじきに元に戻る。そんなことはわかっている。けれど、自分のせいで承太郎が失われてしまったのだという恐怖を、拭い去ることができない。
 花京院は、足を一歩前に出した。透明な空間を、透明な腕で探りながら、見えない承太郎を探そうとした。
 えぐれたように見える、透明になってしまった床の上に、じりじりと爪先を滑らせて、
 「承太郎、その子をあやせるのは、ジョースターさんと僕だけなんだ。君がそうやってその子を抱いてる限り、多分僕らは元には戻れない。」
 そう、できるだけ冷静な声を出しながら、花京院は、赤ん坊の小さな泣き声を頼りに、承太郎の腕があると思しき辺りに、そろそろと見えない腕を伸ばしてゆく。
 「てめーも一緒に透明になる気か。」
 まだ花京院の意見に賛成できないらしい承太郎が、わずかに後ろに下がった気配が伝わる。
 「・・・少しくらい透明になったって、僕らがふたり揃えば、切り抜けられないことは何もないだろう。」
 承太郎だけにではなく、自分に言い聞かせるように、花京院は低い声で言った。
 数拍、承太郎が息を飲んだ気配があって、それから、承太郎の方から、花京院の腕に触れてくる。
 「僕に、その子を渡してくれ。」
 ようやく、落ち着いた声が出せる。
 承太郎の肩が花京院の肩にまず触れ、それから、赤ん坊の位置を確かめてから、ふたりの腕が絡まるようにして、やっと赤ん坊は花京院の腕の中に移った。途端に、すうっと肩が全部消える。見る見るうちに上半身も顔も消え、花京院の足元まですっかり消えてしまうまで、数秒もかからない。
 花京院は、しっかりと赤ん坊を抱いて、その花京院の肩を、承太郎が抱き寄せている。
 押し潰さないように気をつけながら、小さな赤ん坊を胸の間に挟む形で、花京院はごく自然に、承太郎の肩に頭をもたせかけていた。
 赤ん坊は、花京院と承太郎の心臓の音を聞いて、次第に落ち着きを取り戻し始めたのか、自分自身と、承太郎と花京院と、足元の床をすっかり消してしまっていたけれど、それ以上周囲のものを透明にすることは、とりあえずやめたらしかった。
 「・・・ずいぶんと、この子に親身だな。」
 耳の傍で、承太郎の低い声がした。
 承太郎の肩に乗った頭を動かして、ちょっと深く首を前に折ってから、ふふっと花京院は小さく笑う。
 「ストレスが原因で透明になるなんて、自分の姿を消したくて仕方なかった昔の僕に似てるなって、そう思ってるだけさ。」
 気のせいか、肩を抱いた承太郎の腕に、力がこもったような気がした。
 姿が見えないせいで、目の前にいるのが、17の承太郎だと思い込むことが簡単で、花京院はそんな自分を軽蔑しながらも、額を乗せた承太郎の肩に、首を伸ばして頬をすりつけていた。
 まだ透明のままでいたけれど、さっき感じた恐怖はもうどこにもなく、花京院はひどく静かな気持ちで、承太郎の腕に体の重みを預けている。
 ここに確かにいて、触れているのに、見えないから、まるで壁にでも向かってひとり言を言っているように、花京院は唇をゆるめていた。
 「・・・承太郎。」
 透明な承太郎が、なんだと、小さく応えた。
 花京院は、承太郎の肩の上で、深呼吸と同じ速度で、まばたきをした。
 「僕は、憐れまれるのは嫌いだ。君に同情されるくらいなら、いっそ死んだ方がましだ。君は、僕があの時死にかけたからって、負い目を感じる必要はないんだ。」
 ずっと考えていたことを、ついに口にする。承太郎が、自分のせいで花京院が死にかけたと思っていたら、だから、黙って10年以上も待っていたのだとしたら、恋だと承太郎自身が思い込んでいる感情が、実はただの同情から生まれた罪悪感だったのだとしたら。
 人の気持ちに疑り深いのは、覚えてもいない幼い頃からだ。確かめずにはいられない。人が、うそをつく生きものだとしても、そのうそを見破れるという自信と、見破った後のひどい失望と、素直になればもっと楽になれるのだろうかと、時折思わないでもない。それでも、疑いを疑いのまま放ってはおけない。
 それが、自分を死ぬほど傷つけるのだとしても。
 「同情と罪悪感だけで、10年も待てると思うか。」
 承太郎の声が震えている。ああ、傷つけて、怒らせたのだと、花京院はひどく冷静に思う。
 「君は、責任感が強いからな。」
 珍しく、思ったままを素直に口にする。人を傷つけることは、とても簡単なことだ。
 承太郎の手が、肩を滑り上がって、花京院の頭を撫でた。
 花京院は、力を込めすぎないように気をつけて、赤ん坊を抱いている腕の輪を、少し縮めた。
 「てめーこそ、目が覚めてみたらおれが先に歳食ってていやになったんじゃねえのか。仗助たちといる方がいいのか。」
 承太郎は、なるべく嫉妬の感情を含めずに、平たい声で言った。
 花京院の髪が、掌の下で逆立った。軽蔑されたと思って、ひどく憤っている証拠だ。花京院がこんなふうに感情を剥き出しにするのは、自分といる時だけなのだと、承太郎はまた確信する。
 何もかもを吐き出して、傷つけ合ったとしても、流れる血で消え去る毒もある。花京院が生き延びたという、これが代償だと、ひとりきり耐えた10年という時間と、今花京院が---そして承太郎自身が---感じている痛みを自分の身に写して、承太郎は、もう少しだけ耐えられると、ぎゅっと唇を噛む。
 「君と仗助くんたちと、僕がどっちを選ぶか、わからないくらい君はバカだったか承太郎。」
 「救いようがねえバカなのは、てめーも同じだ花京院。」
 間髪入れずに承太郎が言うと、胸の内の屈託をすべて吐き出すように、花京院が、聞いている方がせつなくなるような、長くて深いため息を吐いた。
 花京院の手が、赤ん坊から離れて、承太郎の胸を撫でた。
 赤ん坊は、花京院に抱かれて落ち着いたように見えるけれど、ふたりの姿は一向に元には戻らず、床もえぐれたように消えたままだ。
 花京院は、少し困って、また両腕で赤ん坊を軽く揺すぶった。
 「花京院、ハイエロファントでその子をあやせるか。」
 見えないけれど、承太郎は赤ん坊を見下ろしている。花京院はその承太郎を見上げているつもりで、少しの間考え込む表情を作った。
 「・・・やったことはないけど、やってみるよ。」
 花京院は、自分の後ろにハイエロファントグリーンを出現させると、まず足を紐状に解いて、細かく網目状に組み合わせて、ネットのようなものを作った。ふんわりと丸くなったそれは、翠色にきらきら光る揺りかごのようにも見えて、それを、ハイエロファントが組んだ両腕のすぐ下に置く。万が一、ハイエロファントがうっかり赤ん坊を落としてしまっても、その揺りかごが赤ん坊を無事に受け止めてくれるように。
 そうして、花京院は、ゆっくりと承太郎から離れると、ハイエロファントの腕の輪に、透明なままの赤ん坊を注意深く渡した。
 身軽になると、ふうっと、思わず息がもれる。
 「おれたちから少し離せ。どうやらおれたちに同調して、ストレスを感じてるらしいからな。」
 承太郎が言う通り、ちゃんと見える位置で、けれどソファの向こう側へハイエロファントをやると、10分足らずのうちに、床が元に戻り、ふたりの姿も再び現われ始めた。
 「・・・良かった、元通りだ。」
 掌を目の前に上げて、心底安堵したように花京院が言う。
 「助かった・・・。」
 言いながら、ハイエロファントの方へ行こうとした花京院を、承太郎が引き止める。
 そのまま、引き寄せた花京院を強く抱いて、少し待て、と小さくつぶやく。
 SPWの研究所で、目覚めて最初に会った時に、同じ抱き方をされたと、花京院は精一杯承太郎に向かって背伸びしながら思い出している。今はもがきもせず、素直に承太郎の背中に腕を回して、白い長いコートの柔らかな生地を、両の掌の中に握り込んだ。
 承太郎の指先が、花京院の髪の中にもぐり込む。
 耳に、承太郎の深い声が触れた。
 「おれにとっていちばん大事なのは花京院、てめーが今生きて、動いて、ここにいるってことだ。それだけだ。」
 承太郎の肩にあごを乗せて、ちらりと横目にハイエロファントの様子を窺う。あちらを向かせていてよかったと思いながら、承太郎に、小さく相槌を返す。
 「だからもう、おれの前から消えるな花京院。頼む。」
 17の承太郎なら、こんなことは決して口にしなかっただろう。心臓を握り潰されそうな、承太郎の悲痛な声に、今はそのことに失望するよりも、こんな承太郎の声は二度と聞きたくはないと、そればかりを考えている。
 また、赤ん坊がむずがり出したりする前にと、思いながら、承太郎の腕から抜け出せない。
 花京院は、承太郎を抱き返して、なるべく明るい、軽い声で言い捨てた。
 「承太郎、僕らはふたりとも、救いようがないバカだ。」
 「・・・ああ、そうだな。」
 花京院は泣いてはいないし、承太郎も泣いてはいない。それが、ふたりの大きな成長の証のような気がして、花京院は、笑おうとして、けれどうまく笑えなかった。


* 3/7早朝、承花祭りチャットにて、ゲダイさん、抹茶さまよりネタ強奪。深謝。

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