雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

6) 乾いた瞳A


 杜王町のどこかに、殺人鬼が潜んでいる、それを、康一と岸部露伴が、殺された本人の少女の幽霊から聞いたと、仗助が承太郎に伝えにやって来た。
 「康一がちゃんと古い新聞調べて、その幽霊が言った通りの事件があったの探して来たんスよ。」
 康一はどうやら、わざわざ公立図書館まで出掛けて、新聞の山からその記事を見つけ出したらしい。ざらりと粗くコピーされたその白い紙には、ようやく少女とわかる写真も載っていた。
 承太郎と花京院は、その記事に一緒に顔を近づけて、それから目の前の仗助を見る。
 仗助は、はっきりとスタンド絡みかどうかわからないこの話を、わざわざ承太郎に報告しに来たのに、少々気が咎めているらしく、さっきから唇をとがらせて、しきりに頭の後ろに手をやっている。
 杜王町の少年少女の行方不明者の数は、全国平均の8倍だと、その幽霊が言ったという。その中には、ごく普通の家出や誘拐も含まれているのかもしれなかったけれど、それにしてもこんな大きくもない町で、他の場所よりもそれだけ多くの人間たちが姿を消しているというのは、どう考えても異常だ。
 「死刑囚のアンジェロを追って来てみれば、また別の殺人鬼がお出ましか。」
 「ひどい話だな・・・。」
 承太郎が手にしている記事のコピーを、花京院は顔を寄せて一緒に読んで、ふたりは別々に感想を口にする。
 「・・・まだ16歳でなぶり殺しなんて・・・。」
 花京院は、吐き気でもこみ上げたように、口元を掌で覆った。記事に描写してある、被害者の少女---と彼女の両親---の死亡状況の説明は酸鼻を極めていて、当時の安っぽい週刊誌でなら、もっと刺激的で陰惨な記事が見つかるかもしれない。かわいそうにと、花京院は掌の向こうで小さくつぶやいた。
 その花京院の隣りで、承太郎は眉ひとつ動かさず、3度読み返したその記事のコピーを、仗助に返した。
 「ひとまず、気をつけてはみるが、今おれにできることは何もないな。この犯人がスタンド使いという疑いでも出ない限り、これはおれが関るべき範囲のことじゃない。」
 「・・・そうっスよね・・・。」
 承太郎が返した紙越しに、承太郎をすくい上げるように見る仗助の目には、最初から期待はしていなかったという諦めと、でもやっぱりという薄い失望が見えて、ふたりともの心の内側の見える花京院は、言いたいことをひとまず飲み込んで、承太郎の部屋から出て行く仗助を、ドアの外まで見送った。
 「いいのかい、放っておいても。」
 いつも持ち歩いている小さなノートを手に、ソファに腰を下ろした承太郎の方へ、花京院は足音もなく戻って行った。
 「スタンド使いに関係あるかどうかはともかく、幽霊自体を信じてないわけじゃないんだろう?」
 ソファの背に、軽く腰を乗せて、承太郎と背中合わせになるくらいの位置に体を落ち着けると、ほんの少しからかうような口調で訊く。
 承太郎は正面を向いたまま、開いたノートに少し憮然とした表情を当てているけれど、花京院にそれは見えない。
 「15年前の殺人事件だ。その後、その殺人鬼が殺人を、この街でひっそり続けているとして、尻尾をつかませないのは何故だ。」
 「よっぽどうまくやってるんだろうな。人目を避けて、完全に証拠を隠して・・・。」
 「あるいは、遠隔操作で殺人を行えるような、スタンド能力を持ってるかだ。」
 「・・・承太郎・・・ッ!」
 思わず振り向くと、承太郎もこちらを斜めに見上げている。厳しい視線がふたつ、そこでぶつかった。
 花京院は、考え込むようにあごに手を当てる。
 「でも承太郎、この犯人が殺人を楽しんでるんだとしたら、遠隔操作で人を殺すのはつまらなくないか。」
 そう自分で言ってから、考え直したように言葉を継いだ。
 「もっとも、感触をちゃんと味わえて、視覚もスタンドを通せるなら、むしろ殺人現場から遠いのは大きなメリットか・・・。」
 「だが、殺人でなく行方不明で片付けられてる部分が、どうも腑に落ちねえ。スタンドだとすれば、その辺りでどんな能力か推測はできそうだな。」
 「でも、君はまだ動かないんだろう、承太郎。」
 承太郎が横顔で、ちょっと唇を前に突き出す。責めたつもりも揶揄したつもりもなかった花京院は、慌てて体の向きを変えると、承太郎の方へ上半身を折り曲げた。
 「君が、スタンド絡みのことでない限り関らないってのはわかってるよ。君の目的は、殺人鬼を追いかけることじゃない。」
 「残念ながらその通りだな。」
 「でも、僕が個人的興味で、幽霊に会いに行くのは勝手だろう?」
 今度は承太郎が、ソファの上で体の向きを変えた。
 「・・・花京院。」
 「君だって気になるんだろう? 康一くんたちでは探れなかったことが、僕ならわかるかもしれない。幽霊相手なら、一度死んだも同然の僕の方が適任だと思わないか。」
 「そういう言い方はよせ・・・。」
 承太郎の声が、少し弱くなったのとは逆に、花京院はやけに明るく笑って、もう部屋を出るためか、ソファから離れる素振りを見せる。
 承太郎は慌てて立ち上がって、ドアの方へ向かい始めた花京院の背に声を掛けた。
 「おい、これから行く気か。」
 「ああ、早い方がいいだろう。ジョースターさんに声を掛けてから出掛けるよ。」
 気にしたわけではないけれど、振り向いた窓の外には、かすかに夕暮れの気配がある。あと数時間で夜になるという時間に、幽霊に会いに行くというのは、何だか不吉な気がした。
 わざわざ花京院を追って、足早にドアのところまでやって来ると、承太郎は、部屋を出ようとする花京院の腕を引き、自分の方へ振り向かせた。
 何のために引き止めたのか、自分でもよくわからず、ちょっと驚いて自分を見上げている花京院の頬の辺りに、うろうろと視線をさまよわせる。
 「ちゃんと、戻って来い。」
 思い切ったように、ようやくそう言った承太郎に向かって、何か言いたげに、花京院の唇が開いて、けれどそれだけで、すぐに薄い笑みに変わる。
 「当たり前じゃないか。」
 杞憂だと、承太郎の心配そうな表情を笑い飛ばすように、花京院はさり気なく承太郎の手を外すと、開いたドアの間から、するりと廊下へ滑り出ていた。


 仗助から聞いていた、その幽霊に会える小道は、確かにあった。薬局とコンビニエンスストアの間に、まるで花京院を待っていたかのように、道は開いていた。
 そしてそこには、岸部露伴がいた。
 「空条承太郎から電話があって、君がここに来るから、一緒に幽霊に会ってほしいと頼まれた。」
 花京院よりも、ほんの少し背は低いだろうか。肩も胸も、仗助や億泰に比べるとずいぶんと薄い。マンガ家だと聞いていたから、あまり健康そうではない外見に花京院は驚きもせず、けれど、スタンド使いのリストに添えられていた写真でしか見たことのない露伴は、写真よりももっと強烈なオーラを放って、小道の前に立っていた。
 毒舌家で、変人で、およそマンガを描く以外のことに興味もなさそうな、人を不愉快にするのが得意なやつだと、仗助が苦々しげに承太郎に言っていたのを思い出しながら、黙って立っていても、人を観察するような不躾けな視線に、花京院はちょっとだけ眉を寄せる。
 ものを創り出す人間というのは、得てしてこういうものだ。もっとも露伴の場合、人を本に変えて読んでしまうというスタンド能力を持っているというから、文字通り距離を置いて付き合うに越したことはない。
 花京院は、気配を消してハイエロファントの触脚を露伴の背後まで這わせて、露伴がヘブンズドアーを仕掛けようとしたらすぐに止められるように、露伴が思う存分自分を眺めて、満足するのを黙って待った。
 放っておいたら、今小脇に抱えているスケッチブックを開いて、何やら描き始めそうなそんな雰囲気で、露伴は長々と花京院を観察した後で、
 「君はほんとうに、あのクソッたれ仗助にあほの億泰と同い年なのか? 信じられないな。」
 大人びていると言われ慣れている花京院は、20歳と言っても、どうもそれよりもやや若く見える露伴にそう言われてうれしがるほど子どものはずもなく、
 「彼らの方が、学年はひとつ下のはずだ。」
 平坦な声でそう付け加えておいた。
 露伴は、花京院の手応えのない反応に少しむっとしたような表情を浮かべて、高校生のはずの、けれどあの承太郎の友人である花京院に対して、一体どんな態度を取るべきかと思案しているのが、瞳のわずかな動きに見て取れた。
 「まあいい。とにかく行こう。」
 わざわざ年上ぶる様子もなく、けれど充分に尊大な態度で、露伴は花京院を促して、先に立って小道へ入ってゆく。
 露伴と肩を並べて、花京院は淡々と話を始めた。
 「康一くんが、その殺人事件の記事を見せてくれたんだが・・・事件は、確かに1983年に起こっている。」
 「間違いない、ぼくも、裏を取るために彼女の墓まで行ったんだ。杉本鈴美という子がいたというのは事実だ。」
 露伴はまっすぐ前を向いたまま、声を掛ける花京院の方を見もしない。
 「君は、彼女を殺した犯人がスタンド使いだと思うか。」
 「さあ。ぼくはただ、幽霊と関れる貴重なチャンスを、自分の作品のために生かしたいだけだ。」
 あっさりとそう言ってのけた露伴を、花京院は思わず嫌悪の表情を浮かべて振り返った。けれど、その冷淡な口振りとは裏腹に、露伴の横顔は妙に硬張っていて、この件に関して、露伴には露伴なりの何か屈託があるらしいと素早く読み取った花京院は、さっと自分の表情を元に戻した。
 こっちだと露伴が、小道の突き当りを右に曲がる。そうして、1歩遅れてついてゆく露伴の背中越しに、花京院は、少女の姿を見た。
 「露伴ちゃん。」
 少女が、親しげにそう呼んだ。露伴はちょっと困ったように肩を斜めに傾けて、それ以上彼女に近づこうとはしない。
 花京院は、露伴の後ろに立って、彼女の姿をよく見ようとした。
 そう想像していたようには、彼女の体は透けてもいないし、足もちゃんと見える。幽霊だと言われなければ、そうだとわかる確かなしるしはどこにもないように思えた。花京院はちょっと呆気に取られて、ほんとうにここがその場所で、この少女が、殺された杉本鈴美という、残酷に殺された子---の幽霊---なのかと、にわかには信じられない。
 「露伴ちゃん、あたしに会いに来てくれたの。」
 彼女はとてもうれしそうに、露伴に微笑みかけている。
 そうしてようやく、花京院は、彼女のすぐ後ろから鼻先を突き出してきた犬が、ぱっくりと切り裂かれた首から、たらたらと血を流しているのに気がついた。
 ほんとうだ。口の中でつぶやいていた。汗がじわりと吹き出して、ようやく、ここが普段は開かれてはいない場所なのだと、実感する。
 露伴は、相変わらず彼女から距離を取ったまま、ひどく馴れ馴れしい彼女の態度に、照れて戸惑っている素振りもあらわに、やっと花京院を振り返った。
 「彼女が、そうだ。」
 さっきまでの尊大さはきれいに消え去って、露伴はどこかつらそうに、彼女の方へ細いあごをしゃくる。
 花京院は、今は露伴のことを気に掛けるのはやめようと、ここへやって来た目的を思い出しながら、彼女の方へ一歩足を踏み出した。
 杉本鈴美は、明らかに警戒を示して、すっと犬を自分の前へ出した。
 「あなたは誰?」
 すぐにでも犬をけしかけられるように、気の強そうな眉をしっかりと寄せて、ひどく可愛らしい声が訊いてくる。
 16という年齢よりも、彼女は少し幼く見えた。
 女の子と親しく口を聞いたことなど滅多とない花京院は、怯えさせずにうまく話を聞くことができるだろうかと、今さら心配になってくる。それでも、生身の女の子に比べると、どこか妖精めいている---きっと、それが幽霊というものなのだろう---鈴美の雰囲気は、幾分花京院の気分を楽にしてくれた。
 「君が、君を殺した殺人鬼を探して欲しがってると聞いて、会いに来たんだ。」
 「あなたは露伴ちゃんのお友達?」
 「友達と言えるほど親しいわけじゃない。でも僕と彼は、ある意味仲間のようなものだと言える。」
 「・・・あなたも、スタンドとかいうものを使えるの?」
 声を低めて、遠慮がちに鈴美が訊いた。察しの良い子だと思いながら、花京院はうなずいて、驚かせないように静かに、ハイエロファントグリーンを、自分の後ろに実体化させる。
 鈴美の視線は動かなかったけれど、そばにいた露伴が驚いて、ちょっと体を後ろに引いた。
 「露伴ちゃんにはちゃんと見えるのね。あたしは感じるだけだけど。」
 初めて見るものは、何でもスケッチしておきたくなるのか、目に焼き付けるように、露伴がハイエロファントを凝視している。花京院はハイエロファントを出したまま、露伴の好きにさせておいて、また鈴美の方へ向き直った。
 「いやなことを訊くんだが、君が殺された時、犯人は何か、特別なことをしたりしなかったかい。」
 「特別って?」
 鈴美が、ちょっと眉を寄せて、首を傾げた。億泰や仗助の年頃なら、それだけで恋に落ちそうな、愛らしい仕草だった。
 「たとえば、手品みたいに物を動かしたり、触れもせずに君を身動きできなくしたり。」
 承太郎の言っていた、遠隔操作のできる---花京院の、ハイエロファントのように---タイプのスタンドであるかどうか、確かめたかった。
 鈴美はすぐに首を振った。
 「わからないわ。あたしは、背中を切られて殺されたから、犯人の顔はみていないの。暗かったし、あっという間だったから、何が起こったかしばらくわからなかったくらい。」
 とても、痛かったけどと、唇を引き結んで、鈴美は付け加えた。
 花京院は、彼女の殺人事件の記事の内容を思い出して、自分の痛みをこらえるように、奥歯を噛んだ。
 あっという間だった、何が起こったかしばらくわからなかった、同じだと思って、目の前に、エジプトの夜の色がいっぱいに広がった。血と水が混じり合って流れ出す音が、どこかでかすかに聞こえた。足元から、体温が逃げてゆく。視界が、いきなりぐにゃりと歪んだ。
 「おいッ!」
 露伴がちょっと叫んで、傾きかけた花京院の体を慌てて支える。露伴の腕に寄りかかるのは無理そうだと、花京院は咄嗟にハイエロファントを自分の中に引き戻すと、内側から体を支えさせた。
 「大丈夫か。」
 鈴美も心配そうに、花京院の方へ駆け寄ろうとしている。
 「すまない、ちょっとめまいがしただけだ。大丈夫だ。」
 露伴の肩に腕を回して、あまり体重を掛けないようにしながら、花京院は体勢を立て直した。
 水にでも浸ったように---あの時のように---、全身が冷たい。しびれたように、まだ濁っている意識を、元に戻そうと頭を軽く振る。
 視界がはっきりすると、驚くほど近くに鈴美がいた。
 「・・・あなた、ここにいると、引きずられてしまうのね。」
 露伴に肩を借りている花京院の頬に、鈴美が手を伸ばしてきた。血の気が失せた花京院の頬よりも、もっと冷たい、凍るような指先だった。
 「そうかも、しれない。」
 思わず、みぞおちに掌を当てていた。穴は開いていない。とっくにふさがっている。そこから血が流れることもない。それでも、痛みだけがまだ残っているような気がして、花京院は制服の前をぎゅっとつかんだ。
 露伴はよろけながらも、案外しっかりと花京院を支えて、本気で花京院のことを心配しているらしく、花京院の白い顔を覗き込んでくる。
 「もう行った方がいいわ。あなたは、あまり長くここにいてはいけない人だわ。」
 露伴に目配せしながら、鈴美が言った。相変わらず可愛らしい声だったけれど、口調は、諭すようにきっぱりとしている。
 有無を言わせず、鈴美は先に立って歩き出すと、露伴と花京院がやって来た道をたどってゆく。
 「振り向いちゃダメよ。露伴ちゃん、気をつけてね。」
 「わかってるよ、初めてってわけじゃないんだ。いちいち指図するのはやめてくれ。」
 露伴の肩を借りている花京院は、ふたりのそんなやり取りを、少し遠くに聞いている。振り返ってしまえば、もう二度と承太郎に会えないのだと、なぜかそれが、ひどく甘い誘いのように感じられて、体の痛み---現実かどうかは、ともかく---に引きずられているのか、やけに後ろ向きな自分の気分に、花京院は薄い笑いをこぼしていた。
 なまあたたかい空気の層をくぐり抜けて、耳の辺りで誰かががやがやとうるさかった気がしたけれど、結局花京院は、小道を完全に抜け出すまで、顔さえ上げなかった。
 表通りに出ると、もう空はすっかり真っ暗になっていた。
 花京院はまだ露伴に支えられたまま、コンビニエンスストアの壁が透けて見える鈴美を見やって、やっとの思いで微笑んで見せる。
 鈴美は、淋しそうな顔をしていた。
 「ごめんなさい、あたしのせいで引きずられたのね。あなたは、こちら側の人じゃないのに。」
 露伴から離れて、ひとりで立つと、花京院は必死で背中を伸ばす。そうすると、肩の後ろで、骨の砕けた音が聞こえたような気がした。
 「君のせいじゃない。僕がまだ、しっかりしてないせいだ、きっと。」
 露伴は、鈴美と花京院の会話の意味がわからずに、何事かと眉をしかめてふたりを見ている。それを気遣う余裕もないまま、鈴美が続けた。
 「何かが、あなたをちゃんとつかまえてるわ。あなたはちゃんと、そちら側の人よ。心配ないわ。」
 さっきまでの、歳相応の幼さが消えて、微笑む鈴美はひどく大人びている。体温の戻りつつある花京院の頬に、鈴美がもう一度だけ触れた。
 「露伴ちゃん、また会いに来てね。」
 透けたまま、鈴美が、花京院の中をすり抜けて行った。
 手を振りながら消えてゆく鈴美を、露伴が最後まで見送っている。
 薬局とコンビニエンスストアは、またすき間もなく並び建って、あの小道は跡形もない。そこに、露伴と花京院は、何となく立ったままでいた。
 「迷惑をかけてすまなかった。こんなことで気分が悪くなるほど、やわじゃないつもりなんだが。」
 ふんと、露伴が肩を揺する。
 スケッチブックを、わざと大袈裟な仕草で抱え直すと、いかにも忌々しいという態度で、腕時計で時間を確かめた。
 「ああ、もうこんな時間じゃないか。まったく、今日はもう仕事にならない。ぼくはもう帰る。」
 まだみぞおちの辺りを押さえたまま、花京院は何度もうなずいた。
 「そうしてくれ、僕も帰る。」
 花京院がそう言い終わる前に、露伴はもう目の前の道路を横切り始めていた。
 振り返る様子のなさそうな露伴の背中に、花京院は苦笑を混ぜながら、少し大きな声で、ありがとうと礼を言う。
 どんどん小さくなる露伴の背中を、最後まで見送らずに、花京院は、その場でゆっくりと目を閉じた。
 ほんとうに気分が悪い。腹の中に突き抜けた拳の感触が、はっきりと甦っている。
 ここへ来る前に、ちゃんと戻って来いと承太郎が言ったのは、あれは案外正しかったのだと、鈴美の言っていた、こちら側とあちら側というのを、花京院は冷えた頭の中で考えている。
 もう少しここにいれば、きっと気分はましになるだろう。ホテルまで、歩いて15分とかからない。何なら、ハイエロファントを体の中にひそませておけばいい。完全に気を失いでもしない限り、歩くくらいのことはできるはずだ。
 街灯と店の照明で充分に明るいはずなのに、また目の前が薄暗くなる。ああ、まずいなと、しびれている指先を見下ろして思った。
 「いい加減にしてくれ、ぼくは忙しいんだ。」
 いきなりぐいっと腕を引かれ、そちらに体を傾けると、唇をへの字に曲げた露伴がいる。
 ぼんやりと、帰ったはずじゃなかったのかと、そう思ったけれど舌が動かない。
 「こんなところで倒れられて、後でぼくが仗助たちになんて言われると思う? ぼくの身にもなってくれ。」
 花京院をにらみつけて、かん高い声で、露伴がわめいていた。
 心配して、結局戻って来たらしい。鈴美が露伴ちゃんと呼んだ時の、ひどく照れくさそうだった露伴の表情を思い出して、花京院はうっかり微笑んでいた。
 「歩けるのか? 無理なら車を・・・空条承太郎に電話をして、迎えに来てもらうぞ。」
 露伴の厳しい口調が、承太郎の名前の部分だけ、どうしてかひどく物柔らかに聞こえた。
 ああ、そうしてくれ、承太郎が、待ってるんだ。
 露伴の肩にまたすがって、花京院はそう言ったつもりだった。
 あの世とこの世にまだ漂っている意識が、花京院のところへ戻って来ない。自分の冷たい体が、露伴の体温で、かろうじて形を保っているように、花京院は感じていた。
 けれど、花京院を、ほんとうにこちら側に引き止められるのは、承太郎だけなのだ。
 「ああ、まったく! 頼まれただけだっていうのに、なんでぼくがこんな目にッ! この借りはしっかりネタで返してもらうぞッ!」
 露伴が、飽きもせずに文句を繰り返している。その声に引かれて、少しずつ現実を取り戻しながら、花京院は露伴の肩に回した腕に、無意識に力を込めていた。
 露伴は、承太郎が車で駆けつけるまで、どうしてかうっすらと微笑んだままの花京院を、細い腕にしっかりと抱きかかえたままでいた。


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