雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

6) 乾いた瞳B


 承太郎は、自分を待っていた露伴から、奪うように花京院を引き取って、すまなかったと言葉短かに告げると、もうほとんど自分では動けない花京院を車に押し込んだ。
 まだそこに立って、慌てた素振りの承太郎を見送っている露伴に、車から振り返ることも思いつけず、ぐったりと助手席の中に手足を伸ばしている花京院の、くたりと垂れた前髪に触れる。
 青白い顔に汗が浮いて、白に近い唇の色が、承太郎に、あの長い眠りを思い出させた。
 「大丈夫か? 何があった?」
 車なら、ホテルまで数分しかかからない。駐車場に、少しばかり危ない速度で車を滑り込ませ、承太郎はもう人目を気にしている余裕もないまま、車から引きずり降ろした花京院を、胸の前に抱き上げる。
 エレベーターに乗り込むまでは、奇異な視線を少しばかり浴びたけれど、扉が静かに閉まってしまえば、もう後は部屋まで一直線だと、承太郎は、もう一度花京院をしっかりと抱え直す。
 「・・・何もない。あの、幽霊の彼女に会って、気分が悪くなっただけだ。」
 「何かされたのか。」
 「違う・・・。」
 腹の辺りに腕を乗せたまま、案外としっかりした声で花京院が応えるのに、承太郎はほんの少し安心して、エレベーターが止まらないことを確かめた後で、そっと花京院の髪に頬をすりつけた。
 血の気のない花京院は、見た目のまま手足が冷たく、毎朝、ドアの内側へだけ足を踏み入れる花京院の部屋へ運び込んで、ベッドの上に横たえた時、やわらかな枕の感触にわずかに安堵したように、花京院が食い縛っていた唇をゆるめて、ほうっと大きく息を吐いたのが、承太郎の耳に届いた。
 「大丈夫か。」
 花京院は、まるで体をかばうように、背中を丸めて少し手足を縮めている。冷たく湿った頬を撫でると、承太郎の指先のあたたかさに、喉が少し伸びた。
 「心配いらないよ。そのうち元に戻る。僕は、あそこにはあまり長くいられないらしい。」
 ようやく、少し落ち着いたのか、承太郎の方へ寝返りを打って、花京院は自分で上着の襟と前を少し開く。
 シャツの首元に指先を差し込んで、天井を見上げたまま、吐き気か何かに耐えるように、時折目をぎゅっと閉じる。
 「どういうことだ。」
 それまで、ベッドのそばへ立ったままだった承太郎は、やはりすぐには立ち去る気にはなれず、花京院の話を聞くために、ベッドの端にそっと腰を下ろした。
 花京院の唇の端に、苦笑が浮かぶ。
 幽霊とやらとの邂逅を思い出しているらしいその表情に、承太郎はかすかに不安を覚えた。
 「僕はまだ、死人に近すぎるんだ。あそこはあの世とこの世の境で、長くいるとあちら側に引きずられるらしい。それで気分が悪くなった。」
 青い顔で、淡々と、正気かどうかわからないことを言う。エジプトへの旅の途中、不思議なことには山ほど出会った。今さら幽霊の存在を否定する気もないけれど、死者の国と生者の国云々という類いの話を、こんな花京院から聞くのは、悪い冗談のようだ。
 死人に近いという言い草が、何より承太郎の気に障る。幽霊と一緒にされてたまるかと、自分のことのように、みっともなく憤っていた。そうして憤る自分をたしなめながら、承太郎は、一緒に行かずに、花京院をひとり行かせた自分に、一番腹を立てているのだと気がついて、見えないように唇を噛んだ。
 過保護に守られることなど、花京院が望んでいるはずもなかったけれど、それでも、できるならすべてから守りたいと、そう思う。いっそのこと、自分だけが知っている場所に閉じ込めて、もう誰の目にも触れさせないことはできないだろうかと、らしくもない下らないことを考える程度に、承太郎も動転していた。
 腹に穴を開けて、血にまみれていた花京院は、もうずっと以前に消えてしまっている。あの傷は完全に癒えていると、SPWの医者は言った。けれど、体の傷が回復したことが、つまり元通りになったということではないのだと、だるそうに、間遠に呼吸している花京院を見下ろして、あの頃の花京院と何ひとつ変わっていないように見えて、何かが確実に変化してしまっている花京院を、承太郎はそこに見つけていた。
 あの時死んだ花京院は、そこから承太郎が引きずり戻した花京院は、あの花京院ではないのだろうか。まだ17の誕生日も迎えずに、誰もが未来を信じて疑わないその年頃に、一度無残に散り去ってしまった、これはその破片を集めて継ぎ合わせた、花京院だった誰かに過ぎないのか。
 違う、と、頭の中で声がした。
 これは花京院だ。あの花京院だ。傷を増やして、あれから歳も取らずに、時折頼りなくはかなげに見えるのは、それは花京院が変わったからではない。変わったのは自分の方だ。10年という時間を経て、17の自分から遠く離れてしまったのは、承太郎の方だ。花京院の目に映っているのは、あの17の承太郎だ。もう30になろうとしている承太郎が、あの時と同じ目で花京院を見ているはずもなく、それを、敏感に感じ取らずにいる花京院であるはずがなかった。
 あの世とこの世というのが比喩ではなく、現実に存在するというのなら、承太郎は確実にこの世にいて、花京院はまだ、あの世の近くをさまよっている。あちらへ行こうとした、あるいは逝ってしまっていた花京院をこちら側へ引き戻したのは、確実に、あの時は誰にも言えずに花京院に恋していた、17の承太郎だ。
 若さゆえに、命の重さというものを知らずに、誰かのために死んでもいいと、そう思うことはあるだろう。けれどあの時、確かに承太郎は思った。冷たくなった花京院を抱いて、花京院がいないなら、DIOから守った世界になど価値はないと、そこで生き続ける意味がないと、そう、泣きながら思っていた。自分が生き延びたことを、とても卑怯だと感じて、自分が花京院を殺したのだとまで、一瞬考えた。
 あれほどの執着は、あれきり一度もない。
 だから、死ぬなと、叫び続けた。あの10年、誰のためでもなく、ただひたすらに自分のためだけに、承太郎は、花京院が目覚めることを祈って、願った。
 花京院をこちら側に繋ぎ止める、想いの強さだけなら、世界に向かって胸を張れる。他の誰にも打ち明けることのできない想いだったからこそ、その想いの向かう先の花京院が目覚めてくれることを、目覚めて、承太郎の注ぐ言葉を受け止めてくれることを、心底願った。
 承太郎は、まだ、その言葉を告げられずにいる。
 10年というのは、想いが風化してしまうには、人が人を忘れてしまうには、充分な時間の長さだ。けれど自分は、片時も花京院のことを忘れたことはなかったと、承太郎はまた、ひとりの物思いに沈み込んでいた。
 仰向けになっていた花京院が、不意に承太郎の方へ寝返りを打ってくる。小さなシングルベッドに、すき間を保つ余裕などなく、花京院の体が、腰掛けている承太郎に触れた。
 承太郎は、初めて真っ直ぐに花京院を見下ろして、花京院が、まだ冷たい手を自分の手に重ねてくるのを、目を見張って見守った。
 人前では、絶対に襟をゆるめたりはしない花京院の、今は軽く開いた襟元から白いシャツが覗いていて、その白さがやけに目に刺さる。あの頃は、ふたりでいれば、いつだって剥き出しの膚にじかに触れ合っていたのだと、また承太郎は思い出していた。
 ジョースターさんがと、花京院が、うっすらと微笑みながら唇を開いた。
 「僕がまだ死んでない、ちゃんと生きてるって、SPWの医師団に君が食ってかかったって、殴ったりしないように止めるのが大変だったって、聞いたよ。」
 花京院の掌に、わずかに力がこもる。それに応えるように、形の良い指先に触れながら、承太郎は、とりあえず笑って見せた。
 「ジジイのヤツ、くだらねえこと言いやがって。」
 はは、と声を立てて、花京院が笑う。
 「・・・君がいなかったら、僕は今頃とっくに灰になって土の下だ。」
 冗談めかして言いながら、声音が、少し湿りを帯びた。承太郎は、それを間違いなく聞き取って、不意に笑みを消すと、花京院の手を自分の方へ引き寄せる。そうして、自分を見上げている花京院を見返して、なるべく静かに、平たい声を出した。
 「その方が、良かったか。」
 傷つけるために訊いたわけでも、傷つくために知りたいわけでもなかった。ただ、今の花京院をもっとよく知るため---あの頃だって、ろくに知ってなどいなかった---に、自分たちに関る事実のひとつとして、確認しておきたいと思っただけだった。
 花京院を蘇生させたのは、少なくとも、そうなれと望んだまま行動したのは、ただの身勝手ではなかったのかと、今承太郎は思う。何が正しくて、何が間違っているのか、10年前はとても単純だった。けれど今は、そんな単純さはどこにもなく、すべてがもつれ合ったまま、ふたりは、繋がっているかどうかさえわからない糸の束の端を、必死でたぐり寄せている。
 花京院が、ひどく苦しそうに口元を歪めて、けれど承太郎から視線はそらさなかった。今にも泣き出すかと思ったのに、その瞳は乾いたまま、ようやく押し出すように言葉を紡ぎ出す様子が、承太郎には痛々しく見える。
 「・・・僕には、わからないよ、承太郎。」
 息を飲み込むような間を空けて、花京院がそれだけ言うと、ひとつ仕事を終えたとでも言うように、するりと承太郎から視線を外した。
 「そうか・・・。」
 幼い激情は、もうとっくに卒業してしまっている承太郎は、取り繕うための小さな笑みをひとつ浮かべて、傷ついていると花京院に悟らせないために、ここから立ち去ることを考え始めている。さり気なく花京院の手をベッドに戻して、そっとそばを離れようとした。
 「承太郎。」
 軽く腰を浮かせた承太郎の手を、また花京院が取って、まるで引き止めるように、ベッドから体を持ち上げた。
 ひどく懐かしい角度で、視線がぶつかった。熱を分け合った夜に時折、離れがたくて、眠りに落ちる時間を先延ばしにした。そのことを、花京院はどれほど鮮やかに覚えているのだろうかと、承太郎は優しさだけを込めて、花京院に向かって目を細める。
 引かれた腕を外すことはせずに、何も言わずに花京院を待った。
 「もう少し、ここにいてくれないか。」
 心細い声が震えていて、それを補うように、承太郎の手を強く握る。ほんとうにまだ、あの時の花京院のままなのだと、まだ深みの足りないその声が、何よりも幼さを示していて、こんな時にはひそやかになる響きに、ただの少年の花京院が顔を覗かせる。誇り高さも、冷静さも、大胆さも、強さも、すべてをむしり取った、生(き)の花京院がそこにいて、この手を離せば、もう永遠にこの花京院が失われるのだと、奇妙な考えがどこかに湧いた。
 承太郎は、取られた手に引かれるように、ゆっくりと体を前に倒した。
 「まだ、寒いんだ・・・。」
 花京院の求めることを、正しく読み取って、承太郎は、長いコートの裾に気をつけながら、ベッドに膝を乗り上げた。
 狭いベッドではそうなることが必然だから、花京院を促して、その背に自分の胸をぴったりと重ねて、承太郎は、薄い枕に自分の曲げた腕を乗せ、そこに頭を乗せた。
 眠るためではなく、ただ体温を与えて、おそらくそのまま眠ってしまうのだろう花京院の、寝息の規則正しさを見守るために、承太郎は、ひとつベッドに、花京院と一緒に横たわった。
 制服を隔てて、花京院はまだ確かに冷え切っていて、手足を絡めるようなことはしなかったけれど、承太郎は、とりあえず花京院の腰に腕を回した。
 目の前に、わずかに動けば触れられる位置に、花京院の青白い頬があった。
 血の気のない首筋や耳朶のせいで、そこに下がるピアスが、いっそう赤い。
 膚に触れることはなく、けれど自分のぬくもりで、花京院をこちら側に引き止められるように、いずれは、花京院自身が、こちらにとどまる理由を思い出してくれることを祈りながら、承太郎は、ただ静かに花京院を抱いている。
 承太郎の広い胸に包まれて、花京院は、ようやく血の色の戻り始めた頬の辺りを、自分の制服の肩でごしごしとこすった。
 「ありがとう、承太郎。」
 目を閉じて、なるべく何気なく、けれど、それはただひとつのことに対する感謝ではなくて、ありとあらゆることへのそれなのだと、しんと響いた声音に、きちんと含ませた。
 あの頃とは違う。こすり合わせる皮膚が、言いたいことのすべてを伝えてくれたと錯覚できた、あの頃とは違う。けれど、伝え合うのに、言葉を尽くす必要はないふたりだった。
 承太郎は、花京院にいっそう近く体を寄せて、長い足も、なるべくぴったりと重ねた。
 「もう、寝ろ。」
 短い言葉が、きっぱりと、けれど優しく促す。
 花京院が、目を閉じたままうなずいた。


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