雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

6) 乾いた瞳C


 事態が、いやな方向に急変したのは、水曜の午後遅く、もう夕方になりかけている頃だった。
 仗助と億泰によって、杜王町に住むスタンド使いたちに非常召集がかかり、承太郎と花京院も、透明な赤ん坊を連れたジョセフも、そう言われた通り、例の幽霊の小道の前へ集合した。
 サーフィスの間田、髪の毛のスタンド使い由花子、シェフをしているイタリア人のトニオは、花京院は初対面で、けれど召集をかけた仗助と億泰の暗い面持ちに、わざわざそばに行って声を掛ける気にもならず、花京院は、無言でたたずむ承太郎のそばで、ジョセフの腕に抱かれている赤ん坊をあやしていた。
 いつもの陽気さを忘れたように、むっつりと唇を引き結んでいる億泰の足にしがみついているのが、もうすっかり人間の姿ではなくなっている、肉の芽に心身を破壊された億泰の父親だと、承太郎が小さく花京院に耳打ちする。スタンド使いにしか見えないという億泰の父親のその姿を、まだ正視できずに、そんな自分自身に、花京院は眉をひそめた。
 康一と露伴が揃ったところで、幽霊の鈴美が、飼い犬のアーノルドをともなってその透けた姿を現し、仗助と億泰が、声を掛けた全員がこの場にいることを確かめてから、おもむろに口を開いた。
 「重ちーが、いなくなった。」
 同じ学校に通っている、間田と康一と由花子が、そう言った仗助の方を見る。
 「中等部の2年坊なんだけどよォー、オレの兄貴みたいによォー、わらわらちっこいのがいっぱいいるハーヴェストっつースタンドでよォー。」
 いつもよりも、ずっと肩の位置を斜めに低くして、億泰がひどく不機嫌な声音で付け足した。本名は矢安宮重清というその少年と知り合ったいきさつを、億泰が、いつもよりも要領悪く説明するのを、皆辛抱強く聞いている。億泰の声が、時折聞き取れないほど細くなるのに、康一が痛ましげな視線を投げかける。
 承太郎もジョセフも、眉ひとつ動かさず、時折目配せを交わしながら、億泰の話を聞いていた。
 「そんでオレら知り合ったんだけどよォー、そのハーヴェストが今日よォ、1匹だけよろよろ血ィ流してオレらんとこ来て、そんでいきなり消えちまってよォー。」
 「中等部まで行って探したが、重ちーはどこにもいねえ。オレたちにも何が起こったのか、さっぱりわからねえ。」
 顔を背けて、血の気の失せた唇を噛んでいる億泰を、いたわるように仗助が後を引き取る。
 その場にいる全員が、仗助と億泰を見て、けれどまだ何も言わない。
 仗助が、ようやく鈴美の方を見た。
 「アンタ、殺された人の魂が飛んでいくのが見えるんだろ? 重ちーのこと、見なかったか。」
 制服のポケットから、何度も逡巡した後で、ようやく仗助が1枚の写真を取り出す。どこで手に入れたものか、丸顔の目の大きな少年を鈴美に示して、そして全員が固唾を呑んだ。
 鈴美は、写真を受け取った瞬間に目を見張り、2度ほど仗助を見て、それから表情を変えないまま、硬い声で答える。
 「間違いないわ、この子は死んでるわ・・・。」
 一斉に驚きであごを引いて、みんな何か言おうと唇を動かしたけれど、声を発した者は誰もいない。
 誰の目にもはっきりとわかるほど、億泰がひとり肩を震わせていた。
 「重清くんは、あいつに出会って、そして殺されたのよ。」
 あいつ、というところだけ、鈴美の声のトーンが変わる。それを聞き取ってしまった花京院は、承太郎の背中の陰で、こっそり眉を寄せる。
 鈴美が説明している間、静かな動揺が全員に広がって、そして、どんなことも皮肉らずにはいられないはずの露伴さえ、その少年が殺されたらしいということに異論は差し挟まなかった。
 この街に、ずっとおそろしい殺人鬼がひそんでいるのだという鈴美の話に、由花子が青い顔をして、鳥肌の立った自分の腕をそっと撫で上げる。
 イタリア人らしい気遣いで、トニオが、そんな由花子に心配そうな目を向け、けれどすぐに、誰よりも強く狼狽を剥き出しにしている億泰に、同じ視線をそのまま戻した。
 皆、それぞれに殺人鬼の話を受け取って、付き合いのある隣人や、クラスメートや、古い知り合いの顔をひとつびとつ思い浮かべ、心当たりはないかと考えている。平凡で穏やかな生活が、知らないところで破壊されていたという恐怖に、その場の空気が凍りついていた。
 この場にいる誰とも親しいわけではない間田は、こんな話に、わざわざ呼び出されて巻き込まれて迷惑だと、肩をすくめて眉間にしわを寄せている。そんなポーズを取ることで、目の前に迫る恐怖をごまかそうとしても、足は正直にかたかたと震えていた。
 すぐ隣りで、康一が、自分の姉が鈴美のような目に遭うことを想像して、こんな身近に、冷酷な殺人鬼がいるという事実に、泣き出しそうに顔を歪めているのを見て取ると、近頃、何となく気の許せる友人だと思い始めた康一の、今にも崩れそうなその肩を支えようと、間田は遠慮がちに腕を伸ばした。
 鈴美がようやく話し終えたところで、仗助が、全員の顔を見渡して、凍りついたような空気の中、もう一度、重清少年が姿を消した状況を説明する。 
 わずかの時間に、まるで空気に溶けてしまったように、姿を消してしまった。教科書も何もかも、教室の机の中身はそのままだった。ほんとうに、突然かき消えてしまったのだ。仗助と億泰の目の前で、彼のスタンドは血を流して消えた。一体何なのか、ボタンをひとつきり残して。それきり、重清少年の姿を見た者はいない。彼の両親は、警察に捜索願いを出した。
 スタンドは、スタンドでしか攻撃できない。そして、スタンド同士は引かれ合う。そこまで言って、仗助はあごを引いてみんなを見た。
 康一が、震える声で、仗助の言わなかった部分を続けた。
 「つ・・・つまり、その・・・は、犯人はスタンド使いってこ・・・こと?」
 承太郎とジョセフが、初めて眉の端を上げる。花京院とともに、3人の視線が、その場で絡み合った。
 「どうやら承太郎、わしらも動かねばならんようじゃの・・・。」
 承太郎の代わりに、花京院が沈痛な面持ちで、ジョセフに向かってうなずいた。
 重清少年のスタンド、ハーヴェストが持って来たというボタンを見せろと、承太郎が仗助に手を差し出した。
 仗助が見せたそれは、どこといって特徴のあるボタンではなかったけれど、少なくとも、学生服についているようなボタンではなく、ハーヴェストがわざわざ運んできたというのなら、その犯人の服から引きちぎって来たものかもしれないと、承太郎はそう推測した。
 「SPW財団に調べさせてみよう。くっついてた服のブランドやメーカーはわかるかもしれん。」
 そうなれば、犯人を特定する手がかりが、何かつかめるかもしれなかった。
 死体すらなく、殺人の手がかりは消え失せていて、今はこのボタンだけが、犯人に繋がるかもしれない証拠だ。これは重清少年の遺言だと、承太郎は掌の中に、そのボタンを握りしめた。
 「は・・・話が済んだんならよ・・・お・・・オレは帰るぜ。」
 億泰が、不意に斜めに傾けていた肩を回して、足にしがみついていた父親に向かってあごをしゃくる。
 皆に背を向けて、もう歩き出しながら、
 「な・・・なんか・・・妙な気分だぜ・・・イ・・・イラついてよ。」
 明らかに、泣くのをこらえているらしい億泰の背中を、その場で見送る皆の表情も、それぞれに暗く、一際深い困惑を、仗助はその口元に刻んでいる。
 重清少年を、じかに知っている者として、そして、かき消えたらしいその場にいた者として、それでも、彼が死んだということがまだ信じられずに、怒りなのか悲しみなのか、自分の中にある感情すら、見極められない。
 そんな自分に腹立たしい思いをして、そして今億泰も、まったく同じ気分でいるのだろうと、仗助は、父親と一緒に、振り向きもせず去ってゆく億泰の、震える背を見ていた。
 この街のどこかに、殺人鬼が住んでいて、そして今日、少年がひとり消えた。跡形もなく、血の一筋もなく、彼自身のものではないボタンひとつだけを残して、少年がひとり消え失せた。
 怖ろしい事実が、現実になって、目の前に立ちはだかっている。
 この街が、皆の住むこの街が、ひそやかに、むごく、確かに侵されている。何とかしなければと、言い合わせたように、その場に残った全員が互いを見交わした。
 「あたしが知らない間に、とんでもない事が起こってたのね。」
 億泰の背中を見送って、そうして、康一の方をちらりと見ながら、由花子が静かに言った。
 まだ億泰を見送っているトニオは、訛りのある、けれど流暢な日本語で、沈痛な声を出した。
 「ワタシハ、オ店ニ来ルオ客ヲ、注意シマショウ。」
 仗助がそれにうなずいたのを合図にして、間田は、肩に掛かる髪をかき上げながら、誰にも声を掛けずに立ち去ろうとする。
 「スタンド使いとスタンド使いはいずれひかれ合う。ボクは会いたくないけどね・・・。」
 肩をすくめて小さく言ったそれを、聞き取った康一だけが、間田を見送る。間田は、康一に向かって、じゃあと目顔で言うと、自分が今言ったことを少し恥じたように、慌てて前を向いて歩き出した。
 不気味な何かが、街を覆っている。それはもう、存在を隠せないほど厚く、街を覆い尽くしている。鈴美が気づかせてくれた、その不気味なものの正体を、見極めなければならない。見極めて、そして、取り除かなければならない。街に、もう一度穏やかでささやかな、平凡な日常を取り戻すために。
 「これでみんな動き出すってわけか。」
 珍しく皮肉めいた口調ではなく、露伴がぼそりと言った。
 鈴美が、怯えたように、空を見上げて、胸の前で掌を握りしめる。
 もう何もかもが変わってしまった。恐怖と憤りと怒りと悲しみを胸に、知らなかった時には、もう誰も戻れない。複雑な心持ちのまま、コンビニエンスストアの前から、それぞれが、別々の表情を浮かべて、別々の方向へ歩き出す。
 承太郎とジョセフと一緒に立ち去ろうとした花京院を、鈴美が呼び止めた。
 「もう、大丈夫?」
 またわずかに首を傾けて、愛らしい仕草で鈴美が訊く。
 足を止めた花京院に気がついて、承太郎も振り返り、ジョセフもこちらを向いている。
 鈴美は、花京院の肩越しに、ふたりに向かって軽く会釈をした。
 「大丈夫だ。今日は気分は悪くない。」
 花京院が微笑んでそう言うと、鈴美も笑って、それから、またふっと淋しげな表情に戻る。
 この少女がはかなく見えるのは、幽霊だというせいだけではないのだろうと、彼女を襲った死に至る痛みを思って、花京院はひとり胸を痛めた。
 呼び止めたのに、特に理由はなかったのか、それきり鈴美は言葉を継がず、けれど何か言いたげに、花京院を見ている。
 承太郎やジョセフを待たせるのに気兼ねしながら、けれど鈴美を置いてすぐに去る気にもなれず、何かないかと、花京院は言葉を探した。
 まるで、悩みを打ち明けるように、何度もためらう素振りを見せて、ようやく鈴美が唇を開く。可愛らしいその動きとは裏腹に、声は、ひどく悲しげだった。
 「あなたは、あたしにとても近いのね。どうしてかしら、生きてる人なのに。」
 鈴美にそう言われて、自分ももしかして、体が透けそうに生気がないのだろうかと、花京院は思わず自分の足元に目を落とす。茶色の革靴の爪先も、折り目のきちんと入ったズボンの裾も、ちゃんと見えた。
 花京院は、腹の傷跡に掌を当てて、鈴美に向かって、ひどく優しく微笑んでいた。
 「それは多分、僕が一度死んだ人間だからだ。」
 思い切ったように、きっぱりとそう言った花京院を、鈴美が遠くを見るように目を細めて眺めた。その瞬間、体の中を何かが突き抜けて行ったような、そんな気がして、花京院はいっそう強く腹の傷跡を押さえる。
 あの時、背中まで見事に貫かれた、あの血まみれの穴を、今鈴美が見ている。細めた目に、それが映っている。
 花京院は、深呼吸をひとつした。
 「・・・でも、あなたは今生きているわ。」
 あたしと違って、と小さく付け加えてから、まるでそれが挨拶代わりのように、鈴美はゆっくりと消えて行った。
 「行くぞ、花京院。」
 まだそこに、鈴美の気配を追っていた花京院の背に、承太郎が静かに呼びかける。
 ああとうなずいて、承太郎とジョセフの方へ肩を回しながら、花京院は無意識に、そこにもうあるはずのない、ぽっかりと空いた血まみれの穴を、自分の腹に探っていた。


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