雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

7) その一瞬に@


 「あ、こんにちは、花京院さん。」
 交差点の信号待ちに、後ろから声を掛けられて振り向けば、珍しくひとりきりの康一がいた。
 「やあ、康一くん。」
 自分よりもずいぶん背の低い康一が、物静かな仕草で隣りに並んでくるのを見下ろして、花京院は作り笑いではない微笑みを浮かべる。
 康一と会うのも久しぶりだ。仗助とジョセフによれば、例の髪の毛のスタンドを使う由花子---仗助に言わせれば、プッツンだという---と、最近付き合い始めたらしく、そのせいで前以上に付き合いが悪いと億泰がこぼしていると、仗助が苦笑いしながら言っていたことを思い出している。
 そのことを言えば、自分の噂をしていると気を悪くするかと、花京院はまだ何も言わずにいた。
 「あれから、何か変わりありましたか。」
 見上げて、康一がちょっと心配そうに訊くのが、例の鈴美と重清少年を殺した殺人鬼の行方の話だとわかって、花京院は途端にちょっと顔を曇らせる。
 青に変わった信号に顔を向けて、ふたり並んで歩き出しながら、花京院は辺りをはばかって、少し声を低めた。
 「まだ、特に何もないよ。SPWからの報告でも特に得るところはなかったし、承太郎とふたりで、この街の洋服屋の類いの店には全部回ってみたけど、そっちも残念ながら何の収穫もなしだ。」
 そうですかと、康一が、がっかりした顔を隠しもしない。
 分厚い電話帳をめくって、街中の服飾店の長いリストを作って、承太郎と手分けをして、重清少年の残したボタンに見覚えがないかと、1軒1軒尋ねて回ったけれど、犯人に繋がりそうな手がかりは何も得られなかった。隣接した市にも範囲を広げ、それもまた、うんざりするほど長いリストを、気長にひとつひとつ当たって行った。そちらも同様の結果で、承太郎の苦い顔を思い出して、花京院も軽く唇を噛む。
 15年も、証拠ひとつ警察に掴ませずに逃げおおせている殺人鬼だ。そう簡単に見つけ出せると思ってはいないにせよ、地道な努力が徒労に終わるというのは、体にも、気負っている気持ちにもこたえる。
 コロンボみたいには行かねえもんだなと、名前のすべて消された、花京院の作った長いリストを手に、承太郎が苦笑いした。
 「今日は、承太郎さんは?」
 信号を渡り切ったところで、何となく立ち止まって、康一が訊いた。承太郎のことを考えていたのを見透かされていたようで、花京院は見つからないように、口元をわずかにゆるめた。
 「承太郎は、今日は部屋に閉じこもって、論文の下書きをしているよ。」
 「花京院さんは今日は何してるんですか。」
 「僕はひとりで、例のボタンの聞き込みだ。」
 花京院は、制服のポケットから取り出した小さなメモを読み上げるように、目の前にかかげた。
 「仗助くんに言われて、洋服屋以外のところを当たってみることにしたんだ。」
 「洋服屋以外のところ?」
 メモの裏側から、何が書いてあるのか透けて見えないかと、康一がちょっと背伸びをして目を凝らす。
 メモの紙片と一緒に、小さなビニール袋に入ったボタンを手に、花京院が書いてある文字を読みながら、ちょっと考えるような表情を浮かべた。
 「この通りの・・・ムカデ屋っていう靴屋が、服の直しをやってるって教えてもらったんでね。他にもいくつか、似たようなことをやってる店を、仗助くんに教えてもらったから、それを全部当たってみるつもりだ。」
 「ムカデ屋ならあっちですよ。」
 ちょっと明るい顔で、康一が自分の後ろを指差す。まるで案内するように、先に立って歩き出すその小さな背中を、花京院は笑みを浮かべて追いかけた。
 仗助や億泰とは違い、常に控え目で礼儀正しい康一に、花京院は、仗助たちを好ましいと思うのとはまた違う意味で、好感を抱いている。承太郎が、康一だけは呼び捨てにすることがないのも、きっと同じような理由なのだろうと、花京院は自分の前を歩く康一の背中を微笑ましく見つめた。
 横断歩道をもうひとつ過ぎたところで、康一が足を止めた。
 ムカデ屋は、そう想像していた通りの小さな構えの店で、きれいに磨かれたウィンドウの中に、しっかりとした作りの靴ばかりが並んでいる。茶色の、爪先があまり細くない革靴にちょっと視線を奪われてから、花京院は康一に促されて、店の中へ入る。
 いかにも、店主がひとりで切り盛りしているというふうな狭い店の中には、膝ほどの高さの台に行儀良く靴が並び、どれも、1、2年で履き捨てるようなものではなく、丁寧に長く履き続ける類いの、店の構えからは想像もつかないほど高い靴ばかりだ。
 きっと修理の注文も多いのだろう。小さくぽつんと置いてある机の後ろには、ずらりと小さな箱が並んで積み重ねられていて、その中には様々な靴の部品が収まっているのだろうと、花京院は店の中を興味深く見渡した。
 店主らしい男は、いらっしゃいませと小さく言って、ちょっときょとんと、制服姿のふたりを見た。
 机に坐って、何か靴底の修理をしていたのか、手にしていた小さな金槌を机の端に置き、そこから立ってこちらにやって来ようとするのを、花京院は目顔で制する。
 「すみません、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが。」
 丁寧にそう言って、足早にその机---作業台---の方へ寄ると、制服のポケットから取り出したビニール袋に入ったボタンを店主に見せた。
 康一は、退屈そうに机の前に立って、店主がそのボタンをしげしげと眺めるのを見ている。
 客ではないとわかったからか、店主は椅子にまた腰を下ろし、机の上にあったマグを取り上げ、それを一口ずずっとすすってから、ボタンの裏と表を、何度も引っくり返して見て、けれど特にこれと言った表情も浮かべない。
 店の構えから想像する職人気質はあまりうかがえない、康一とさほど身長の変わらない、髪の少し長いひげの店主は、胡散臭そうでもなくふたりを見て、
 「このボタンがどうかしたの?」
と、少し女性的に聞こえる口調で訊いた。空気にコーヒーの香りが混じったのに、花京院は聞こえないように鼻を鳴らした。
 「いえ、見覚えがないならいいんです。どんな服についていたボタンなのか思い出せなくて、探してるところなんです。」
 もう何百回も、別のところで繰り返した質問を、また繰り返す。どれだけ物柔らかな態度でそう訊こうと、求めた答えは得られなかった。ここでもそうだろうなと、もう失望もせずに、渡したボタンを返してもらおうと手を伸ばしかけた時に、店主がまたマグを口元へ運んだ。
 「見覚えがないもなにもさ・・・そのボタンの服なら、ほらそこに、修理したばっかのヤツがあるよ。」
 コーヒーがまだ熱いのか、ちょっと顔をしかめながら、店主が自分の後ろを指差した。店の裏へ通じるらしいドアの傍にある小さな洋服掛けに、1着きり、男物のジャケットがぶら下がっている。空のハンガーがその後ろに2、3掛かっていて、花京院と康一は、同時にその上着のボタンへ視線を投げた。
 「昨日、まったく同じボタンを付け直してくれってお客さんがあってさ。ほら、同じボタンでしょう・・・?」
 店主が返してくれたボタンを受け取って、そこにかかっている上着のボタンと、数度見比べる。花京院は、確かめるように自分を振り仰ぐ康一に、しっかりとうなずいて見せた。
 「花京院さんッ!」
 礼儀正しい微笑みを消して、ボタンを制服のポケットに収めると、花京院は一気に緊張した口元を引き締めて、
 「やっと見つけたか・・・。」
 そう思わずつぶやいていた。
 特に大きくは見えないその上着から測れば、その持ち主の体格はごく普通のもので、おそらく花京院とさして変わらないだろうと思えた。派手ではないけれど、生地も仕立てもしっかりしているように見える。きちんと働いている男が着るのだろう、どう見ても、学生や若い男向きのデザインではない。そして、ボタンを付け直す程度で店に預けるということは、それなりに余裕のあるひとり暮らし、あるいはすでに母親のいない実家暮らしか。
 そこまで素早く頭をめぐらせて、今思いついたことを忘れないようにしなければと、花京院は頭の隅にメモをする。
 花京院がそうして、その上着を観察している間に、一方康一は、ボタンの持ち主を見つけた興奮の口調を隠せずに、店主に、その客のことを訊いていた。
 「どんな客でしたか? 名前わかります?」
 店主が、ちょっとむっとした顔をして、自分の頭を指差した。
 「注文を受けたお客の名前は全て覚えてますよ。それがお客に対する思いやりってやつです。」
 まるで胸を張ったようなその答えに、なるほど、店構えが示すようにさすがプロだと、花京院は思わずにっこり店主に向かって微笑んでいた。この制服も、何かあったらここへ持ち込もうかと、そんなことまで一瞬で考える。
 店主の答えに勢いづいた康一が、机を乗り越えそうになりながら、また質問を重ねた。
 「な、なんて名前か、おしえてもらえますか?」
 花京院にただついて来ただけのはずの康一は、最初に鈴美と遭遇して、殺人鬼を見つけてくれと頼まれたのは自分なのだということを今さら思い出して、今その殺人鬼に近づきつつあるという状況に、胸を躍らせている。もう少しだ、もう少しで、その犯人のことがわかる。
 康一の押しの強さに、ちょっと鼻白んだ表情を浮かべた店主は、けれどちょっと肩をすくめただけで何も言わず、のっそりと椅子から立ち上がった。
 「服のえりのところに、注文のフダがついてましてね・・・見た方が早いかなーと思って・・・。」
 ふたりに背を向けて、店主は洋服掛けへ近づいてゆく。
 康一も花京院も、緊張で額に汗を浮かべて、そして、息を詰めて店主の動きを見守った。
 右利きなのか、そちらにまだ湯気の立つマグを持ったまま、利き手ではないらしい左手で、店主はもたもたと襟につけてある注文札を取り上げる。名前が書いてある方へ引っくり返して、よく見ようと顔を近づけた。
 店主の悠長な動きを待ちきれずに、まず康一がそちらへ足を踏み出した。
 「えーとえーと、この名字は、何て読むのかな・・・。」
 花京院も、店主の暢気な仕草に耐え切れなくなって、康一の後を追って、注文札が見えるところまで近づこうとする。
 「どれですか、み・・・見せて下さい・・・。」
 店主に遠慮をしながら、けれど早くと焦りを隠せずに、康一が上着に手を伸ばしながら、そして、見上げるように首を伸ばした。
 突然、店主の持っていたマグが砕けた。砕けたのはマグだけではなかった。店主の手---傷のたくさんある、荒れた手だった---に穴が開いて、そこからだらだらと血が流れている。飛び出した骨がやけに白く清潔に見えて、康一は何が起こったのかわからないまま、怯えさえ刷けずに、ただそれを眺めている。花京院は、反応する体を軽くかがめると、気配を消して、誰にも悟られないように、ハイエロファントグリーンを辺りに這わせた。
 店主は、痛みを感じる暇さえなかったのか、突然飛び散った血に驚いて、声を失っている。
 その肩に、奇妙なものが乗っていた。キュルキュルと音を立てて動いている、これはおもちゃの戦車なのだろうか。不気味な髑髏---角のような突起が、頭の部分にふたつ見えた---が正面についていて、形は奇妙に可愛らしく丸い。
 けれどその見かけは、ただそれ自体の凶悪さを強調しているだけだと、花京院も康一も、すぐに悟ることになる。
 コッチヲ見ロ。
 その小さな戦車は、そう言った。確かに、店主の肩の上でそう言った。
 「な・・・なあんだあーッ?! わたしの手がぁーッ。」
 ようやく、無残に穴の開いた自分の掌の眺めに、店主が現実とその痛みを悟ったらしく、真っ青になって叫ぶ。
 無数の靴を売り、そして同じほどの靴を、この街の人たちのために直して来たのだろう店主の手が、血まみれになっていた。吹き飛んだ親指は一体どこにあるのかと、店主がまるで探すように、そこも血だまりのできている床に視線をさまよわせる。利き手の親指がなかったら、何も持てないじゃないか、どうしてくれるんだと、そう言っているように、花京院には見えた。
 コッチヲ見ロッテイッテルンダゼ。
 キュルキュルと回るキャタピラの音よりも、もっと気味の悪い、いやらしい声で、小さな戦車が店主にささやきかける。
 そうして、その声に従って肩に振り向いた店主の口に、その戦車が、凄まじい勢いで飛び込んで行った。頬の裏側が裂けて、歯も全部弾け飛んだのだろう、怖ろしい音に、店主の小さな顔が、丸く大きくふくらんだ。戦車を口の中に含んだまま、店主は、頭を内側から砕かれて、後ろ向きに倒れてゆく。
 目の前の惨状に、ようやく我に帰った康一が、店のガラスを割るほどの大声で、真っ青になって叫んだ。
 「うわあああああああああああ」
 花京院は、店主を襲った戦車が、店主の口の中で停止したままなのを見て取ると、半狂乱になっている康一を自分のそばに引き寄せ、背中の後ろにかばうようにしながら、店の中を見回す。
 ハイエロファントは、店の中にしか這わしていない。この戦車がスタンド攻撃であることは間違いなく、けれど本体は、少なくとも見える範囲にはいない。もっと遠くにハイエロファントを送ることもできるけれど、それではこの場の防御が手薄になる。康一を守らなければと思いながら、次は何が来るかと、花京院は全身を目と耳にして身構えた。
 花京院の冷静さに、康一もやや落ち着いたのか、けれど花京院の腰にしがみついてまだ震えている。
 さっきまで、生きて呼吸をしてしゃべっていた店主が、今は無残な姿で床に転がっているのをちらりと見て、吐き気を飲み込むと、康一は、必死に叫びたいのを耐えようとした。
 どうしてこんなことになったんだろうと、恐怖に押し潰されそうになりながら考える。何かにわし掴みにされた心臓が、裂けそうに痛い。それでも、この場に花京院が一緒にいてくれることが、何よりの救いだった。
 「アッ! か、花京院さんッ!」
 康一は、思わず花京院の上着をつかんで引いた。
 その声に振り返った花京院の目に、洋服掛けからあの上着を取ってゆこうとしている手が見えた。裏へ通じるドアがわずかに開き、そこから、腕が伸びていた。
 「ヤ・・・ヤツがいるッ! 上着が持っていかれるッ!」
 うろたえる康一を少しでもなだめるために、自分の方へしっかりと引き寄せて、花京院はその手をにらみつけた。
 「まさか、ヤツが服を取りに来るとは・・・。」
 とんでもないことになったと、もうぴくりとも動かない店主へ視線を流して、今はその犠牲を悼む時間すらなく、のこのことこの場にやって来た殺人鬼本人のものらしい、ドアから伸びるその手を、ハイエロファントで捕まえられるだろうかと、花京院が前は足を踏み出した時、キュルキュルと、あの不気味なキャタピラの音がまた始まった。
 もう動かない店主の口の中で、戦車が、その本来の凶悪さを、ふたりに向かって剥き出しにしようとしていた。


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