雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

7) その一瞬にB


 もう、無駄としか思えないエメラルド・スプラッシュを、それでも戦車に向かって放射し続ける花京院を見ながら、康一はひとり悔しさを噛み締めている。
 エジプトで、すでにスタンド同士の戦いの場数を踏んでいるらしい花京院には、確かに自分は頼りなく見えるのだろうと思う。それでも、罪悪感の錠を掛ける小林玉美に絡まれた時も、由花子に監禁された時も、ひとりきりで切り抜けて、しかもエコーズもあの時成長した。仗助と一緒に、危険な場を切り抜けたこともある。あの仗助を助ける羽目になったことも、1度や2度ではないのだ。
 花京院は、康一を全力で守ると言ったけれど、自分の身を守るくらいのことは、わざわざ言われなくてもできる。それに、花京院があの爆弾のスタンドを食い止めている今なら、エコーズを飛ばして、犯人を探すこともできる。
 自分と歳の変わらない花京院に、ただスタンドとの戦いに慣れていないというだけで、役立たず扱いをされていることに、康一は我慢ができなかった。
 ぼくだって成長してるんだ・・・ヤツを探して、やっつけることはできるんだ・・・。
 花京院がこちらを見ていないことを確かめて、康一は、高ぶる気持ちとは裏腹に、そっと静かにエコーズを出した。丸いとかげのような姿をしたエコーズ・アクト2は、するりと、殺人鬼の逃げて行ったドアから出て行くと、そこからすぐに見える裏口から外へ出る。そうして、宙高く飛び上がって、おそらくどこかの建物の陰にでも潜んでいるのだろう殺人鬼の姿を探そうとした。
 康一は、もう花京院の方も見ずに、エコーズの視界に同調して、開きっ放しのドアの方を向いていた。
 距離10メートルの辺りを、エコーズはぐるぐると探す。どこにいるのか、通りも建物の間の細い路地もひっそりとしていて、スタンドの気配はおろか、人の姿もない。
 あのパワーなら、絶対にこの辺りにいるはずだと、もうちょっとだけ範囲を広げて、辺りを見回す。それでも、エコーズの視界には、何も映らない。
 そうして、ふとエコーズが、そのほとんどない肩越しに何気なく遠くに投げた視線に、それが引っ掛かった。
 控え目な自信に満ちているように見える背中。きれいに撫でつけられている髪。足早にきちんと歩いている様は、常に数人で、道幅いっぱいに広がって、声高にしゃべりながらだらだら歩く若い男のものではない。そして、その手には、あの上着を持っている。
 い・・・いた! あいつだッ!
 思わず息を飲んで、康一はドアの陰を凝視する。
 けれど、康一の思惑とは違い、男はすでに50m以上離れていた。前を真っ直ぐ見て歩き続ける男は、すでにエコーズの射程外にいて、今もどんどん離れ続けている。振り向きもしないその背には、誰も後を追ってくるわけがないという、不気味な自信に満ちていた。
 男は知っているのだ。あの爆弾スタンドが、確実に仕事をやり遂げるだろうことを。康一と花京院の両方を跡形もなく消して、あそこで起こった殺人のすべての証拠が、永遠に、完全に失われてしまうだろうことを確信している。今までがそうだったからだ。だから今も、そうなることを、男は信じて疑わない。
 バカな! あのパワーで遠隔操作なんてありえないッ!
 去って行く男の、真っ直ぐに伸びた背中を見ても、まだ康一は自分が目にしたことが信じられず、呆然とそれを眺めていた。
 花京院が正しかったのだと、それを目の当たりにしても、まだ自分の間違いを素直には受け入れられずに、激しい後悔に襲われる一歩手前で、康一はただ愕然となっていた。
 爆弾のスタンドは、相変わらず単調な、けれど執拗な攻撃を繰り返していて、花京院は、傷ついた方の肩を上げられずに、片手の指先からだけ、エメラルド・スプラッシュを放射している。それも次第にタイミングが合わなくなり、いきなり康一の方へ向きを変えた戦車の動きに追いつけず、初めて翠の光が、完全に戦車の道筋から逸れてしまった。
 飛び上がって襲い掛かってくる戦車に気がついて、康一が慌てて振り向くと、息を荒げて叫んだ。
 「な・・・なんだあ?! ぼくの方へ向きを変えたぞッ!」
 そちらへ向かおうとした花京院の足元がふらつく。
 歯を食い縛って、倒れることだけは避けながら、花京院も、肺に残った息を絞り出して怒鳴る。
 「スタンドを出して身を守れッ!」
 伸ばした腕が届くはずもなく、それでも、康一へ近づこうと、花京院はようやくよろける足を半歩前に出した。
 「わかったぞ、思った通りだ。そいつは、体温を探知して自動的に追撃してくるスタンドなんだ。興奮して、体温の上昇した君を先に探知した。ヤツの意志はもう関係ない・・・自動操縦! だから遠隔操作でもパワフルに攻撃できる・・・。」
 もう、康一に近づきすぎている戦車に、エメラルド・スプラッシュを放つことはためらわれた。大した威力もないことはもちろん、万が一外せば、康一を傷つける。考えている時間などないというのに、もう打つ手がない。
 突然の攻撃に驚いて体が動かないのか、まだスタンドを出そうとしない康一に向かって、花京院はまた叫ぶ。
 「康一くん、早くスタンドを出して身を守れッ! 早くッ!」
 咄嗟に身をかばうように、康一が体の前に伸ばした腕に向かって、戦車が突っ込んでゆく。
 「間に合わないーッ、エコーズはヤツを追って、50m先にいるんですゥーッ!」
 なんだって、と花京院の唇だけが動いた。そうして、後は考える間もなく、ふらつく体を前のめりに、花京院は、ハイエロファントの全身を素早くほどいて、ネット状に編んだそれを、戦車と康一の間に、間一髪滑り込ませた
 薄いネットの壁は、もちろん戦車をそこで食い止めることはできない。けれど、花京院はハイエロファントのネットで戦車をぶ厚く包み込み、自分の方へ引き寄せながら、またハイエロファントを人型に戻そうとする。
 体温を探知して攻撃してくるこの爆弾スタンドは、血を失って体温の下がり始めている花京院よりも、今は康一を優先して襲うだろう。康一のそばへ行かせてはいけないと、そればかりが頭の中にあった。
 康一には、家族がいる。会ったことはない。けれど、康一の自分に対する態度を見れば、康一の両親が、どれだけ康一を大事に育ててきたかがわかる。きちんと愛されて育った康一には、仗助や億泰という親しい友人もいる。そして、恋人だってできたばかりだと、そう仗助が言っていたことも思い出す。
 康一に何かあれば、悲しむ人がたくさんいる。承太郎だってきっとそうだ。この街のスタンド使いたち、ことにこの高校生たちを、危険なことにはできるだけ巻き込みたくないと、ふたりになればいつだって言っている。自分たちのように、戦い慣れているわけでもなければ、そもそも戦う必要すらないはずの彼らだったから、だからこそ、自分が守らなければならないのだと、感情も込めずに言う承太郎だった。
 この街で起きた一連の事件に、表には出さずに、承太郎は心を痛めている。同情も悲しみもすべて押し隠して、泣くのは後でできると、ただひとり背を伸ばして、ひそかに引き裂かれているこの街を、承太郎は全身で守ろうとしている。
 その承太郎のそばに、花京院はいる。承太郎の盾になる覚悟はできている。康一を守ることは、この街を守ることだ。この街を守ることは、承太郎を守ることだ。
 ハイエロファントの、腕の部分だけがネット状に残り、そして、きりがないとは思っても、遠くへ放るしか方法はない。戦車を包んでいるネットがほどけて、まばらに紐状になり、そうして、花京院は、もう一度、エメラルド・スプラッシュを放とうとした。
 「康一くん、逃げろッ!」
 康一に向かって、これが最後だと、喉が裂けるほど叫んで、花京院は、ハイエロファントの腕の長さ分だけ遠い戦車に、掌を触れさせたままだった。そこからじかにエメラルド・スプラッシュを浴びせてやると、けれど康一に叫んだ声の長さ分、一手遅かったと悟った時には、戦車はそこで爆発していた。
 掌が吹き飛び、肩までの衝撃に、体が後ろに弾け飛ぶ。
 軽々と宙に浮いた体が、そのまま靴の並んだ棚を直撃した。
 吹き飛ばされたのは右手だったろうかと、花京院は痛みも感じずに考えた。指がなくてはペンも持てない。絵が描けない。承太郎の絵が描けない。体の右半分が透明になったように感じている。どうやら、体に穴が開いてしまったようだ。それほど大きくはない。けれど、数えられるくらいに、多く。
 「・・・逃げろ・・・康一くん・・・。」
 こんなことになるなら、もっと早く康一を先に逃がしておくべきだったと、今さら考えても遅い。倒れた自分を呆然と見ている康一に、大丈夫だから早く逃げろと、微笑むことすらできず、もう、目を開いていることさえできない。
 以前にもこんなことがあった。あの時も、承太郎のことを考えていた。
 力が足りなかった。あの時と同じだ。僕は何も変わっちゃいない。君が10年先に進んだ分、僕は延々と同じ場所で足踏みを繰り返すだけだ。君のために、僕は何ができただろう。僕が先に逝ってしまうことに、君はまた腹を立てるだろう。君を悲しませるために、目覚めたわけではないのに。僕はいつも、君を泣かせるだけだ。僕は駄目だ。僕では駄目だ。君に足りない。僕では足りない。ごめんよ承太郎。僕を許してくれ。
 17の承太郎が、目の前に見えた。それに、今の承太郎が重なった。自分に向かって手を差し出すでもないその幻に、微笑みかけたつもりで、花京院はがっくりと首を前に折った。
 「うわああああああああああッ!」
 康一は、爆発の後も、まだ自分に向かって来ようと方向を定めている戦車から逃げようと、一度壁際に寄った。そうしながら、血まみれで倒れた花京院に走り寄って、今は人形のように重いその体を、必死で抱え上げようとする。
 「ぼくのせいだ、ぼくがヤツを追ったからだ! 気がついて花京院さんッ!」
 戦車が、すでに康一に狙いを定めていた。
 康一は花京院を引きずりながら、開いているドアから、店の奥へ逃げようとする。
 花京院のその重さと、引きずる床に残る血の跡に、こんな姿になるのは自分だったはずだと、ようやく後悔に全身を震わせ始めていた。康一が、あの時エコーズで自分を守ることさえできていれば、花京院はやられずにすんだはずだ。少なくともこんなふうには、ならずにすんでいたはずだった。
 今無事に生き延びているからこそ、こんな後悔もできるのだ。
 のろのろとドアを抜けて、店の奥へ進む間にも、戦車はどんどん迫ってくる。
 どうしていいかわからずに、康一は叫びながら、無我夢中で花京院を引きずってあとずさった。
 壁に見つけたスイッチに、はっと思いついて手を伸ばす。スイッチを入れると、たった今通り過ぎたドアのそばの照明がふたつ、まだ午後の明るさの中でさらに明々と灯る。そう願ったとおり、電球の熱に引かれたのか、戦車は方向を変えた。
 体温を察知するスタンドは、どうやら、熱の高いものの方へ優先的に向かうらしい。それなら、戦車の注意をそらすために、体温よりも温度の高いものが必要だ。まだ照明の辺りをうろちょろしている戦車に注意しながら、康一は残りのスイッチを入れて、天井や壁の他の照明もつけて、必死の形相で後ろに逃げた。
 戦車は、コッチヲ見ロと、あの気味の悪い声を上げながら、触れた照明をひとつずつ爆破してゆく。天井にまで昇って、ギュルギュルとあのキャタピラを鳴らしている。
 もっと時間を稼がなければならない。仗助を呼べれば、花京院の傷は治る。承太郎が来れば、スタープラチナであの爆弾を破壊できるだろう。それまで、何とかひとりでこの場を切り抜けなければと、うめき声ひとつ漏らさない花京院に不安ばかりつのるけれど、康一は歯を食い縛って、それに耐えた。
 ドアから真っ直ぐに進んだ突き当たりは、大きな台所だった。外へ出る裏口もそこにはあった。そして、何より康一が求めていた電話が、壁に掛かっていた。
 ここでなら火を起こせる。時間を稼いで外にも出られる。けれどその前に、仗助と承太郎に電話をしなければならない。
 慌てていた康一は、コンロに飛びついて、スイッチを入れてしまってから、それが電気コンロであることに気がついて愕然とした。
 「オーブンも電気だッ!」
 これでは、温まるのにひどく時間が掛かる。
 「や・・・ばい、せまってくるッ!」
 戦車が、照明を全部破壊してここまでやってくるのに、どれくらい掛かるのだろう。1分か、20秒か、それともほんの一瞬か。
 康一は目についた引き出しを片っ端から開けて、マッチかライターか、何かその類いのものはないかと探す。煙草を吸わないことを、今ほど後悔したことはない。
 何もない。求めるものは何も見つからない。
 ガラスでできた電灯を壊して、ついに戦車が台所までやって来た。背後に迫るそれに目をやりながら、康一は、店主が死んだ時に手にしていたコーヒーを思い出した。
 「お湯・・・お湯があるはずッ!」
 せめてコーヒーメーカーがないかと、また慌てて辺りを見渡した。
 カウンターのすみに、ぽつんと置いてある魔法瓶を見つけ、祈りながらそれに手を伸ばす。ふたを開けると、中も見ずに、自分たちからいちばん遠い壁際にそれを投げた。
 「向こうへ行けえッ!」
 そうして、康一の必死の行動をすべて嘲笑うかのように、魔法瓶は空の中身を銀色に晒して、ごろごろと壁際を転がる。
 戦車は、そんなものは見向きもせず、一直線に康一へ迫っていた。
 絶体絶命だと、もうすべてが終わった後のように、康一はぎゅっと目をつぶる。ギュルギュルと、相変わらず耳障りなその音に、頭の中を支配された後で、ふと思いついたことがあった。
 「こいつ・・・弱点があるぞッ・・・。」
 康一は、かばうように丸く縮めていた背中を、突然すっと伸ばした。
 コンロに寄りかかった、青ざめた花京院の横顔をちらりと見て、康一は唇を引き締める。
 花京院は、康一を全力で守ると言った。ここから無事に逃げて、殺人鬼のことを、このスタンドのことを、承太郎たちに伝えてくれと、康一にそう言った。
 それなら、今度は、康一が花京院を守る番だ。ここから、ふたりとも一緒に無事に逃げて、承太郎たちに会うのだ。
 無事にという部分はすでにあやしかったけれど、そう決意した瞬間、康一は、全身にみなぎる力を感じた。
 自分のしたことを後悔しているなら、それはこれからの行動で償えばいい。悔やんで泣き叫ぶだけでは、この事態は変わらない。
 「なぜ殺人鬼のために、ぼくがビクビク後悔してお願い神様助けてって感じに逃げ回らなくっちゃあならないんだ?」
 康一の髪が、いきなり逆立った。
 「どうして、ここから無事で帰れるのなら、下痢腹かかえて公衆トイレ捜しているほうがズッと幸せって願わなくっちゃあならないんだ・・・ちがうんじゃあないか?」
 エコーズ・アクト2が、戦車に向かって突進してゆく。エコーズのパワーでは止められるはずもない戦車を、それでも押しとどめようと、小さな足を床に踏ん張る。康一は、自信に満ちた冷静な表情で、それを見ていた。
 「おびえて逃げ回るのは殺人鬼、きさまの方だ。」
 エコーズの尖った尻尾の先に、文字が浮き出てくる。文字の浮かんだそこは、次第にふくらんで丸くなる。
 「体温に向かって、決して突撃をやめない・・・でも、そこなんだな! おまえの弱点は、そこにある。決してやめないってところに、弱点はあるッ!」
 エコーズの、充分に丸くなった尻尾の先は、エコーズから離れ、そして、戦車の背の辺りに張りついた。長い棒の先に玉でも垂らしたようなそれには、ドジューという文字が浮かび、目の前にぶらさがったエコーズの尻尾文字のその熱を、戦車は律儀に追い駆け始める。
 今まで、凶悪にしか見えなかった戦車が、途端におもちゃめいて、心なしか、キャタピラの回る音も、可愛らしく響いて聞こえた。
 台所中をうろうろとさまよう戦車をよけて、康一は、悠々と花京院をまた引きずって、外へ出る裏口のドアの枠に花京院を寄りかからせた。
 「これでこいつはぼくらを見失った・・・ずぅーっとそうやって、アホみたいにしっぽ文字の熱を追い続けてろ。」
 今までのお返しとばかりに、恐ろしさの半減した戦車に、精一杯お返しの言葉を投げつけて、康一はようやく、壁の電話に手を伸ばす。
 「さてと・・・終わったから、電話で仗助くんを呼ばなきゃあ。」


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