雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

7) その一瞬にD


 康一は、怒りに一瞬我を忘れた。
 叫びに、髪が逆立つ。すぐ傍に、寄り添うようにいたエコーズAct3が前に飛び出し、男に向かって飛びかかってゆく。
 「くらわせろ、Act3ッ!」
 Act3は、小さな体で、けれど俊敏に、男に拳を繰り出した。ところが、何事かつぶやいた男の目の前、Act3の目の前に、奇妙な像が現われて、Act3の拳の嵐をすべて受け止める。
 人型の猫のようなそのビジョン---男のスタンドは、Act3を片腕で振り払うと、康一も一緒に後ろに吹き飛んだ。
 あの爆弾戦車が男のスタンドのはずだ。それなのにどうやって、この男はもう一体スタンドを出現させたのだろうか。
 康一が、切れて血の垂れる口元を拭っている間に、Act3はすでに立ち上がって、男と彼のスタンドに向かって身構えていた。
 「スタンドはひとり一体のはずだぞッ!」
 思わず男に向かって怒鳴ると、男は平たい声で康一に答えた。
 「シアーハートアタックは、キラークイーンの左手から発射した追撃爆弾だ。だからダメージは、わたしの左手だけにある。」
 よくわからなかったけれど、男は自分のスタンドを、キラークイーンと呼んでいるらしい。スタンドに性別はないとは言え、どう見ても男にしか見えないスタンドに女王なんて名前をつけるなんて、変なやつだと康一は思う。
 ようやく立ち上がった康一に、Act3が、あのデジタルな声で、キラークイーンに吹き飛ばされ、康一が射程距離5メートルの外に出てしまったので、また爆弾戦車が動き始めると、まるで他人事のように告げた。
 Act3がそう言った通り、戦車は重さの消えたことを喜ぶように、宙に飛び上がった。同時に、男も左手の重さが消えたのか、半ば笑いながら自分の腕を振ってそれを確かめている。
 またピンチだと、額に汗を浮かべる康一に、戦車と男が一緒に向かってくる。
 Act3は、どちらを攻撃するかと、あの拳法のような構えを取りながら康一に質問した。
 3・Freezeというあの攻撃は、一度に一回しかできない、本体か爆弾スタンドか、どちらかを選ばなければならない。命令シテ下サイと、合わせた掌を前に突き出しながら、Act3がいやに落ち着いた声で言った。
 本体を重くしても、自動操縦の戦車は止まらない。戦車を重くしても、本体に影響があるのは左手だけだ。迷う間に、男も戦車も近づいてくる。どちらにも大して違いがあるとは思えず、康一はその短い間に決断することができない。
 Act3が早く命令しろと、康一に振り返った。
 もう、どちらも目の前だ。
 「ば、爆弾を止めろーッ!」
 康一がそう叫んだ瞬間、3・Freezeと叫んで、向かってくる戦車に、Act3は拳を叩き込んだ。けれど、それと同時に、男のスタンド、キラークイーンがAct3の背中を踏みつける。Act3の小さな体は、キラークイーンにしっかりと踏み押さえられ、首のすぐ下に衝撃を感じて、康一が地面に這いつくばったのと、男の手が重さを増し、戦車が地面にめり込んだのと、ほとんど同時だった。
 男は、Act3の攻撃で重くなった左手をだらりと下げたまま、ふうっと大きく息を吐いた。
 「どちらを攻撃しても、君は敗北する運命だったってわけだな・・・。」
 不愉快をあらわに、ネクタイを直しながら、戦車---シアーハートアタックがまるで役に立たなかったことに文句を言って、忌々しげに、
 「ここまで苦戦するとは思わなかったよ。君はたいしたヤツだよ。」
 まるで、康一に敬意を表するような口ぶりだった。
 Act3は、相変わらずキラークイーンの足の下で、そこから何とか逃れられないかと、康一はもがき続けている。
 そんな康一を見下ろして、男は滔々と、3・Freezeの攻撃のせいでどんなひどい目に遭ったかを語った。
 カフェで恥をかいたとか、弁償させられたとか、妙なチンピラに絡まれたとか、男は、康一が自分の言っていることをちゃんと理解しているかどうかはどうでもいいらしかった。ただひとりで、自分に起こったことを喋り散らして、会話ではなく、それはただの垂れ流しだった。
 もちろん、これから始末しようとしている相手と、必死に会話を成立させようとしているなら、そちらの方がよほど異常だと思いながらけれど、康一は、男の態度に尋常でないものを、すでに嗅ぎ取っていた。
 この男は、間違いなく殺人鬼だ。異常なことを愉しむためには、どんな苦労も厭わないだろう人間だ。
 背中の痛みが、鈴美の痛みを思い起こさせて、康一はまだ戦意を失ってはいない。康一を相手に、男がこれだけ長々とおしゃべりを続けているのは、つまりは康一をたやすい相手と踏んで、侮っているからだ。それを悔しいと思うよりも前に、康一は、それを唯一のチャンスと理解した。油断している。男は自分に自信たっぷりで、絶対に康一---とあそこに倒れている花京院---を跡形もなく消せるのだと信じ切っているから、それなら、こちらはその油断した隙を突いてやる。絶対に、男のこの自信を挫いてやる。
 「初めてだよ、ここまで追いつめられたのはな。なんか・・・ちょっとした敗北感すら感じるよ。まったく、たいしたヤツだ君は・・・。」
 薄笑いを浮かべて近づく男は、けれど瞳を光らせて、そこには確かに悔しげな色が見えた。
 もがいている康一の傍へやって来ると、男は、ポケットティッシュかハンカチを持っているかと康一に訊く。
 男の考えていることが読めずに、康一は今度は一体何の話を始める気だと、ようやく肩を地面から持ち上げながら、持っていないと、息を切らせながら答える。
 「じゃあ、わたしのを使いたまえ。」
 聞き分けのない子どもを諭すような表情と口調で、自由に動く右手でポケットを探ると、男は取り出したポケットティッシュを、康一の目の前に放り投げた。
 何事かと、それを凝視した後で男を見上げようとした康一の顔面に、男の拳が飛んでくる。その拳の形にひずんだ康一の鼻や口から、ぼたぼたと血が滴った。
 「鼻血がいっぱい出るだろ? それをふくためにな・・・。」
 男の声が、さっと凍る。表情を消して、感情をすべて声だけに込めて、その声は、ナイフのような鋭さと冷たさで、これから起こるだろうことを、康一に正確に予想させてくれる。
 血の流れる元を掌で押さえて、康一は相変わらず地面に這いつくばったまま、うめくことしかできなかった。
 これから君をなぶり殺すと、男は言った。まるで、抜き打ちテストをこれからすると告げる、教師のような口調だ。
 顔全体に広がる痛みに耐えながら、男の本気をいっそう強く感じて、康一は確かに怯えていた。けれど同時に、ただ黙ってやられるだけではいないと、静かに湧く闘志もある。それを男には悟らせずに、康一はただひたすらに、反撃のチャンスをうかがっている。
 男は、いきなり康一の手を踏みつけた。骨が折れたのか、いやな音がして、思わず叫んだ康一の口に、すかさず革靴の爪先が蹴り込まれた。
 叫び声を上げるなと、男が言う。
 「わたしはここまで来るあいだ、今のと同じ苦痛を与えられたが叫び声はあげなかったぞ。」
 膝を曲げて、まるで爪先に康一を吊り上げるように、歯が折れて血の流れるそこに、男はさらに強く靴の先を押し込んだ。
 「男の子だろ? ン?」
 表情はない。声も冷静だ。けれど男は、康一を痛めつけることを、確かに愉しんでいる。
 康一の髪をつかんで軽く引き上げると、もう靴の先の形にぱっくりと開いたままの康一の、真っ赤な口の中を、具合を確かめるように数瞬覗き込んだ。
 「わたしを見習いたまえ。」
 言うなり、康一の顔を地面に叩きつける。鈍い音がして、それに康一のうめき声が重なって、地面に血が流れた。
 男は、さっき康一に渡したティッシュを取ると、それで力任せに康一の顔面に流れる血を拭う。
 「ほらー、ティッシュが必要だろ?」
 まるで、親切からの善行を施しているような様で、そうしながら今度は、鼻から取り込まれる酸素が脳に直接送り込まれる云々という薀蓄を垂れ始める。
 男にとってこれは、暴力ではないのだろう。これまで犯した殺人もすべて、それが誰かを破壊する暴力だと、男はまったく認識していないに違いない。男にとってそれはきっと、スポーツか何かと変わらないのだ。体がなまったから運動でもしよう、男にとっては、その程度のことなのだろうと、康一は喉に流れ込んでくる血の味にむせながら思った。
 じゃりじゃりと、口の中に泥が入り込んでくる。それを血と一緒に吐き出しながら、まだ男が勝手にべらべらと喋り続けるのを、吐き気をこらえて黙って聞いていた。
 「あと1分したら、キラークイーンで吹き飛ばしてやる。それまでわたしを見習って、同じ痛みに耐えろ。」
 突然の凶暴な衝動に突き上げられたように、男は目を剥くと、康一の髪をつかんで、また地面に顔面を叩きつけた。
 「わたしを見習うんだよォーッ!」
 今度は、地面か康一の骨のどちらかにひびが入るまでとでも言うように、何度も何度も。
 男が動きを止めると、康一は、地面に顔を伏せたまま、そこで切れ切れに、けれどまだ正気の声を出す。
 「おまえの、名前、は・・・吉良吉影・・・だ・・・。」
 驚愕に、男の手が康一から離れ、康一は精一杯の気力で、のろのろと体を起こした。
 「吉良吉影・・・それが、おまえの本名・・・だ。」
 歯が折れ、すでに腫れ上がり始めている口をうまくは動かせず、けれど康一は、血まみれの顔を上げて、男をにらみつけようとした。
 男は、また乱暴な仕草で康一をそこから突き飛ばすと、見覚えのある自分の財布が、免許証を抜き取られて、並んで地面に転がっているのを見つけた。
 怒りに震えながら、それを取り上げて、急いで上着のポケットの中にしまい込む。
 「いつの間に、わたしのサイフを抜き取った? このちっぽけなクソガキがッ!」
 怒りに我を忘れつつある男は、凶悪な本性を剥き出しに、落ち着きも冷静さも失っている。
 その男を、上目ににらみつけて、康一は今だけは痛みを忘れようと、必死に、もう食い縛ることもできない歯を合わせる。切れて腫れた唇が、ぬるぬるとして、自分の体ではないように感じていた。
 「さっき・・・カフェで弁償したって言っただろ? その時チョイと身分証が入ってるとヒラめいたんだよ・・・。」
 しゃべるたびに、顔中にひびの入りそうな痛みが走る。それでも康一は、ようやく持ち上げた上体に力を入れて、立って自分を見下ろしている男と、まだ地面に血まみれで四つん這いになったままの自分と、次第に力関係が逆転しつつあることを、男にわからせようと、不様に歪んでしまっている顔で、にやりと笑って見せる。
 男は、そんな康一を嘲笑うように、あごも動かさずに、下目に康一をねめつけた。
 「だからなんなのだ・・・? わたしの名前がわかったからどうだというのだ? おまえは、これから消されるのだ・・・。」
 男が、いっそう早口に言う。その口調に、男の確かな動揺を聞き取って、康一はまたにやりと笑った。そうやって笑うことさえ、あとどれくらいできるだろうかと、少しばかり意識が朦朧とし始めているのは、男から隠すことは忘れない。
 「たしかに、これからおまえはぼくを殺す。でもね・・・こんなぼくにさえ、あんたの名前がわかったんだ・・・今は逃げられるかもしれない・・・でも、どう思う? こんなちっぽけなクソガキに簡単に名前がバレてしまったんだぜ。」
 もうちょっとだ、と康一は思った。もう少しだけ保(も)ってくれ、もう少しだから。男を見上げる視界は、もう白くかすんでいた。
 輪郭のはっきりしない男を、いっそう挑発するように、康一は、男の嘲り笑いを写して、卑しく笑ってみる。
 「あんたは、たいしたヤツじゃないのさ・・・もう1回言うぞ、ちっぽけなクソガキにバレたんだ・・・。」
 指を突きつけ、もうそれが精一杯だった。男が、ひくりと頬の線を硬張らせたのがはっきりと見えた後は、もうまぶたは重くなるだけだった。肺から、残った酸素を絞り出して、叫ぶように言った。
 「おまえはバカ丸出しだッ! あの世でおまえが来るのを楽しみに待っててやるぞッ!」
 ぷつんと、意識の糸が切れた。気を失ったまま殺されるのが、いいことなのか悪いことなのかわからず、康一の体はけれど、地面に崩れ落ちないまま、男に向かって指を突きつけて動かずにいる。
 こめかみに血管を浮き上がらせて、男---吉良は、ついに逆上した。地面に這ったままの康一を蹴り上げようと、片足を後ろに引いた途端、飛び上がって来た康一に、逆にあごを蹴り上げられる。
 幸いに舌を噛み切りはしなかったけれど、歯列の当たった唇の裏はざっくりと切れた。
 何が起こったのかわからず、血の流れ始めた口元を押さえて、吉良は思わず後ろにいる自分のスタンド、キラークイーンの方へ振り返った。
 姿の薄れ始めている康一のエコーズAct3は、まだ間違いなくキラークイーンが押さえ込んでいる。それならどうして康一は自由に動けたのか、しかもあの傷で。
 正面に顔の位置を戻した吉良は、翠に体を光らせて、宙に浮いたまま後ろへ下がってゆく康一の足から、何か蔦のようなものが地面を這っているのを見た。それをたどった視線の先には、よろりと立ち上がった、裾の長い学生服を着た血まみれの少年---花京院がいた。
 康一は、花京院のずっと後ろの地面に、翠の蔦のようなものによって横たえられ、その翠の触手はずるずると地面を這って、花京院のそばでハイエロファントグリーンに実体化する。
 「人の体を乗っ取るのは下衆のやることだが、そんなことでも今は役に立ったな。」
 顔の血はもう乾き始めていて、口を動かすとばりばりと音を立てた。花京院は、足を引きずるようにして、半歩前へ出た。
 血で汚れた口元を晒して、吉良が少し後ずさる。けれど、立っていることが奇跡のように見える花京院の全身を2度眺め回した後、吉良は落ち着きを取り戻したのか、唇の血を舐め取るように舌を動かした。
 「これ以上は、彼には、指一本、触れさせない。」
 のろのろとあごを後ろにしゃくって、花京院はそう言った。
 吉良は、乱れた髪をかき上げるような仕草をして、小馬鹿にした態度で首を傾げる。
 「たまげたな、まさかその傷で立ち上がってくるとはな・・・その傷穴から向こう側の景色が見えそうだぞ。」
 「・・・心配してくれなくてもいい、体に穴が開いたのは、これが始めてってわけじゃない。」
 花京院の言い草を単なる強がりと取ったのか、吉良が鼻の頭にしわを寄せて、皮肉な笑い方をした。
 吉良には悟らせないように、ハイエロファントが、今は花京院を体の内側から支えている。どれだけ保つかわからなかったけれど、少なくとも誰かがここに来て、せめて康一を助けてくれるまではと、花京院はまた半歩、吉良の方へ近づく。
 動くと、全身に痛みが走る。それに歯を食い縛って、揺れると痛む右腕を左手で押さえて、花京院はのろのろと吉良との距離を縮めようとした。
 「その手は、シアーハートアタックに吹き飛ばされたのか? 指がないじゃないか。せっかくきれいな手をしているのに、もったいない。」
 こんな時に何を言い出すつもりか、吉良が、花京院の跡形もない右手と、無事な左手を交互に指差して、心底残念そうに言う。
 その間も、花京院はじりじりと吉良に近づいていた。吉良は、仕方がないとでも言うようにキラークイーンを自分のそばに戻すと、あごに垂れた自分の血に触れて、それから、花京院をにらみつけた。
 「見慣れない制服だが、高校生なんだろう? 学生は学生らしく、勉強だけしてればいいんだ。こんなことに首を突っ込むから痛い目に遭う。立ち上がらなければ、もっと楽に死ねたのにな。」
 あの不愉快な尊大さを取り戻して、余裕のある所作で、吉良は機敏には動けない花京院の正面から位置をずらし、花京院の右側へ回る。そちら側なら、その傷ついた腕をかばうために、攻撃は必ず一手遅れるはずだ。
 花京院は、首だけそちらに回して、吉良をにらみつけることをやめない。
 「・・・僕を、見た目通りの子どもだとは、思わない方がいい。痛い目を見るのは・・・貴様の方だ。」
 わざとらしい仕草であごを引くと、吉良は話にならないとでも言うように首を振る。
 「面白い小僧だな。いろいろ知りたいところだが、そろそろここを立ち去らねばならんのだよ。」
 花京院のほとんど背後に回るように、ぐるりと歩いて、その吉良の動きを追って、花京院は体の向きを変えようとして、ぐらりと体が傾いた。
 吉良を油断させるための演技でも何でもなく、花京院は地面に向かって膝を崩していた。ハイエロファントでさえ、もう花京院を支えるだけの力の余裕はなく、それでも花京院は、吉良から視線を外さずに、荒くなる息を必死で鎮める。
 吉良が、ちらりと、地面に横たわった康一の方を見た。
 キラークイーンが押さえつけるまでもなく、Act3も地面に倒れたまま、ぴくりとも動かない。半透明になりかけているその姿を見て、吉良はにやりと笑うと、花京院に見せつけるように、痛む口元を指先で撫でる。
 「・・・そんなに弱ってて、わたしのキラークイーンのパワーに勝てるとでも思っているのかね?」
 耳まで裂けたような、そんな陰惨な微笑み方だった。
 花京院は、自分の中が透明になってゆくのを感じながら、静かに表情を消した。吉良を凝視するのをやめ、おそらくそれは弱々しく見えるのだろう、ごく自然に力の抜けた瞳で、どこか憐れむように、吉良を見返した。
 「貴様は、承太郎のことを知らない。」
 信じられないほど、穏やかな声が出た。
 吉良は、思った通り、形良く整えられた眉の端を、苛立たしそうに吊り上げる。こめかみに薄く、血管が浮き出始めていた。
 路上に数日放置された、猫の轢死体のような有様のくせに、一向に怯む様子もない花京院---と、さっきの康一にも---に、もう我慢が限界だと、吊り上がったその眉が言っている。
 「・・・誰だって?」
 「ここで僕らを消しても、承太郎は、絶対におまえを見つけ出して、追いつめるだろう。承太郎に出会った時が、おまえの最期だ。おまえはもう二度と、安穏に暮らすことなどできない。絶対にだ。」
 これほど馬鹿にされたことは、おそらく今まで一度もなかったに違いない。
 何年もの間、人を殺し続け、誰にもその尻尾をつかませなかったこの殺人鬼は、今日というこの日に、その自信とプライドのすべてを砕かれてしまっている。康一をなぶり殺しにしようとしたところで止められてしまった激情が、今、出口を求めて暴れ狂っているのが、はっきりとわかる。
 花京院は、そのスイッチを、正しく探り当てて、そして、ためらわずに押した。
 吉良は、凄まじい怒りの表情で、キラークイーンとともに、花京院へ歩み寄った。
 制服の襟を、キラークイーンとシンクロした吉良がつかみ上げる。身長はさほど変わらないけれど、肩や胸は花京院の方が厚いだろうというのに、吉良--- とキラークイーン---は軽々としゃがみ込んでいた花京院を宙に吊り上げ、そして悪鬼の表情で、そのままもう一方の腕を振り上げると、花京院の腹へその拳を突き通した。
 肉を裂いて、血がまといつく感触に、ふっと吉良の表情がなごむ。それを写したように、花京院もうっすらと微笑んでいた。
 花京院が狙っていたのはこれだ。
 吉良がそれに気づいた時には、もう花京院の左の掌---吉良が、もったいないと言った手だ---が、首元にかざされていた。うっすらと翠に光るその手から、無数の光の粒があふれ、そして、凄まじい衝撃が、吉良の上半身を襲った。
 おそらく肩は砕けたろう。あごや鼻の骨も折れたかもしれない。至近距離で、花京院渾身のエメラルド・スプラッシュを浴びて、吉良の体は血を流しながら後ろに吹っ飛んだ。勢いのまま、花京院を貫いていた腕は抜け、支えを失くした花京院も、背中から地面に倒れてゆく。
 力の入らない手足を四方に投げ出して、花京院は血を吐きながら、首を回して、康一のいる方を見た。
 「ありがとう、康一くん・・・君のおかげで、僕は、今度は、無駄死にせずに、すんだ・・・。」
 まるでいとおしむような仕草で、新たに血の流れ始めた腹の穴に、花京院は、指のない右手を乗せる。
 微笑んだまま目を閉じる花京院の耳に、もうそこまで来ている仗助と億泰の走る足音は、届かなかった。


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