雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

7) その一瞬にE


 事情は詳しくはわからなかったけれど、康一と花京院に何かあったらしいと、そう仗助から電話を受け取って、承太郎はすぐにホテルを出た。
 車を出して、けれど、不慣れな道を1本間違えて、ようやく靴のムカデ屋の表に車を置いて、裏へ回る路地を探す。そこまでに、一体どれほどかかったのか、承太郎がその場へ到着した時には、仗助と億泰がすでに、路上に倒れた康一と花京院の傍にしゃがみ込んでいた。
 「花京院ッ!」
 反射的に名前を叫んで、その承太郎に、仗助と億泰が、困惑し切った表情で振り向く。
 「承太郎さんッ!」
 「たいへんッスよォーッ! 康一と花京院さんが---」
 仗助の腕の中にいる、そこからでも重傷とわかる花京院の変わり果てた姿に、承太郎は、考える間もなく時間を止めていた。
 怒りと呼ぶには、あまりに激しい衝動に、時間はいつもよりも長く止まっているように思えて、傍を通り過ぎながらちらりと見れば、康一も花京院も、ひどい有様だった。
 あの時と同じだと、そう思いながら、一瞥で花京院の全身を眺めて、腹の傷と吹き飛ばされた右手に、承太郎は自分では知らずに奥歯を噛みしめていた。
 時間がまた流れ始め、すでにそこに来ている承太郎の姿に驚く億泰と仗助が、立ち止まりもせずに先へ向かう承太郎を、慌てた声で呼ぶ。
 「承太郎さんッ! どこ行くつもり---」
 「早くふたりを治せ仗助。」
 自分を止めようとする仗助に、振り向きもせずにそう言い捨てる。
 傍にいたところで、何ができるわけではない。傷を治せるのは、仗助のクレイジー・ダイヤモンドであって、承太郎ではないのだ。
 白い炎を吹き上げているように見える承太郎の背中に向かって、伸ばしかけた腕をそこで止めて、仗助も億泰も、初めて見る承太郎の凄まじい怒りの様子に、まるで怯えたように同時に息を飲んで、肩を縮めた。
 仗助はすでに康一を治して、今は花京院に掛かっている。億泰に揺さぶられて、康一はようやく目覚め始めていた。
 「ひでえ傷だ・・・花京院さんッ! 花京院さんッ!」
 「早く治せよ仗助! ぜんぜん気づかねーぞッ。」
 「もうすでに治してるぜッ。」
 康一を支えたまま、億泰が心配そうに花京院をもっと近くに覗き込もうとする。まだ意識を取り戻す様子もなく、傷が治っても血まみれのまま、花京院はぴくりともまだ動かない。
 「完全に治って意識が戻るまで、こりゃあちと時間がかかるぜ!」
 仗助と億泰が、ともかくもふたりの手当てを終えている間に、承太郎は、少し先に倒れている、同じように血まみれの男の傍へ近寄っていた。
 仰向けに倒れていた男は、ぴくぴくと手を動かし、近づく承太郎からまるで逃げようとするかのように、ずるりと体を引きずって寝返りを打った。


 意識がうっすらと戻ったのは、知っている名前を呼ぶ声が、聞こえたせいだった。
 そう予想していた通り、仗助と億泰がここに来ていた。
 なんてことだ。なんて1日だ。
 吉良は、ろくに力の入らない体を、指先から必死に動かそうとしていた。
 緑の制服の少年---小僧の腹に、キラークイーンが穴を開けてやったのはともかく、そこでスタンド攻撃を受けるとは、予想もしてみなかった。立っていることが精一杯のように見せて、ぎりぎりの至近距離で攻撃できる、決して逃がさないチャンスをうかがっていたのだ。
 してやられたと、歯が折れている口の中で、舌もうまく動かせずに、もごもごとつぶやく。
 動けるだろうかと、ようやく指先に少しだけ力が入り始めた頃、仗助と億泰が、そこにまた新たに現われた誰かを、承太郎と呼ぶ声が聞こえた。
 承太郎。あの小僧が言っていた名前だ。承太郎に会ってしまったら、もう平穏な日々は終わると、あの小僧は、死に掛けのくせによく光る目で言った。その承太郎が、ここに来たのか。
 吉良は、怯えていた。その承太郎と呼ばれる男に会えば、自分は最期なのだと、長い間自分を救ってくれている直感が告げている。
 少なくとも幸いに、あの小僧---花京院という名前を、吉良は知らない---が弱っていたのは確かだったのか、あの攻撃も吉良を死に至らしめることはできず、意識がはっきり戻れば、もう逃げることばかりが頭の中を占め始める。
 今まで、どんなピンチも切り抜けてきたのだ。今度も、必ず逃げ切ってやると、吉良は心の中で自分を励ます。どれほど体が傷ついても、気持ちは決して挫けない。
 吉良はひどくのろい動きで体を裏返すと、舗道の端にある植え込みの陰へ隠れるつもりで、血まみれの体を必死で引きずり始めた。
 舗道との境の段差を越えようと、そこに肘を掛けて、体を乗り上げようとした時、突然目の前に影が差した。
 見るからに大きな足がそこにあり、切れそうな折り目の入ったズボンの裾には、それが真っ白にも関らず汚れも見当たらない。骨が折れて、血のあふれてる鼻腔に、けれどきちんとコロンが香った。
 吉良は、顔を上げて、その影を仰いだ。
 大男だ。自分とあまり歳は変わらないように思えたけれど、やけに若々しく見える。誰にも恥じることのない意志をたたえた表情は、その通った鼻筋も今は固く噛みしめられた肉厚の唇も、今はただひとつの目的を目指していて、突き刺すような怒りの視線が、吉良の額の辺りにじっと据えられた。
 自分とは何もかもが対照的に見える、これが承太郎だと、吉良は一瞬で悟って体の動きを止めた。
 このままでは逃げられない。自分が何者かを探ろうとするその厳しい視線から逃れるために、吉良は怪我で動けないふり---実際に、あまり動けない---でよろよろと体を起こすと、呆然の表情で大男---承太郎を見上げ、怯えを全身に現した。
 「あ、ああ・・・あああああ・・・」
 吉良の弱々しい声に反応して、承太郎がちょっとあごを上げる。帽子のつばに隠れてよくは見えなかった瞳が、まるきり無感動に吉良を見下ろしている。
 血を流して地面に這っている自分に、この男はちっとも同情なんか感じてはいない。この男は、わたしのことをちっとも信じてなんかいやしない。
 まだ希望は捨てずに、けれど吉良は、思考を巡らせる前の一瞬、かすかな絶望を感じた。生まれて初めてのことだった。
 承太郎が爪先をちょっと滑らせて、そうして、突然目の前に、青い巨人が現われた。それに目を見張った吉良の、すでに折れてしまっている頬に、薄青い拳が、何の手加減もなく叩き込まれた。


 傷の治った康一と花京院を地面に横たえてから、突然向こうにいた承太郎が、足元にいた男を、スタープラチナで殴ったのを見て、仗助と億泰は慌ててそちらに駆け寄った。
 「何してんスか承太郎さんッ! 巻き込まれただけの、ただの通行人かも知れないんスよ。」
 男の身元を確認するような言葉も動作もなかったのに、突然どうしたのかと、仗助は、必要なら承太郎を止めるつもりで、その腕に手を掛ける。
 男は、憐れっぽい仕草で、尻餅をついた腰を地面に滑らせ、承太郎から逃げるように後ずさる。そうしながら、すでに腫れ上がり始めている口を不様に動かして、自分に危害を加える様子はなさそうな仗助と億泰に向かって、ふたりの背後のムカデ屋の裏口を指差して見せた。
 「わたしはただクツを買おうとしていただけなのに、店の主人がふき飛んだんだッ! いったい何が起こったんだわけがわからない!? あそこのふたりも・・・」
 地面にまだ横たわったままの康一と花京院も指差して、男は早口に、明らかに動揺している口調でまくし立てる。
 「爆発だと?」
 男の様子に引きずられて、もっと詳しい事情を知りたいと、男の方へ一歩前に足を踏み出した億泰を、承太郎の長い腕が押しとどめた。
 目の前の男の、康一や花京院に劣らない悲惨な様子にきちんと同情している仗助と億泰は、重傷の怪我人を目の前に、表情ひとつ変えない承太郎に、軽い憤りすら感じ始めて戸惑っている。
 ふたりの、咎めるような視線に気づきもしていないふうに、男を下目に見下ろして、承太郎は冷ややかな声で言った。沸騰点をとうに超えた怒りは、今は容赦のなさに変化している。こんな気分は、ほんとうにエジプトでのあの時以来だと、承太郎は頭の片隅で考えていた。
 「・・・そのダメージは、花京院にやられたな。エメラルド・スプラッシュを至近距離で食らったか。」
 人差し指を突きつけられて、ようやくまた承太郎を気弱に見た男が、仗助と億泰に、何とかしてくれと懇願するような視線を送ってくる。
 「わたしはただの会社員です・・・。」
 今にも承太郎の足にすがりそうな様子で、男は哀願の口調でそう言った。
 「食らったのは、花京院の腹をブチ抜いた前か後か、返答次第できさまの顔面をたたっこわしてやる。」
 男は呆然と、承太郎に向かって首を振った。
 仗助が、たまりかねたように、承太郎の肩に手を掛けた。
 「承太郎さん、決めつける前に、こいつに詳しく話聞いた方がいいッスよ。万が一ただの巻き添え食った通行人だったら---」
 仗助が承太郎を止めようとしているその隙に、男はちらりと後ろを見て、康一と花京院が目覚め始めているのを確かめる。
 「巻き添えになっただけのただの会社員に、どうしておれのスタンドが見えるんだ。」
 え、と億泰が声を出した。
 男も、一瞬で表情を凍らせ、見上げる承太郎の背後にまた現われたスタープラチナに、考える間もなく視線を滑らせていた。
 男の視線の動きを見て、仗助がクレイジー・ダイヤモンドを、同じように後ろに出現させる。慌てたように少し遅れて、億泰もザ・ハンドを出した。
 舗道にしゃがみ込んでいる男は、目の前の3人と3体のスタンドを、もう隠しもせずに順に眺めて、腫れ上がった唇に、折れてすき間だらけの歯列を当てる。
 「きさまが、殺人鬼か・・・。」
 静かに問い詰める承太郎の声に、憐れを誘う態度を一瞬で消した男が、焦りの表情を浮かべて、かすかに肩を震わせていた。


 目の前に、壁のように立ち塞がった3人を見上げて、その後ろに、吉良は、さっき散々痛めつけたふたりが、ゆっくりと地面から起き上がろうとしているのを見た。
 これで5対1になる。勝ち目はない。
 「わたしの、敗北・・・ってわけか・・・。」
 折れた歯の間からしゃべる空気がもれる。喉の奥に絡む血に吐き気を催しながら、吉良はけれど、完全には絶望はしていなかった。そう見せてはいても、花京院が言った通り、すでに承太郎に出会ってしまったのだとしても、どこかに逃げ道があるはずだと、止めずに考えていた。いつだってそうだった。だから、今回もそのはずだ。
 身構える3人に向かって、吉良はしゃべり続けた。しゃべっている限りは、呼吸が続く。呼吸が続けば脳は動き続ける。考えろ考えろと、自分の中につぶやき続けている。
 「そうさ・・・君たちが探していたのはこのわたしさ。」
 曲げた膝に、もう力が入らない。最後の力を振り絞って、どこまで行けるだろうか。
 「素顔もバレた、スタンドの正体もバレた・・・本名もバレた。」
 言いながら、また、向こうにいるふたりを見た。顔を上げて、瞬きをして、視界をはっきりさせようとしている。時間がない。
 「もう、どうやら安心して熟睡できないらしい。」
 吉良は、決心した。ここから何とかして逃げる。逃げて、生き延びる。この3人を相手に、いや、これからすぐに5人になるのか、全員を相手に、けれど逃げてやる。そのためには、何だってすると、吉良は、薄い笑いを浮かべた。
 「ただし今夜だけだ!」
 腹に力を入れながら、必死で立ち上がった。それに合わせて、一斉に身構えようと肩を引いた3人の目の前で、吉良は、呼び出したキラークイーンに、いきなり自分の左手を切り落とさせた。
 鮮やかな切り口を晒して、地面に落ちてゆくその手に、3人の視線は釘付けになり、承太郎でさえ、吉良の突然の奇矯な行動に、追い詰められて錯乱したのかとわずかに眉をひそめる。
 「なにやってんだてめーッ!?」
 仗助が叫ぶと、吉良は、乾いた血の上に、だらだらと涙を流し始めた。
 「見てのとおりだ、切り離す・・・い・・・痛いよ、なんて痛いんだ・・・血もいっぱい出るし、涙まで出てくる・・・。」
 こんな目に遭うのは、自分ではないはずだ。選ばれた、きれいな手をした女たちのはずだ。こんな痛みを感じていいはずがない。何てことだと思いながら、けれど今は仕方がないのだと、泣きながら自分に言い聞かせる。今だけだ、今だけなんだ、こんなこと。
 自分をこんなにした目の前の3人を、心底なぶり殺してやりたいと思って、けれど、今はその時ではないと、こっそり後ろへ下がりながら、吉良は復讐心を心の片隅にきっちりとしまい込む。
 逃げるのだ。胸の中で叫んだ。
 「わたしは生き延びる・・・平和に生き延びてみせる。わたしは人を殺さずにはいられないというサガを背負ってはいるが・・・幸福に生きてみせるぞ!」
 まるで、誇り高い宣言のように、吉良は一瞬だけ、3人に向かって胸を張った。折れているらしい肋骨が、ひどい痛みを背骨に送ってきた。
 生きてさえいれば、復讐は成し遂げられる。そうしたいなら、そうすることができる。今は逃げろ。早く。
 切り落とした左手から、爆弾戦車、シアーハートアタックが、3人に向かって発射された。
 切り離されてしまった以上、シアーハートアタックにどんな攻撃が加えられようと、どれほど阻まれようと、本体である吉良にはもう何のダメージもない。爆弾戦車は、その目的を成し遂げるまで、自由に走り回るだけだ。
 「あとはまかせたぞッ! わたしを守るんだ。」
 足を引きずりながら、鈍い動きで逃げ始めた吉良と、身構えた3人の間で、戦車がギュルギュルと動き回る。
 「なんだァー、この弱そうなのはーッ!!」
 叫んだ仗助よりも前に出て、承太郎のスタープラチナが、戦車を叩き壊そうとその太い腕を振り上げた。
 「承太郎、それは体温を追って向かってくる爆弾スタンドだ! 体温に反応して爆発するぞッ!」
 後ろから、ようやく立ち上がろうとしながら、花京院が怒鳴った。
 康一は、すでに自由に動けるようになった体で、まだ青い顔をしている花京院の腕を取って、まだふらついているその体を支えようとしていた。
 承太郎は、そこで時間を止めて、目の前で静止した戦車に、スタープラチナで連打を叩き込んだ。完全に破壊するために、両の拳で挟み込むように、何十発も続けて殴る。地面に叩きつけられた戦車は、けれどひびの入った体で、果敢に3人に挑みかかってくるのをやめない。
 康一と花京院も、それを見て顔色を失くした。
 「ば・・・ばかなッ! スタープラチナのパワーで破壊されないッ! そ・・・そんな堅いスタンド、バ・・・バカなッ!」
 後ろから聞こえた、康一の動揺しきった声に、今度は仗助が前へ出る。
 パワーだけなら、スタープラチナにも引けを取らないグレイジー・ダイヤモンドが、吠えながら拳を突き出した。
 「ドララララララララララララ!」
 そんな数発など物ともせずに、戦車はまた仗助に向かってゆく。
 「ブッ壊れねェーだと?」
 戦車のあまりの頑丈さに、億泰が呆れたような、諦めたような声を出す。
 仗助はけれど、平然と戦車に向かったまま、身構えもせずに冷静に言った。
 「ブッ壊すなんてことはするつもりはねェ・・・逆だ。」
 突然何かに捕らわれたように、戦車が宙で動きを止めた。バシバシと音を立て始め、もがく様が、まるで苦しんでいるように見える。
 「治してんスよ。あの野郎が切り離したっつーんならね・・・このスタンドはッ! ヤツ本体のところに治りに戻るッ!」
 承太郎と億泰を見て、後ろにいる康一と花京院にも聞こえるように、仗助がそう説明した。
 その言葉通り、戦車は地面に転がったままの、切り落とされた吉良の左手に戻り、そしてその左手は、不気味なことに、逃げて行った、本体である吉良の後を追い始めた。
 「ちと気味が悪い図だが・・・ヤツのところに、左手が治りに戻っていくってことっスよ。」
 すでに、それを追って足を踏み出していた承太郎に続いて、仗助と億泰が飛び出してゆく。
 けれどそこで足を止めた承太郎は、ふたりを先に行かせると、康一に支えられて、何とか立っている花京院の傍へ、足早に寄った。
 「康一くん、君も仗助たちと行ってくれ。おれもすぐ後を追う。」
 ためらっている場合ではないと思った康一は、言われた通りに、おそるおそる、けれどなるべく素早く、自分の肩に回させていた花京院の腕を承太郎に渡して、先に走って行った仗助と億泰を追い駆け始める。
 エコーズを飛ばして、ふたりを見失わないように---そして、それが、後から来る承太郎の目印になるように---、康一はもう後ろを振り返らない。
 「僕は無理だ、走れない。」
 青白い顔で首を振る花京院の、元通りになった右手に、承太郎は急いで車の鍵を握らせる。
 「表に車が止めてある。その中にいろ。すぐに戻る。」
 こんな時だと言うのに、絡んだ視線を一瞬外せずに、ひどく心配そうに自分を見つめる承太郎の、自分の右手に触れているその手を、花京院は一度強く握った。
 「逃がさないでくれ、頼む。」
 吉良のことを言っているはずなのに、承太郎の耳には、この手を離すなと、そう言っているように聞こえた。
 ああとうなずいて、走り出しながら、承太郎は一度だけ花京院を振り返った。
 そこに倒れ込みはせずに、かろうじて支えもなく立っている花京院の腹の大きな血の染みに唇を噛んで、空に浮かんだ康一のエコーズの位置を確かめながら、承太郎はもう前だけを見ていた。


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