雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

8) 一筋の紅A


 ふたりはしばらく何も言わず、重苦しい空気を破ろうとしたのか、花京院がそっと寝返りを打った気配があった。
 体を起こしているらしいベッドの動きに承太郎が振り向くと、花京院はうつむいて表情を隠して、部屋へ戻ると言った。
 「いい加減、シャワーを浴びたい。」
 体を起こそうとした花京院の腕をつかむと、うっすらと警戒心を浮かべて、花京院が目を見開く。承太郎は表情は変えずに、その腕を軽く自分の方へ引いた。
 「ここで浴びて行け。ひとりでバスルームで倒れられたら、おれが困る。」
 別に深い意味があるわけではないと、きちんと口調に言わせて、けれど花京院はそれをどう取ったのか、わずかに不快を示して、承太郎から取られた腕を引き取った。
 「心配性だな、君は。」
 声にはかすかな笑いを含んで、花京院が苦笑のような表情でベッドから下りようとする。
 こちらに向いた制服の背中にもべったりと残った血の染みに気がついて、承太郎は一瞬で心を決めた。
 「待て、その前に---」
 ベッドの上に乗り上がるようにしながら、花京院の腕をまた掴んで、今度は逃げられないように強く引き寄せる。案の定、驚いてこちらを向いた花京院が、反射的に身を守る仕草で、腕を振り払おうとするのを、そうはさせずに、承太郎は花京院をまたベッドの上に引き戻した。
 「その前に、体を見せろ。どこかに、傷でも残ってないか---」
 「傷は仗助くんがちゃんと治してくれた。心配ない。」
 「いいから見せろ。」
 制服に残った血の跡を見て、もう大丈夫だと言うのが、どうしても自分の目で確かめなければ信じられず、仗助のスタンドを信用していないわけではなかったけれど、たとえあざのひとつでも残っていたらと不安になる。
 一度死体になってしまった花京院を、腕の中に抱いて名前を呼び続けた記憶が甦る。あの時もそうだった。腹には、背中まで貫通した血まみれの穴が開いていて、それを目の前に見てすら、死というものが受け入れられず、だから花京院は、今ここにいる。
 今日も同じだった。体に開いた穴は、もう仗助のクレイジー・ダイヤモンドが間違いなく塞いでしまっているだろう。けれどそれを、承太郎はどうしても自分の目で確かめたかった。
 両腕を取られて、花京院がもがいた。
 「おとなしくしろ、何もするつもりはねえ。傷が残ってねえか、見たいだけだ。」
 白々しく聞こえるだろうかと思いながら、暴れる花京院にそう声を掛けて、体の重みを掛けないように気をつけながら、承太郎は花京院を自分の体の下に引きずり込む。
 思ったよりも抵抗が強いのに、そうするつもりではなく、掴んだ腕に力を込めてゆく。承太郎は、ベッドに押し倒した花京院の上に乗りかかる形で、本気で不快を表してハイエロファントグリーンを呼び出そうとした花京院の気配を察して、それよりも一瞬早くスタープラチナを出現させた。
 シーツの上に縫いつけられた花京院の全身はうっすらと翠に光り、承太郎は、薄青い輪郭に縁取られている。
 下から承太郎をにらんで、観念したように喉を伸ばしてあごを突き上げると、花京院は反らしていた胸を元に戻して、シーツの上に沈み込むように全身の力を抜いた。ハイエロファントを出しても、スタープラチナにはかなわない。今は、ハイエロファントを動かすだけでも、まだ息が切れそうになる。
 好きにすればいいと投げやりに言い捨てて、顔を横に向けるのと同時に、ハイエロファントを自分の中に戻した。
 承太郎は、数秒様子をうかがった後で、花京院から手を離し、まだ指先にはうっすらとスタープラチナを重ねたまま、その指で、花京院の制服の襟のホックをそっと外した。
 体の位置をずらして、裾の長い上着の前を全部開ける。それから、何者をも拒むように、常にきっちりととめられている、白いシャツのいちばん上の小さなボタンを、スタープラチナが外した。
 シャツも、上着の下で血に染まっていた。乾いてごわごわになった薄い布地が、そこから次第に現れる、花京院の血の気の足りない肌の色をいっそう青白く見せ、承太郎は帽子のつばの陰でこっそりと眉を寄せる。
 胸の中で、ひとつふたつと外したボタンの数を数えているのに合わせて、唇が動いていることに気がつかない。
 胸元で動く承太郎の指先を、観察するように花京院が下目に見る。不快の色は消えていて、けれど今度は、落ち着かなげに瞳をあちこちに動かし、また顔を背ける、そんなことを繰り返していた。
 承太郎は、息をひそめて、目の前であらわになる花京院の体に、けれどまだ何の痕跡もないことに安堵しながら、4つ目のボタンを外した。
 そこで、ふと手が止まる。開いたシャツの合わせ目から、色の違う皮膚が見えて、何かと確かめるように目を細めながら、承太郎は5つ目のボタンも外した。
 やや乱暴な仕草で、ひどく慌ててシャツの裾をズボンから引き出そうすると、それを助けるように花京院が軽く腰を持ち上げて、6つ目のボタンに掛かった承太郎の指先に、そこでやめろと言うつもりなのか、そっと触れる。
 自分を見上げる、まるで憐れむような花京院の視線に気がついて、けれど承太郎は慌しく残りのボタンも全部外すと、シャツの前を一気に開いた。
 あざは見当たらない。血で汚れてはいるけれど、今日の傷は、ほんとうにきれいに治ってしまっているように見えた。仗助に感謝しながら、息を吐こうとして、けれどできなかった。
 承太郎は息を止めたまま、花京院の体を見下ろしていた。
 凍りついたように、口元が動かない。瞬きすることすら、意識しなければできなかった。
 今日の傷ではない。エジプトでの傷だ。DIOに砕かれた時の、あの傷だ。傷自体は治っていると、SPWの医師は言った。跡は残っている、けれど傷は完治している、それを聞いただけだ、傷跡のことなど、考えもしなかった。
 縦横に走る長い縫い跡は、それ自体が皮膚を引きつれさせて、そこだけ薄いように見えるみぞおちの辺りの皮膚は、奇妙につややかに光って見える。引き裂かれてしまった皮膚を、無理矢理縫い合わせた跡だ。傷跡のある右側は、どこか歪んで見えて、なぜだろうかと目を凝らせば、そちら側の肋骨の数が足りないのだと、ずいぶん経ってから気づく。
 明るいところで抱き合うことは滅多となかったけれど、承太郎が覚えているのは、健やかな花京院の体だ。腹の皮膚はなめらかで、撫でる指に引っ掛かる何もなかった。どの骨も、全部揃っていた。抱いて不自然と感じるところなど、どこにもない体だった。わざわざ比べたことはなかったけれど、承太郎のその体と、どこが違うとも見えない体だった。
 この体を再生させるために、あれだけの時間が必要だったのだと、目の当たりにすれば素直に納得できる。あの時、花京院は確かに死体だったのだと、この傷跡のむごさが、今さら承太郎に伝えてくる。
 縫い跡は、毒々しいほど赤く、触れれば傷口が開いてしまいそうに生々しい。
 そこに、震える指先を伸ばそうとした承太郎を避けるように、花京院は体を起こして、シャツの前を軽く合わせた。
 承太郎は、帽子のつばの陰に表情を隠したまま、花京院の上から下りると、ベッドの端にまた腰掛けた。もう自制も効かずに、両手の指先で目の辺りを覆って、ずっとつめていた息を大きく吐き出す。上下するその背中を見つめながら、花京院はようやくベッドを下りて、承太郎の前に回って来た。
 「君が、そんな顔をするのがわかってたから、見せたくなかったんだ。」
 ボタンをとめない上着とシャツを合わせて、自分を抱くようにしながら、花京院は承太郎から少し離れてそこに立った。
 今見た傷跡のひどさに、承太郎は、あの時感じた後悔を、また思い出している。
 なぜ、花京院と離れ離れになったのかと、それが自分が言い出したことだったからこそ、自分が許せなかった。自らを囮にして、DIOのスタンドの秘密をあばこうとしたのだと、ジョセフに聞いた。そうして、それは果たされたけれど、DIOのスタンドの拳は、容赦なく花京院の腹を貫いてしまっていた。後に残ったのは、水と血に濡れた花京院の、もう動かない体だった。
 承太郎はあの時、何もかもを、死ぬほど悔やんだ。救われた世界に、けれど花京院がいないなら、そこには何の意味も見出せないと思って、だから、花京院を引き止めた。ひとりで先に逝かせる気など、毛頭なかった。
 ハイエロファントが花京院を守ったのは、あれは一体誰の意志だったのか。花京院自身のものだと、あの時は信じて疑わなかったけれど、今こうして花京院を眺めていれば、それも曖昧になって来る。
 何もかもすべてが、自分ひとりの不様な思い込みの所産かと、その滑稽さに笑いまでこみ上げて来そうになった。
 暗い気分に襲われて、花京院の目の前だと言うのに、気が滅入るのを止められない。承太郎は相変わらず目元を覆ったまま、17の自分を目の前に引き出して、殴りつけてやりたいと思った。
 後先など深くも考えずに、そういう気分だと言うそれだけでどんな行動もできた、あの頃の自分を妬ましいと感じる。そして何よりも、あの時の花京院と、今の花京院が間違いなく恋しているのだろう、あの頃の自分を、心のどこかでうらやましがっている今の自分を、大声で嘲笑ってやりたかった。
 花京院は、顔を隠している承太郎の心の動きを正しく読み取って、だからこそ、服を脱がせようとした承太郎の手を拒まなかった自分のことを、愚かだと思っている。
 この傷跡を見た最初に、承太郎の反応を予想して、今まさしくその通りのことが起こっている。
 痛み、後悔、負い目、責任、同情、そんなものが様々な割合で複雑に合わさった、今の承太郎の感情が、花京院には正しく読める。
 だからこそ、この傷跡を見せたくないと思った。そうして、同時に、たとえそれが憐れみからにせよ、責任感からにせよ、承太郎と自分を繋いでいる何かを、より強める役目を果たしてくれないかと、卑屈なこともちらと考えたことも事実だ。
 花京院にとって問題だったのは、この傷の醜さではなく、この傷によって承太郎が喚起されるだろう、色々のことだった。
 花京院自身にとってそうであるように、この傷は、否応なしにあのエジプトでのことを思い出させる。血にまみれた思い出だ。花京院にとっては、奪われてしまった10何年という時間と、承太郎にとっては、花京院がいなかったというその時間の長さと、そうして何よりも、その原因のひとつだと、承太郎が自分自身を責めている。
 死に掛けた傷の痛みなど、花京院自身はもう覚えていない。けれど承太郎は、この傷を自分の身に写して、ずっと抱え込んでいたのだ。花京院が目覚めるまで、治癒することもなく、承太郎は痛みにひとり耐え続けていたのだと、今さら花京院は気がついていた。
 ああそうかと、花京院は、胸の中でつぶやく。
 この傷は、承太郎自身だ。承太郎も、花京院と同じほど、あるいはそれ以上に、今も満身創痍のままだ。
 思わず、自分の腹を見下ろして、そこに掌を重ねた。
 自分が傷ついたことで、承太郎が傷ついたのだと、そう気づけば、継ぎ合わされたこの体で蘇生したことで、承太郎の一部は救われ、けれど別の一部は、だからこそまだ傷つき続けているのだとわかる。
 まだ幼い好奇心で、あの時は無茶ができた。膚を合わせることで、わかり合える何かがあった。今はどうだろうかと、花京院はぼんやりと思う。
 承太郎はようやく顔を上げ、数歩先に立っている花京院を見た。
 何度も掌でごしごしと顔を拭ってから、まだベッドから立ち上がろうとはせず、散々考えた末にやっとというふうに、おもむろに口を開く。
 「背中も、見せてくれ。」
 口調は穏やかだ。けれど承太郎の目は、どこか悄然とした色を浮かべていて、花京院は、その目をなるべく無感動に見返した。
 「背中?」
 「ああ。」
 わざわざ念を押すように聞き返してから、花京院は、承太郎にゆっくりと背を向ける。
 シャツと上着を一緒に、肩から滑り落として、肘の辺りまで引き下ろすと、背中の傷が見える位置まで、だらりと両腕を下げた。
 背中にも、同じような縫い跡が、深く長く何本も刻まれていた。足りない肋骨の分、その辺りは奇妙な凹みを見せて、そのせいなのか、右肩がやや下がっているのが、後姿によく見える。
 まるで、絵のモデルか何かのように、花京院は承太郎の視線を感じながら、振り返ることもせず、そのまま数分、身じろぎもしなかった。
 傷跡を、視線の先に何度もなぞって、花京院がまたシャツと上着を元に戻すまで、承太郎は、細めた目をそこに据えたままでいる。
 何かを吹っ切るように、前髪をかき上げてから、花京院はシャツのボタンをとめ始めた。承太郎の方へ斜めに肩を向けて、視線は合わさずに、手早く晒していた体を隠そうとする。
 「部屋に戻るよ。明日の朝は起こさないでくれ。」
 言いながら、承太郎の反応は待たずに、もうドアの方へ向かおうとしていた。
 一歩足を踏み出して、顔を上げた次の瞬間には、目の前に承太郎がいて、ドアへの道筋を塞ぐように、そこに立ち塞がっている。
 時間を止めたのだとわかるまでの一瞬、驚いて後ろへ下がろうとした花京院の腕を、承太郎が素早く掴んだ。
 「行くな、花京院。」
 低い、凄むような声---花京院には、効かない---なのに、浮かんだ表情はそれを裏切っていて、承太郎はひどく悲しげに見える。
 振り払おうと思えば、簡単に振り払える承太郎の手だったけれど、今は、何かが花京院を止めていた。
 もう少しで、頭の中の歯車がきちんと噛み合う、そんな予感があった。
 伏せ目に、承太郎が、低めた声を震わせた。
 「もう、てめーを行かせて、後悔なんかしたくねえ・・・。」
 声と、表情と、掌にこもる力と、それが、ゆっくりと花京院の中で結びついて、17歳の承太郎の像を結ぶ。その承太郎と今の承太郎が、かちりと音を立てて、ぴたりと重なった。重なって、もう、ずれる様子も見えない。ああ、これが承太郎だと思いながら、花京院は、自分の腕を掴んでいる承太郎の手に、自分の掌を乗せた。
 「花京院・・・。」
 せつなげに自分の名を呼ぶその声を、自分の唇でふさいだ。
 伸び上がって、あごを上げて、この角度には覚えがある。あの時は確か、ふたりとも裸だった。あの時の続きができるだろうかと、花京院は、触れるだけの口づけをほどいて、上目に、少し驚いている承太郎を見つめた。
 承太郎の両手が、壊れもののように頬に触れる。花京院を上向かせて、今度は承太郎の唇が降りてくる。
 うっすらと開いた唇の中に、乾いた血の匂いが流れ込んできた。
 もう迷わずに、花京院は、承太郎の広い背中に両腕を回した。
 髪の中に入り込む承太郎の指から、驚くほど早く、体温が伝わってくる。
 もう大丈夫だと思いながら、花京院はひとり微笑んでいた。
 「承太郎、一緒に、シャワー浴びないか。」
 戸惑いと疑いの表情を露骨に浮かべて、承太郎が一瞬黙る。目の前の花京院が、どこかですり替わった偽者ではないかと、ふと下らないことを考える。
 「・・・いいのか。」
 いっそう長く喉を伸ばして、薄い唇の端が上がったのは、間違いなく笑みだった。
 「ひとりで浴びて、僕が倒れでもしたら君が困るんだろう。」
 久しぶりに見る、花京院の爽やかな笑顔だった。


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