雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

8) 一筋の紅B


 その場で脱いだ上着は、足元の床に放ったままで、バスルームへたどり着くまで、次々に服を脱ぎ捨てながら、不躾けに明るいバスルームの中で、花京院が先に裸になった。
 狭いユニットバスの縁を、先に乗り越えて、動く背中や腰の線を、承太郎が見ている視線を感じる。
 以前に比べれば、今は少しばかり貧相に見えるのだろう自分の体を、けれどもう隠すこともせずに、花京院は肩越しに、服を脱いでいる承太郎をちらりと振り返って、シャワーカーテンを引いた。
 ここに、承太郎とふたりは狭いなと、そう思った通り、降り落ちるシャワーの勢いづいた水の下に、後ろから抱きついてきた承太郎は頭ひとつ分収まらない。
 髪を濡らしながら、体の汚れを拭う花京院の手を、承太郎も追い駆けながら手伝った。
 「・・・気が早いな、承太郎。」
 背中のくぼみに当たるそれを、苦笑を込めて、からかうように言った。
 承太郎は、水に濡れた花京院の首や肩に軽く噛みつきながら、いっそう強く体を押しつけるようにして、花京院の腹の傷跡にそっと掌を乗せる。そこに数秒とどまった後で、滑らせた指先が、下腹に移動して、反応をうかがうように、するりとかすめる。
 まだ何の手応えもない。さり気なくまた手の位置を動かすと、空いている片手を、濡れた花京院の髪の中に差し込みながら、ひどく優しい声を使う。
 「・・・いやなら、そう言え。」
 くくっと、自嘲のように、花京院が笑った。
 自分の体を巻く承太郎の腕を、一緒に抱き込みながら、その輪の中で体の向きを半分だけ変える。
 ろくに濡れてもいない承太郎のあごの辺りに、軽く背伸びをして濡れた唇を当てた。そうして、鎖骨のくぼみに額を当てて、自分を抱きしめてくる承太郎の両腕の中で、大きく息を吐く。
 「君のせいじゃない。目が覚めてから、まだ体がよく動かないんだ。」
 言いながら、承太郎の背中を撫で、腰や腿にまで手を伸ばす。記憶よりも厚みを増したように思えるのは、どうやら錯覚ではないらしく、あの頃、削いだように薄かった腹の辺りにも、厚く筋肉が増している。
 「僕のことは、気にしてくれなくていい。」
 こうして裸で抱き合っても、何の反応も示さない自分の体をちらりと見下ろしてから、うなじから指を差し込んで来て、濡れた髪をすく承太郎のその指に引っ張られて、花京院は軽く上向いた。
 熱い湯に叩かれた肌が、血の色を取り戻している。正面から抱き合って、雨のように降ってくる水を飲もうとするかのように、軽く開いた花京院の唇に、承太郎の湿った唇が重なって、湯気に包まれながら、ふたりは互いの背に両腕を回した。
 水に濡れた胸が滑る。濡れた舌はしっかりと絡まって、主には承太郎に奪われる形で、息苦しさにあえぎたいと思うのに、それよりも爪先を伸ばして、花京院は承太郎にもっと体を押しつけた。
 目覚めて一度も、こうなることを考えなかったと言えばうそになる。それでも、自分が飢えていると自覚したことはなく、躯の機能がまだ完全に戻っていないことを悲観する余裕もないかったから---何しろ、まだ少年のままだから---、それはそういうことだと、そのままを受け入れていた。けれど今は、承太郎に対して、目に見える形で反応できないことに、少しばかり気が咎めている。
 それを気にして、まだ肝心のところへは手を伸ばせないまま---互いに---、口づけだけがむやみに深くなる。
 舌先を軽く噛まれ、湿りを帯びて柔らかくなった唇も、承太郎が噛む。舌を、全部飲み込まれるような感触の後には、ついばむだけの接吻になって、あごや頬の辺りに唇が滑る。
 予想に反して、先を急ごうとはしない承太郎の腕の中で、花京院はもう何に憚ることもなく、手足を伸ばしている。
 何もかもすべて、何がどう起こるにせよ、承太郎に任せておけばいい。あの頃、互いに手探りだったことはすべて、もう承太郎は学び尽くしているのだろうし、長い間待たせてしまったこと---不可抗力だったとは言え---を、そうやって埋め合わせようと、花京院はまた目を閉じる。そうしながら、自分がそうしたいのだと、素直に気がついて、花京院は思わず承太郎に微笑みかけていた。
 承太郎は、花京院を抱き寄せたまま、バスタブの中にゆっくりと腰を下ろした。
 正面から抱き合う形で、長い脚の間に花京院を収めて、それから、バスタブの縁に置いておいた、シャンプーの小さなボトルを手に取る。
 うっすらと色のついたシャンプーを掌の中で泡立てると、もう子どものように逆らいもしない花京院の、濡れて重くなった髪にまんべんなく塗りつける。指を通すたびに、白い細かな泡が行き渡り、湯気にくもった、シャワーカーテンで区切られた小さな空間に、柑橘系の匂いが立つ。
 花京院は、承太郎の大きな手が自分の髪を探るのに、気持ち良さげに目を閉じて、喉を反らした。
 背中に当たるシャワーの方へ頭を動かせば、承太郎の手が作った泡が、さらさらと流れてゆく。泡だらけの承太郎の手に、頬をすりつけて、ここでこのまま眠ってしまいそうだと、うっすらとだけ開いた目で、正面の承太郎を見つめた。
 承太郎は、花京院の髪を何度も撫でて、白い泡を全部流してしまうと、珍しくすべてあわらになった花京院の額に、そっと唇を押し当てた。
 一房だけ長い前髪も後ろに向かって撫でつけて、承太郎は、シャンプーの匂いの残る指先で、形の良い眉や頬骨に触れる。そうして、まだそこに残っている、ちょうど目の辺りを切り裂かれた痕にも、唇を触れさせた。
 「跡が、残っちまったな・・・。」
 いつかは消えるだろうと思っていたのにと、少しだけ声が沈む。それを、花京院が笑う。
 「近くで見なければわからないよ。視力に影響がなかったんだ、それで充分じゃないか。」
 この間、同じほど近く顔を寄せて、仗助にこの傷を見せた時のことを思い出す。唇や鼻筋がそっくりだと、血の繋がりに目を細めて、けれどこうして見れば、やはり承太郎は承太郎でしかなく、似ているということは、つまりは違うということでしかないのだと、思いながら承太郎の首に両手を添えた。
 また、濡れた唇が重なった。
 切られた目元を包帯に覆われて、その間、見えないと承太郎にだけは不安気に、しきりと腕を伸ばす。触れているか、言葉を交わしているか、どちらかだった。承太郎は、あの時のことを思い出している。もし傷が治らなかったらと、口にはせずに考えていた。花京院の目が見えなくなったら、一体自分に何ができるかと、その目の代わりになれるだろうかと、考えても仕方のないことを、肩を並べて眠った夜には、砂漠の星を見上げて、祈りのような言葉も口にした。
 何に、どれほど感謝を示せばいいのかと思いながら、承太郎は今目の前にいる花京院を抱きしめる。
 ずっとこうしたかったのだと、唇に言わせて、花京院のまぶたに、もう一度口づけた。
 血の匂いがあらかた消えて、またシャンプーを手に取ると、今度は花京院もボトルをよこせと手で示す。ふたりで、掌に泡を立てて、承太郎はそれを花京院の髪に、花京院は承太郎の髪に、さっきよりももっと体を近づけて、ふたりは互いの髪を洗い始めた。
 泡が目に入らないように、少し喉を反らして、一度泡の通ってしまった花京院の髪は、もう柔らかく承太郎の掌に添い、承太郎のまだ泡の馴染まない髪に指を滑らせながら、花京院は、掌全部で承太郎の頭の形を探る。
 腕を前に伸ばしていると、少しずつだるくなる。それでも、丁寧に互いの髪を洗って、いつの間にか、ふたりは声を立てて笑い合っていた。
 首筋や胸に、泡が流れる。それを、泡だらけの指先で追って、思いもかけないところに触れながら、そうして、何もかも忘れたように、また唇を重ねる。
 まだ、一緒に息を弾ませることはせずに、じゃれ合いながらやっと髪を洗い終わると、今度は、互いの体に石けんを塗りつけ始めた。
 承太郎の首や肩に掌を滑らせていた花京院が、ふとその手を止めて、承太郎の膚の上に目を凝らす。
 「君も、傷だらけだな。」
 花京院ほど大きな傷跡ではなかったけれど、目立つそれは、数え切れないほどあった。
 縫った跡がほとんど見えないのは、大した治療を受けなかったからだろう。自然に治るに任せただけらしい傷跡は、どれも盛り上がって、いくつかは、えぐれたように深い。
 ぬるつく掌を滑らせながら、花京院は、傷跡の上で時々その手を止めた。
 「これは・・・僕が手当てしたヤツじゃないか、違うか?」
 左の二の腕の、肘のすぐ上に走る、少し長い傷跡を見つけて、思わず花京院の顔が明るくなった。
 承太郎は、花京院が指差すそこを、腕をひねって見下ろして、つられたように微笑んだ。
 「ああ、確かそうだったな・・・。」
 深い傷ではなかった。ようやくホテルに落ち着いて、体を洗って、そうして、いつもそうするように、傷の手当てをする。たいていは、洗って、せいぜいガーゼで覆うだけですましてしまうけれど、その傷は、ざっくりと肩近くまで裂けていたし、自分ではよく見えない位置だったから、花京院が洗った後のことは全部した。大袈裟かなと言いながら、包帯を巻いて、この旅の間に、すっかりこんなことにも慣れてしまったと、ふたり一緒に笑った。笑って、その後で、いつものように抱き合った。
 流れる水の下で、ふたりは奇妙に穏やかに、互いに向き合っている。
 もう少し切羽詰っていた、さっきまでの焦りの浮いた表情はすっかり消えて、何が目的だったのか、一緒に忘れてしまっている。それは、やけに心地良い感覚だった。
 残っている泡を全部流すために、またバスタブの中に立ち上がって、けれどもう、互いに触れた腕はほどかずに、口づけを少しずつ深くする。
 あごや首筋に歯を立てて、さっきまでよりはもう少し際どい辺りにも手を伸ばす。息が、次第に弾み始めていた。
 承太郎は、指先に、花京院の背中の傷を探った。縫い合わされるために、不自然に伸ばされた薄い皮膚の感触を、けっしてそこを裂いてしまったりはしないように、慎重な仕草で、何度もなぞる。縫い跡の隆起も、ひどくいとしく思えて、承太郎は長い間そこから手を動かさなかった。
 触れているうちに、熱くなった皮膚が溶けて、そこからひとつになってしまえるかもと、そんなことを考える。
 体が火照るのは、シャワーの湯のせいだけではない。
 赤みの増した花京院の唇を見下ろして、思わず名前を呼んだ。花京院も、応えるように、承太郎の名を呼んだ。
 同じように欲しがっていると、そう思えて、承太郎は、流れる水を拭うような仕草で、花京院の下腹に手を伸ばす。そうしながら、足の位置を変えて、花京院の背中をタイルの壁に押しつけた。
 承太郎の指の動きを見極めようとして、花京院が息を飲む。ひゅっと喉が音を立てて、苦しげに眉が寄った。
 掌に包み込んで、動かす指に、けれど手応えはなく、やはり無理かと承太郎が思うよりも早く、その手を花京院が止める。
 「・・・いい。僕は、無理だ。」
 羞恥と罪悪感を浮かべて、承太郎のために、花京院が小さく首を振る。
 細いその声をすくい取るように、また口づけを重ねて、承太郎は素直に外したその手で、花京院の手を取った。
 少しの間治まっていたそれが、また猛々しさを取り戻している。花京院の指が、ついにそこに触れると、承太郎の心臓が、一拍跳ねた。
 指の長い花京院の掌に自分の手を重ねて、承太郎は、そこでこすり上げる動きを始めた。承太郎の手の動きに従って、花京院の掌がそこに滑る。
 唇は触れ合ったまま、舌も絡み合っていた。まだぎこちない手の動きを補うように、花京院の舌の方が、承太郎を追ってくる。
 シャワーのせいではない熱で、花京院の胸元が、まだらに赤く染まっていた。
 穏やかな指の動きでは少し足りず、承太郎は、花京院の手を取り上げると、自分の首に回させた。それから、いっそう強く花京院を壁に押しつけて、けれど腰だけは自分の方へ抱き寄せる。
 少しばかり身勝手に先走るために、花京院のなめらかな下腹に、押しつけて、動く。
 突然触れた承太郎の熱さに、花京院があえぐ。うまくそこで滑るのが、流れる水のせいだけではないと悟って、痛いほど強く抱え込まれた腰を、自分から承太郎へ押しつけて、動く承太郎に必死に躯を添わせてゆく。下腹を密着させたくて、片足を上げると、曲げた膝で承太郎の腰を引き寄せようとさえした。
 何もかもが、承太郎を欲しいと言っていて、けれど何の反応も示さないそれに、承太郎の熱が時折触れる。花京院は焦れながら、耳のそばで聞こえる承太郎の荒い息に、一緒に呼吸を重ねていた。
 承太郎と同じような昂ぶりを、見える形で示すことができずに、今はただ、少なくとも傷のない平たい皮膚の上に、承太郎が果てようとしているのを、どうしていいかわからないまま、手助けのために、一緒に躯を揺らすだけだ。
 憶えのある、細かな痙攣が胸に伝わってきて、そうして、大きく息を吐き出しながら、承太郎が花京院を抱きしめた。
 ふたりの腹の間で、ぬめりが水に流れてゆく。
 花京院の額や頬に唇を滑らせながら、承太郎が小さな声で訊いた。
 「・・・ベッドに行くか。」
 濡れた花京院の髪を、承太郎の大きな手が撫でていた。
 視線をそらしたまま、小さく数回うなずいて、照れ隠しのために、花京院は背伸びをして、承太郎の下唇に噛みついた。


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