雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

8) 一筋の紅C


 濡れた髪の水気だけはかろうじてきちんと拭き取って、その間も口づけはやまずに、湿ったタオルは、バスルームを出たところの床に放ったまま、ベッドまでの道筋に脱ぎ散らかされた服を素足で踏みながら、それを気にする余裕も、今はない。
 ベッドに転げ込んで、上掛けの下にすっぽりと隠れて、忍び笑いはしばらく治まらなかった。
 まだ湿った体をぴったりと重ねて、手足を絡めて、ついばむような接吻を繰り返す。小さな笑いが交じって、その間に、弾む息を交わす。
 ぴんと伸びたシーツを、しわだらけにしながら、主には承太郎の重みに喉を反らして、花京院はあえぐ。
 隔てもなく肌を合わせることは、こんなにも暖かな気持ちになることだったかと、まだ恥ずかしさは完全に消せないまま---多分、ずっと消えることはない---、承太郎の熱さに引きずられた形で、次第に心が開いて行った。
 ようやく、間近で見つめ合うのに飽きてしまったというふうに、承太郎が体の位置を少しずらす。
 花京院のあごや頬には掌を添わせたまま、承太郎は鎖骨や胸の辺りを通り過ぎて、いきなり腹の傷跡に唇を押し当てた。
 皮膚が薄くなっているように思えるそこは、他のどこよりも敏感に反応を返して、花京院は思わず体を起こしかけた。けれど承太郎の指先が唇を割って、気にするなとでも言いたげに、濡れた唇の裏をなぞってくる。
 考える間もなく、花京院はその指をもっと中へ引き入れて、舌の上へ乗せていた。
 花京院の舌の動きに合わせるように、承太郎は、腹の傷を舐めた。
 縫った跡が始まるところから、隆起の部分をすみずみまで、舌の先でなぞる。そうすれば、走るその傷を剥ぎ取れるというように、あるいは、ただ、いとしさを表すために。
 皮膚は確かに、薄くなっているように思えた。
 濡れた舌がそこに触れるたび、花京院の腹筋が波打つ。声を殺す気配が、口の中にある承太郎の指に伝わる。花京院は、まるでしがみつくように、伸びた承太郎の腕を取って、自分の唇から逃すまいと、時折軽く歯を立てる。
 柔らかく食い込む花京院の歯列の確かさに、承太郎はいっそう煽られて、また腹の傷を、まばたきが触れる近さで見つめて、色の変わってしまっているその部分の皮膚を舐める。
 あの穴は、実際にはどれほどの大きさだったかと、もう血の匂いも味もないことを、自分の舌に確かめさせるために、承太郎はあの時を思い出しながら、いくつも走る大きな傷を飽かずになぞった。
 乾く暇もないまま、承太郎の手指は花京院の唾液で濡れ、花京院の傷は承太郎の唾液に濡れた。
 花京院が抵抗しないことを確かめてから、そっと腕を引き戻しながら、また唇へ向かって伸び上がってゆく。
 もう、何のためらいも示さずに開くその唇に舌を差し出して、承太郎は、再び短い接吻を重ねて、一度自分の両腕の中に花京院を抱きしめる。
 その間に、左手で首筋を撫でて、鎖骨の形を確かめて、指先に、肋骨の数を数えた。
 1本足りない。おそらく粉々に砕けて、ハイエロファントグリーンも再生しきれなかったのだろう。そこだけ形の変わってしまった、みぞおちと脇腹に近い辺りの線に、指を乗せる。ないなら、なくてもいい。体の形と皮膚の感触と、その変化すら花京院のものだと思えば、胸の中に湧くのは、もう果てもないいとしさだけだ。
 自分の肩や背中を抱く花京院の掌に目を細めて、承太郎はまた、体の位置を変えて、花京院の傷の辺りに顔を埋(うず) めた。
 まだきちんとある肋骨のくぼみをなぞる。骨張ったその部分は、たやすく皮膚を噛み裂いてしまえるように思えて、規則正しく並んだ肋に歯を立てて、ふと、自分の痕を残せないかと、物騒な考えも一瞬浮かんだ。
 失くなっているから、いっそう深いそのくぼみに、まだ舌を這わせる。血を舐め取るような仕草で、動物は、そうやって傷を治すのだと思いながら、承太郎は、完治してしまって、今は跡だけのその傷を、もっと治したくて、熱心に舐めた。
 耐え切れなくなったように、花京院が体をねじる。
 承太郎は、そのまま花京院の体を裏返した。
 濡れたまま重い髪に、耳の後ろ辺りを狙って鼻先を埋める。一緒に洗った髪は、きっとふたりとも同じ匂いだと思って、ピアスの下がった耳朶を、金具と一緒に甘噛みする。花京院の耐えていた声が、殺し切れずに思わずもれた。
 脇腹や腰に、もう躊躇もなく掌を滑らせて、そうしながら、肩甲骨に歯を立てて、背骨を下へ追う。健やかさのあかしのように、筋肉ばかりの背中と、ひたすらにまっすぐな骨の並びだった。
 そうして、腹と同じに、そこにもくっきりと浮いた傷跡に、承太郎はまた心づけの口づけを落とした。
 花京院の背中に、ぴったりを胸を重ねて、体の重みを少し気にしながら、昂ぶりとともに慌しくなる手指の動きを自制する。
 また耳を舐めると、細く息を吐いた花京院が、まるで誘うように、軽く腰を持ち上げた。
 シーツに顔を伏せたまま、小さな声で、けれどはっきりと言う。
 「・・・別に、僕は、後ろからでも・・・。」
 承太郎がこの姿勢に持ち込んだのを、つまりそれを求めてのことだと思ったのか、少しだけこちらに向いた横顔が、そうとわかるほどはっきり赤い。承太郎は、思わず苦笑をもらした。
 「やめとけ。無理しててめーが壊れたら、元も子もねえ。」
 承太郎の言葉を受け取って、けれど納得できないように、花京院はちょっとあごを引く。
 「君は、僕を壊したりは、しないだろう?」
 言いながら、語尾が少し不安定に上がるのは、ほんとうにそうかどうか、確信が持てないからだ。
 どうしたいのか、自分ではよくわからないという表情で、承太郎を上目遣いに見て、花京院は体の向きを正面に戻した。
 「おれの忍耐を試すな。てめーが無理する必要はねえ。」
 「無理じゃないかもしれないじゃないか。」
 ここまで来たら、もう踏みとどまっても仕方がないような気がして、花京院は結果も考えずに言いつのる。あやすように承太郎が頬を撫でてくる手つきが、自分をばかに---あるいは、子ども扱い---しているように思えて、思わず唇をとがらせる。それがいっそう自分を幼く見せるのだとは気づかずに、承太郎の手を避けようと、花京院は軽く首を振った。
 「てめー、もう忘れたか。無理だできねえって、一晩中言ってやがったくせしやがって。」
 「あの時とは違うだろう。」
 そう言われて思い出して、うっかり声が高くなる。それとは逆に、承太郎の声は低い。
 「何が違う?」
 言い聞かせるような声音には大人の余裕がうかがえて、花京院はまた頬を染めた。目を伏せて、承太郎の方を正面からは見ずに答える。
 「だって、君はもう、初めてなんかじゃ、ないだろう。」
 今度は、語尾は上がらない。
 思った通り、承太郎が少しの間黙り込む。
 体を起こしながら、花京院を引き寄せて、あの頃いつもそうしていたように、開いた両脚の間に互いを抱き込む形で、正面から抱き合う。
 肩に花京院の頭を乗せて、承太郎は少しばかり罪悪感を感じながらつぶやいた。
 「いやか・・・?」
 髪を撫でる承太郎の手に目を閉じて、2拍数えた後で、花京院はそこで首を振った。
 「いやじゃない。ただ、僕の知らない君が多すぎて、それが少し悔しいだけだ。」
 そう言ってしまってから、本音を伝えてしまったことに気が咎めながら、けれど胸の内を吐き出してしまったことには、心が不意に軽くなる。
 承太郎の手に従って顔を起こすと、触れないぎりぎりの近さに、唇があった。
 「がっついてない君なんて、君じゃないみたいだ、承太郎。」
 そう言ってから唇に噛みつくと、それを避けてからお返しだと花京院の唇に噛みつき返す承太郎が、
 「・・・やかましい。」
 言いながら、花京院の腿の内側に手を滑らせてきた。
 一向に形を変える様子のないそれを、大きな掌が包み込んでくる。いたわるように撫で上げられて、花京院は、うっかり声を殺すために、承太郎の厚い肩に歯を立てた。
 もう少し躯を近づけて、花京院も承太郎に手を伸ばす。
 どちらからともなく、唇を重ね合わせて、互いに触れ合った。
 承太郎のそれは、花京院の掌に確かな手応えを返して、記憶よりも少々手に余るように思えるのに頬を染めて、片手では扱い切れずに両手を添える。
 唇だけではなく、あごや首筋にも唇を滑らせて、承太郎が時々、花京院の一房長い前髪を噛む。そうしてまた、差し出した互いの舌を、どちらが先に、もっと深く誘い込めるか、競うように喉を開く。絡む唾液は、次第にあふれてくる指先の湿りと、どこか似ていた。
 何の変化もないことに焦れるのをやめて、承太郎は、高めるためではなく、いとおしむためだけに花京院に触れている。傷のせいで、躯の機能が完全でないというのなら、完全になるのを待てばいい。焦っても仕方のないことだと思って、それがいつか、自分に応えてくれるだろうかと、かすかな希望は捨てきれずに、あの頃、触れる時はいつだってその存在を主張していたその感触を思い出しながら、傷めないようにそこで手指を使う。柔らかな手触りが珍しくて、承太郎はいつの間にかそれを愉しんでいた。
 同じように息を弾ませて、けれど先は急がずに、どこが終わりとも知れずに、時折背中や胸にも触れながら、ふたりは、躯と同じほど、近く心を寄せ合っている。
 生乾きの髪が、触れた額で絡み、時々きゅっと音を立てた。
 「承太郎・・・。」
 せつなそうに呼ばれて顔を上げれば、花京院が、熱に潤んだ瞳で、いたずらっぽく笑っている。
 なんだと承太郎が眉を動かすと、鼻先を触れさせて、笑いを含んだままで花京院が言った。
 「僕らのしてるこれは、なんて言うんだ? やっぱり、これもセックスって言うのか。」
 していることは、あの頃と同じだ。マスターベーションの延長だと、ふたりがそのつもりでいた、同じことをしている。けれどそれとははっきりと違うと、ふたりともわかっていて、だから花京院は、あの頃は、はっきりそうとは言えなかった言葉を口にする。
 真摯な気持ちを、笑いにまぎらわそうとする花京院の口調を、けれど承太郎はそのまま引き取って、同じほどの真摯さを隠さずに、答えた。
 「何をどう呼ぼうと、おれたちには関係ねえ。おれとてめーがすることに、いちいち名前なんか必要ねえ。」
 そう言い切った承太郎向かって、どこか呆れたような表情を浮かべて、花京院が小さく首を振る。
 「君は、相変わらず君なんだな、承太郎。」
 一体どういう意味か、そんなことをつぶやいてから、花京院が承太郎を抱きしめる。背中の傷に掌を乗せながら、花京院を抱き返して、何かまずいことでも言ったかと、承太郎はちょっとの間視線をさまよわせた。
 花京院が、少し躯を離して、承太郎の胸を押す。承太郎の両脚の間から抜け出して体の位置を下げると、花京院は、開いたままの承太郎の脚の間に、そっと顔を埋め込んだ。
 手で触れるよりもそうすれば、何もかもが生々しくて、舌に触れる苦味にもかまわず、花京院は少しばかり必死に喉の奥を開いた。
 そうしなければ収まらない承太郎のそれを、口の中に憩わせて、少しずつ熱っぽくなる自分の舌の動きに、頬の辺りが上気してくる。
 承太郎の手が、そうしている花京院の、赤く染まった頬や耳に触れた。
 花京院が顔を動かすたびに、背中や腰が揺れるのを眼下に眺めて、承太郎は唇を噛む。
 今なら、これがひどく稚拙な動きだとわかるけれど、それがゆえに湧くいとしさを止められずに、承太郎は、花京院の湿った髪の中に指先を差し込んで、撫でるように飽かずにすいた。
 上目に、承太郎の様子をうかがう余裕すらなく、そうしなければならないという義務感ではなく、そうしたいという熱意をあらわに、花京院は、自然に動く舌と指---正しいやり方は、よくわからないにせよ---で、承太郎をいとおしむ。
 火照る頬や首筋を、いたわるように撫でる承太郎の指が、さらに熱を送り込んでくる。
 過ぎてゆく時間も、眠ることも忘れて、ようやくふたりは、分かちがたく結びついていた。


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