雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

9) 傷つけばいい@


 ジョセフが、仗助に会いにゆくと部屋を出たのを見計らったように、承太郎がやって来る。
 そのタイミングに、苦笑しながら承太郎を迎え入れた花京院は、ちょどおむつを替えた透明な赤ん坊を、ベビーベッドに寝かせたところだった。
 「ジジイは仗助と一緒か。」
 「ああ、今日は父子水入らずだよ。」
 承太郎が来た時にはいつもそうするように、まずはコーヒーメーカーのスイッチを入れて、それからもう一度、赤ん坊の様子を確かめてから、花京院はようやくソファに坐った承太郎の隣りに、少し間を空けて腰を下ろす。
 ホテルのビーチに出ていたのか、手にしていたノートを、ばさりと目の前のテーブルに放って、花京院の方を向いたまま目の辺りをこすっている承太郎からは、うっすらと潮の匂いがした。
 「何か、変わったことはあったかい。」
 「まだ何もねえ。」
 殺人鬼吉良との対決の後、花京院は2日ほど熱を出した。
 仗助の治してくれた怪我には問題はなく、久しぶりにスタンドを使ったための疲労だろうと、花京院は自分の部屋からは一歩も出ずに過ごして、3日目---昨日だ---の午後遅くには、その熱も無事に下がった。
 その間の承太郎の心配の仕方は一通りではなかったけれど、静かにしているのがいちばんだからと相手にもせず、SPWの医師に連絡を取ると言い出した時だけ、殴るぞというジェスチャーを、承太郎にして見せた。
 今日は普段通り、いつもの1日を過ごしている。
 「もう、熱は出ねえか。」
 承太郎が、まだ少し心配そうに、花京院の額に掌を伸ばしてくる。
 その手をよけることもせず、髪の生え際の辺りを承太郎の指先が探るのに、花京院は上目に微笑んで見せた。
 「大丈夫だ。熱が出たくらい、どうってことない。」
 エジプトでの怪我のせいで、確かにまだ体力は元には戻っていないのだと痛感したけれど、元々が健康な体だ。必要なのは休養だけで、特別な手当てではない。もちろん、吉良とのことで、死にかけたのは事実だとしても。
 コーヒーの匂いに、ふたり同時に、ソファの背越しにコーヒーメーカーの方へ振り向いて、先に立ち上がったのは花京院の方だった。
 承太郎はすぐに後を追って、そちらへ行きながら、廊下へ続くドアをちらりと見る。
 午後も半ば、ホテルの最上階に近いこの辺りには、人の気配は滅多にない。
 コーヒーを注いだマグをこちらに差し出すために、体半分ひねった花京院の腰の辺りに、コーヒーは後回しにして腕を伸ばす。
 「・・・コーヒーがこぼれるぞ承太郎。」
 抱き寄せられるのを避けるように、胸を反り気味にする花京院のこめかみの辺りに唇を近づけて、ほんとうに熱がないかどうか、確かめるために頬をすりつける。
 花京院が苦笑して、承太郎の、真っ白いロングコートの背をあやすように撫でて、もう片方の腕は、コーヒーのマグを遠ざけるためにあちら側へ伸ばした。
 こうして体を寄せれば、承太郎の首筋から、かすかな汗の匂いと潮の匂いと、そして何よりもいちばん強く---それでも、充分にかすかだ---、承太郎がいつも使っているコロンの香りが鼻先に立つ。
 少し伸び上がって、承太郎の首に腕を回すと、花京院は目を閉じてもっと近く胸を寄せた。
 承太郎にこんなふうに触れるのは3日ぶりだ。あの夜、承太郎の言うことを聞かずに無理していれば、熱も長引いたかもしれないと思って、結局触れるだけにしておいてよかったと、もちろん口にはしない。
 狭いベッドに、熱のこもった体をひとり横たえて、それでも呼べば承太郎がすぐにやって来てくれると思ったのは、あれは夢の中でのことだったのか。
 こうして抱き合うよりも、ひとりでいる時により強く承太郎を感じるのは、ようやく繋がり合えた---体が、ということではなく---と、心のどこかで感じているせいなのだろうと、花京院は伸び上がったまま少し胸を遠ざけて、下から承太郎を見上げた。
 それを誘いと取った承太郎は、花京院の唇の端に自分の唇を乗せて、触れるだけの接吻を、けれど少し長く続ける。
 「コーヒーが、冷める。」
 触れた唇の位置をさり気なくずらして、あさっての方を見ながら、やっとそう言って、そろそろ伸ばした腕も痛み始めていた。
 承太郎は、やっと花京院から腕を外して、あちらに伸びたままの手からマグを受け取った。
 自分の分のコーヒーを注ごうと、こちらに向いて丸まった花京院の背に、承太郎はぼそりと訊く。
 「右手は、大丈夫か。」
 「右手?」
 指を伸ばせば届く近さに、花京院が振り返る。
 そんな必要もないのに、そこに立ったまま、ふたりは一緒にコーヒーに口をつけた。
 「僕の右手がどうかしたかい。」
 承太郎の方へ、ひらひらと右手を振って見せながら、花京院が怪訝な顔をする。
 もう一口コーヒーを飲んでから、承太郎はその手を取った。
 「吉良の爆弾に、吹き飛ばされたろう。」
 ああ、とようやく気がついて、花京院が自分の手を見る。承太郎にその手を取られたまま手の向きを変えて、やけに懐かしそうに、今は何も欠けていない自分の手を眺めた。
 「忘れてたよ。そうか、右手だったのか。」
 片方の腕が使えなかったことは憶えている。けれど、どちらの腕だったのかと、もう自分でも思い出せなかった。
 「絵が描けなくなるって、そう言えば思ったような気がするな。」
 承太郎から手を引き取ると、花京院は、仗助が元通りにしてくれた自分の右手を、またしげしげと眺める。
 指がないと、あの男が、吉良が言った。そうか、そんなにひどく吹き飛ばされたのかと、そんな痕などどこにもない自分の手を、少し遠くに見て、ふっと花京院は微笑んだ。
 承太郎の絵が描けなくなると、それをいちばん嘆いていたような気がして、そう言えばまだ、この承太郎を描いていないと、浮かんだ笑みを消して、花京院は目の前の承太郎にその右手を伸ばす。
 頬に触れたその手に、承太郎が自分の掌を重ねてくる。
 「右手がなくても、左手がある。」
 「それは確かにそうだ。」
 ためらいも戸惑いもなく触れ合えるこの瞬間に目を細めて、花京院は素直にうなずいた。
 「でも、左手で描けば、多分タッチが変わる。描けるようになっても、右手の時と同じ絵が描けるとは限らない。僕が今描きたいと思う絵は、多分この右手でしか描けない。」
 言った通りの意味だったけれど、承太郎は、何か別の意味にも取ったのか、花京院に向かってほんのわずか目を見開いた。承太郎が何を考えているのだろうかと、その、濃い深緑の瞳を、久しぶりに近々と覗き込む。けれど、正確なところはわからず、花京院は問おうともしなかった。
 見つめ返したのは自分だったけれど、承太郎が、射殺すような視線で見つめてくるのに息苦しさを感じて、花京院は承太郎の頬から手を引くと、そのままマグに両手を添えて、そう言えばと話題を変えた。
 「ずっと訊こうと思ってたんだが・・・君、煙草やめたのか。」
 去年の11月に再会---というべきなのか---して以来、承太郎が煙草を喫っているところを見たことがない。SPWの研究所内、建物の中はすべて禁煙だったから、そのせいかと最初は思っていたけれど、承太郎からその匂いがすることもなく、杜王町に来てからも、煙草を手にしている姿を目にしたことがなかった。
 最近やめたのなら、わざわざ禁煙を思い出させるのも悪いかと、そのことを口にするのは避けていたのだけれど、3日前の夜、エジプトの頃は肌にも染みついていたはずの煙草の匂いの痕跡すらなく、少なくとも最近思い立ったことではないらしいと悟って、気になっていた。
 成人して許されてしまえば、逆につまらなくなったのだろうかと、承太郎のあの頃の尖り具合を思い出して、花京院は胸の中で笑った。
 「エジプトから戻ってすぐやめた。」
 エジプトというのを、まだ少しためらいがちに口にする承太郎は、早口に答えた。
 「そんなに前に?」
 そうとは意識せずに、思わず声が高くなる。10年以上喫っていないのなら、指先にもどこにも匂いが残っていないのも道理だと、花京院はきちんと爪の切られた承太郎の指を眺める。
 うぬぼれかと思いながら、少し稚ない仕草で、両手の中のマグを唇に向かって傾けて、その陰に顔を半分隠したまま、花京院は訊いた。
 「・・・僕のせいか・・・?」
 何も隠せないと、目元にそんな表情を浮かべて、承太郎が声音にかすかな苦笑を混ぜる。
 「・・・まあ、そうだな。」
 承太郎も、マグの陰に自分の顔を隠した。
 ひとりになって、思い煩う時間が増えた。煙草に手を伸ばすことさえ忘れるくらいに、花京院のことばかりを考えていた。大学受験はかろうじて終わらせて、けれどもうその頃から、睡眠も食事もめちゃくちゃだった。
 人とも、外の世界とも、関りを最小限にして、花京院を待つ時間をやり過ごすためだけに、大学での授業は真面目に受けていたけれど、神経はいつだって今にも切れそうに張りつめていて、花京院以外の何も、この世に重要なことなどないと常に考えていたことしか、承太郎はもう覚えてはいない。
 アメリカの大学院へ行けばいいと言ったのは、ジョセフの意見だったけれど、そんなことでもなければ、大学卒業にすら意欲が湧かなかった。
 海に魅かれたのは、人を相手にしなくてすむからだ。サメやイルカは、承太郎のつぶやきを黙って聞いてくれる。花京院が眠り続けたままであることが、どれほど淋しいか、あのまま目覚めないと想像することが、どれほど怖ろしいか、承太郎が切れ切れに繰り返すのに、あの海の生きものたちは、じっと耳だけを傾けていてくれた。
 承太郎が、言葉を交わして、微笑み合って、触れたいと思っていたのは、あれからずっと、花京院だけだった。
 こんなことも、いつか笑って話せるようになるだろうかと、思いながらまたコーヒーを飲む。
 「僕は、ずいぶん君を待たせたんだな。」
 少し顔を傾けて、ひとり言のように、花京院がつぶやいた。
 一度、表情でだけそれに同意してから、承太郎は考え直して、
 「てめーのせいじゃねえ。」
 声の調子が少し、上の空になる。
 それをしっかり聞き取った花京院が、苦笑に声を立てて、承太郎から視線を外すためか、肩を回して後ろを向く。コーヒーのお代わりのために、また少し丸くなったその背に、承太郎は迷わず自分の胸を重ねた。
 抱き寄せられれば、承太郎のコロンが匂う。それよりも強く、今はコーヒーの香りが、互いの唇からわずかに漂っている。背と胸を重ねて、首をねじり上げると、花京院は、下りてくる承太郎の唇を拒まない。
 あの頃は、煙草の埃の匂いだったと、いつものように思い出しながら、けれどそれを懐かしがってはいない自分に気がついて、花京院はいっそう真っ直ぐに、喉を伸ばした。
 承太郎の使う、品の良い---けれど、ひどく男くさい---匂いに、ゆっくりと瞬きをして、何という名前のコロンか、今度ちゃんと訊こうと思う。
 長引く口づけのせいで、少し現実味を失くした頭の片隅で、そう言えば、右手が吹き飛ばされたままだったら、左手でしか承太郎に触れず、それはそれで少し困ったことになったかもしれないと、普段なら途中で赤面するだろう想像をしていた時に、不意に赤ん坊がぐずり出した。
 その気配に、途端に現実に引き戻され、花京院は慌ててコーヒーのマグを置くと、ベビーベッドの方へ駆け寄った。
 いきなり空になった腕を見下ろして、承太郎がやれやれだぜとつぶやくけれど、それが花京院の耳に届いた様子はない。
 「おなかが空いたのかな。」
 声を掛けながら赤ん坊を抱き上げて、背中を撫でればぐずる声は多少おさまるけれど、こちらに訴えかけるような表情に、どうやら空腹らしいと察して、花京院は赤ん坊に笑い返した。
 「承太郎。」
 赤ん坊をひとまずベッドに戻して、赤ん坊をあやすのを手伝うような素振りは一切見せない承太郎に声を掛けた。
 「ミルクをつくるから、その間、ちょっとこの子を見ててくれないか。」
 そうとはっきりわかる仕草で、承太郎が足と肩を一緒に後ろに引く。
 「ほんの5分だ、抱いてあやせとは言わないから、そばにいてやってくれ。」
 他の誰にも滅多に見せないだろう、承太郎のちょっとひるんだ顔は見物だったけれど、それを露骨に笑わない程度の慎みは忘れずに、花京院はベビーベッドの方を指差しながら、さっさと哺乳瓶や粉ミルクの置いてある、コーヒーメーカの傍へ歩いてゆく。
 渋々、花京院と入れ替わりに、承太郎は赤ん坊の傍へ行った。
 サングラス越しのくせに、誰が自分の傍にいるかちゃんとわかるのか、赤ん坊は承太郎が覗き込んだ途端に、ちょっと口元を歪めて、とても不満げな顔つきになる。
 可愛くないというわけではなく、ストレスで自分も周囲もすべて透明にしてしまうこの赤ん坊にとっては、自分がどれほどその原因になり得るかと想像できるだけに、承太郎は手を出しかねて、またぐずり出した赤ん坊に慌てた。
 本格的に泣き出す前に、時を止めてしまおうと咄嗟に思って、スタープラチナを呼び出そうとしたその気配を悟ったのか、赤ん坊が怯えたように声を張り上げる。
 突然現れたスタープラチナの、おそろしげな姿に目を見張って---見えないけれど、承太郎にはそう見えた---、今度こそほんとうに驚いたのか、火がついたように泣き出した。
 やれやれだぜという、いつもの口癖も出ず、
 「おい、花京院ッ!」
 必死で呼んでも、花京院はミルクをつくる手を止めもせず、慌てる様子もない。
 「大丈夫だ、そのくらいの泣き方なら、最近は消えたりしない。」
 透明になってしまうことよりも、自分の傍で赤ん坊が泣いていることに、罪悪感が耐えられないのだとはさすがに言えず、哺乳瓶を片手にバスルームへ消える花京院の背を、困ったように見送るだけの自分の姿を、さすがに情けないと思う。
 自分の肩越しに赤ん坊を見下ろすスタープラチナも、承太郎のそれを写したように、初めて見るような戸惑いの表情を浮かべていた。
 赤ん坊は、承太郎---とスタープラチナ---の困惑などにかまう素振りもなく、相変わらず声の限りに泣き続けている。涙のせいで、顔に塗ったファンデーションが流れ落ちて、下に敷いているタオルが薄茶に染まり始めていた。
 花京院は、ようやくバスルームから出てくると、さっさとハイエロファントグリーンを呼び出して、ベビーベッドから赤ん坊を抱き上げさせた。
 翠に光る腕でくるみ込まれると、赤ん坊は途端に声を静め、自分を見下ろすハイエロファントをじっと見返す。
 「おいで。」
 花京院の声が、ハイエロファントの口元から聞こえて、赤ん坊はそれに微笑みすらした。
 先にソファに位置を定めた花京院に、ハイエロファントが赤ん坊を手渡し、タオルを引いた腕の中に赤ん坊を抱いて、花京院はその小さな口に哺乳瓶をあてがう。
 音を立ててミルクを吸い込む赤ん坊を眺められる近くに、いつの間にか承太郎も来ていた。
 腹立たしくはないけれど、ちょっと憮然と、赤ん坊と花京院を見下ろして、承太郎はソファの背に軽く腰を乗せる。
 仲睦まじい様子に、掛ける言葉も思いつけず、少しばかり疎外感を感じて、まだ後ろにいるスタープラチナを振り返ると、そのかたわらにはハイエロファントがちゃんといて、承太郎は今度こそ、やれやれだぜと心の底からつぶやいた。


* ゲダイさん、ネタ提供Thanxです。

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