雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

9) 傷つけばいいA


 哺乳瓶が空になるまで、花京院は一度も承太郎を見ず、赤ん坊のどんな変化も、普段と違うわずかな素振りも見逃すまいと、その目を赤ん坊の口元に凝らしている。
 ひどく真剣な、それでも、いとおしそうに赤ん坊を抱いている花京院は、決して悪い眺めではなく、父親というには若すぎるということはともかくも、この赤ん坊の母親がたとえ現れなかったとしても、先のことは何とかなるかもしれないと、承太郎は手持ち無沙汰に考える。
 自分が抱いても、いつか泣かなくなるだろうかと、承太郎はミルクを飲んでいる赤ん坊を覗き込むつもりで、少し顔を近づけた。
 「承太郎、後で買い物に付き合ってくれないか。」
 不意に赤ん坊から承太郎に視線を移して、花京院が言った。
 「この子のミルクとおむつがそろそろなくなるんだ。」
 「ジジイの役目じゃねえのか。」
 ちょっと鼻白んで言うと、花京院が肩をすくめ、非難するように承太郎を見上げる。
 「せっかくの親子水入らずじゃないか。買い物くらい---」
 こと、この赤ん坊のこととなると、ひどく口うるさくなる花京院を遮るために、顔の前で手を振って、わかったと短く答えて、承太郎は顔を横に向けた。
 赤ん坊は、順調に哺乳瓶を空にして、ゴムの乳首から唇を離すと、けぷと満足そうな音を立てる。丸くふくらんだ赤ん坊の腹を掌で撫でて、何か歌でも歌うように小さくささやきかけながら、花京院は腕の中にあったタオルを左肩に広げて、そこに赤ん坊を抱いた。背中を軽く叩いて、ミルクと一緒に飲み込んだ空気を吐き出させるためだ。
 すっかり手馴れた花京院のそんな仕草に、うっかり目を奪われて、承太郎は、大きなサングラス---元は、花京院のものだったものだ---をかけた赤ん坊と、奇妙な角度で見つめ合う羽目になる。
 承太郎のことなど、見えてはいてもすっかり無視した態度で、赤ん坊は、花京院の肩の上で、促されるままけぽけぽと空気を吐いた。
 もう一度、しっかりと胸に抱きしめて、赤ん坊の機嫌を確かめてから、ごく当たり前の仕草で、花京院が赤ん坊の頬に唇を寄せる。ミルクの甘い匂いがするのだろう、やわらかそうな頬に、そんな仕草は微笑ましいだけのはずなのに、承太郎は、一瞬本気で嫉妬しかけた自分をなだめるのに、たっぷり5秒かけた。
 3日ぶりに、やっとふたりきりになれたと言うのに、赤ん坊に邪魔されているということが納得できず、けれどまさか、赤ん坊をどこかへやれと言うわけにももちろん行かない。大人気ないと自分で思って、承太郎はちょっと顔を伏せた。
 赤ん坊をあやしながらようやく立ち上がって、花京院が承太郎の方へ振り向く。
 片手には空の哺乳瓶を抱えた、裾の長い制服姿の高校生というのは、何とも形容しがたい眺めで、これが花京院でなければ、笑いをこらえるのに必死になっているところだと、承太郎はひそかに思う。
 そんなことはけれどおくびにも出さずに、出掛けるつもりなのだろう花京院が、その準備に取り掛かるのを何も言わずに待った。
 「じゃあ、この子を着替えさせてくれるか。出掛けるなら、もう1枚くらい着せないと。」
 自分の方へ一歩寄って来ながら、赤ん坊を差し出す花京院に、承太郎はうっかり眉を寄せた。
 「その子も一緒か。」
 「当たり前じゃないか。こんなところにこの子ひとりだけ残して行けるもんか。」
 正論だけれども、あまり愉快でない提案だと承太郎が思ったのを素早く読み取った花京院が、はっきりと非難のたてじわを眉の間に刻む。
 「・・・もっとも、君がひとりで買い物に行って、おむつだのミルクだの買って来てくれるって言うなら、僕はそれでもかまわない。」
 それなら、海の中で凶暴なサメに襲われる方がましだと、承太郎は本気で思って、考える前に首を振っていた。
 「だったら頼むよ。」
 赤ん坊を差し出しながら、花京院が平たい声で言う。承太郎は、その花京院に向かって、両方の掌を広げて見せた。
 「・・・おれのこの手で、そんな小さい服を脱がせられると思うか・・・?」
 花京院のシャツのボタンにさえ難儀する承太郎の大きな指先では、赤ん坊の服のスナップを外すどころか、生地ごと裂きかねない。大体、抱いて泣かれるのはごめんだと、妥協の余地はないと掌越しの表情に言わせて、承太郎は少しの間花京院をにらんだ。
 「正論だ。」
 あっさりと引き下がった花京院は、じゃあ少し待っててくれと言い残して、赤ん坊を抱えたままバスルームへ向かう。
 赤ん坊はその間、無邪気に花京院に微笑みかけて、自分以外の人間たちのやり取りには、一向に興味もない様子だった。
 花京院が機嫌が良いらしいのはともかくとしても、まだ喋れもしない赤ん坊のことを忌々しく思っている自分の分の悪さに、やれやれだぜと、承太郎は口の中でつぶやいていた。


 すっかり日の長くなった街は、もう夕方に近いというのに真昼のように明るいままで、ふたりはホテルを出て最初に、空を仰いでまぶしさに目を細めた。
 大きなデパートのある駅前まで、少し時間はかかるけれど、散歩がてら歩いて行こうと、ふたり肩を並べて大通りまで出れば、やたらと背の高い、白一色の承太郎と、赤ん坊を抱いた、裾の長い学生服の花京院と、明らかに奇妙な組み合わせはいやでも人目を引く。けれど花京院は久しぶりの外の明るさに、承太郎は久しぶりの花京院との時間に夢中で、不躾けな視線にも気がつかない。
 赤ん坊に気を使って、静かに、けれど少し早足に歩いて、ふたりは特に何も重要な言葉は交わさないまま、目的地に向かって真っ直ぐに歩いた。
 角を曲がるたびに、さり気なく、承太郎が車道側へ寄って、花京院と赤ん坊に舗道の内側を譲る。ごく自然に、そう体が動いているのだとわかる承太郎の仕草に、花京院は、はっきりとは見せずに薄く微笑んだ。
 赤ん坊はぐずりもせず、花京院の腕に抱かれて、足の運びに揺れるのが心地好いのか、半ば眠りかけているようだった。
 ふたりは、時折意味もなく互いを見合って、照れくさそうに小さく微笑みを交わす。たやすく触れる近さに肩はあったけれど、ここは閉じられた空間ではないから、うっかり触れることさえない節度を保って、ふたりは足並みを揃えていた。
 殺人鬼のことも、スタンドのことも、何もかもを忘れられるなら、これほど平和な眺めもないだろう、夕暮れの近い、平凡な街の眺めだった。その中に、溶け込んでいるとは言い難く、それでも、こんなふうにふたり一緒にいられることがどれほど奇跡に近いか、知っているのはふたりだけだったから、得難いこの瞬間にだけ心を捕らわれている。
 ほんとうに、死ななかったのだと、花京院は腕の中の小さなぬくもりを見下ろして、それから、街の眺めに目を細めた。隣りを歩く承太郎をちらりと見て、あの頃と変わらないように思えても、辺りの風景も、匂いも、気配も、何もかもが違うのだと思う。あの時と変わっていないのは、きっと花京院だけだ。
 ここはエジプトではない。あの旅は、あれからもまだ続いている。けれどこの街で、じきに終わるのだろうと、そんな予感があった。
 仗助の家の近くを通り過ぎて、駅まで真っ直ぐに続く道には、人の数が次第に増え、自分のことに夢中な人種に紛れてしまえば、ふたりの姿もそうは目立たなくなる。人混みの中、赤ん坊に誰かがぶつかったりしないように、花京院は、赤ん坊を抱いた腕の輪を神経質に少し縮めた。
 混み始めた舗道を、並んでは歩けずに、花京院の後ろへ下がると、承太郎は何かあればすぐに腕を伸ばせるように、主には赤ん坊のために、やや身構えて歩く。
 半ば冗談で言ったこととは言え、こんなところをひとりで歩かせて、買い物までさせるのは、確かに今のジョセフには拷問に違いない。仗助はちゃんとジョセフに気を使って歩いているだろうかと、そんなことを考えていた時、道路の向かい側から声を掛けられた。
 「承太郎さーんッ!」
 こちらに向かって大きく手を振っているのは康一で、億泰がその隣りで、同じように手を振っていた。
 承太郎も花京院も足を止めて、そちらに振り向いた。
 億泰が、車の流れを避けながら、先に立って道路をこちらへ横切ってくる。その後ろから、康一も後を追って、慌てて駆け出すのが見えた。
 「花京院さんだッ!」
 康一が、承太郎の隣りに花京院を認めて、うれしそうに叫んだのが、車のクラクションの合間に聞こえた。花京院は、思わずそれに向かって微笑んでいた。
 向かってくる車に肩をいからせて、億泰がまず先に道路を渡りきり、康一もそれに続いて、承太郎と花京院のそばへやって来る。こんにちはと軽く頭を下げたふたりは、少しの間、しげしげと花京院を眺めた。
 「もう、大丈夫ですか、花京院さん。」
 康一が、少し申し訳なさそうな声で、小さな肩をすくめて訊く。
 「君の方こそ大丈夫だったかい。」
 吉良にひどく傷つけられたのは、康一も同じだ。あれ以来会うのは初めての康一は、けれどどこと言って変わった様子は見られず、花京院は康一に微笑み返しながら、安堵の息をこぼしていた。
 「あの・・・ほんとうに、すいませんでした。」
 頬を赤くしてうなだれる康一を、億泰もちょっと唇を曲げて見下ろしている。
 斜めに見上げる承太郎は、助け舟を出す気はないように無言のままだったから、花京院は自分で康一の肩に手を置くと、慰めるつもりではなく、
 「僕の方こそ、あんなことに巻き込んですまなかった。君が無事で、ほんとうに良かった。」
 花京院がそう言うと、康一はいっそう体を小さくして、身の置き所もないような表情でうつむいてしまった。
 もじもじと指先を絡めて、何か言わなければと言葉を探して、けれど口を開けば謝罪しかできずに、康一はそのまま黙り込んでしまう。
 承太郎が何か、康一の気分をすくい上げるようなことを言ってくれないかと期待してながら、花京院も言葉を探していた。
 湿っぽい雰囲気が苦手だと言わんばかりに、所在なさげに音を立てて足元を蹴っていた億泰が、相変わらずの能天気な声で---こんな時には、何よりも救いだ---沈黙を破ってくれる。
 「承太郎さんと花京院さん、赤んぼ連れて散歩ッスかァー? オレらこれから、ドゥ・マゴで茶でも飲もうかって言ってんスけど、一緒にどうッスかァー?」
 花京院の腕の中を覗き込んで、遠慮もなく---けれど精一杯優しい手つきで---赤ん坊の頬に指先を伸ばしながら、いつもの間延びした喋り方で億泰が訊く。
 ホテルからここまで歩いて来て、少し喉が渇いていたから、それは悪くないと思わず花京院は口元をゆるめかけた。
 億泰の提案に、康一も顔を上げて、期待に満ちた表情で花京院を見る。
 「悪いが、買い物がある。」
 ふたりに向かって承諾の笑顔を浮かべようとした花京院よりも一瞬早く、愛想のかけらもない声---いつもよりも、いっそう---で承太郎がそう言って、
 「行くぞ、店が閉まる。」
 花京院の肩を押した。
 呆気に取られる康一と億泰をもう振り返りもせず、花京院の肩に腕を回して、承太郎はそのまま歩き出す。
 慌てて、肩越しに精一杯横顔だけを振り向けながら、花京院はふたりに声を飛ばした。
 「ごめんよ、今日は急ぐんだ。また今度。」
 主には、承太郎のためにそう言い訳して、花京院は呆然と自分たちを見送る康一と億泰に手を振った。
 「はあ・・・また、今度・・・。」
 康一と億泰は、ぽかんと口を開けたまま、つられたように手を振り返して、花京院さんといると、承太郎さんていつもとちょっと違うよねと康一が思わずこぼしたらしいつぶやきが、花京院の耳に届く。
 花京院は、思わず頬を染めてうつむいた。
 斜め上に瞳だけを動かして、前を向いている承太郎を、見えないのを承知でにらむと、
 「君ってヤツは・・・もうちょっとマシな言い方はできないのか。」
 確かに、赤ん坊のために長い外出の準備は特にせずに出て来てしまっているから、どこかに長居するわけには行かなかったけれど、断るにせよ、親しげにしてくれるふたり---仗助の友人でもあり、花京院にとっては、ある意味命の恩人でもある---に対して、もう少し態度を考えろと、たしなめるつもりでそう言った。
 承太郎は、混雑する路上で、赤ん坊をかばうという理由で、花京院の肩を抱いたままだ。それを気にしながら、けれどその手を振り払うことはまだせず、承太郎の掌の暖かさが、状況には不似合いに心地好い。
 花京院は、それでも、困惑しているということはきちんと伝えるために、承太郎の腕の中で、小さく肩をすくめる。
 「これ以上邪魔が入られてたまるか。」
 突然、ぼそりと承太郎が言う。
 さすがにこれ以上はまずいと思ったのか、花京院の肩から掌を滑り落として、今は隣りではなく後ろに立って、けれどかばうような手つきのまま、背中の辺りには触れたままでいる。
 承太郎の言った意味を、正確に受け取って、花京院は呆れたため息をこぼすよりも、照れくささで息を飲んだ。
 赤ん坊の様子を確かめるふりで、そちらに顔を寄せて表情を隠したのは、頬の辺りがひどく火照っていたせいだ。
 「・・・君ってヤツは、まったく・・・。」
 つぶやくように言って、もうこぼれるのは苦笑だけだった。
 「やかましい。」
 口調とは裏腹の、承太郎の掌の暖かさに、花京院はゆっくりと目を細めた。


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