雰囲気的な10の御題/"哀"@loca

9) 傷つけばいいB


 デパートの中に入って、ベビー用品のある一角にようやくたどり着くと、街中でよりも、ふたりと赤ん坊はいっそう場違いだった。
 夕方のこんな場所に、男ふたりの組み合わせなどどこにも見当たらず、しかも学生服に赤ん坊というのは、どう好意的に見ても、幸いに学校は退学にならなかった若すぎる父親か、年の離れ過ぎた兄弟---兄妹---か、いっそ未成年の誘拐犯と言った方がまだしも冗談になる。
 その隣りに立つ、これも少々年の離れた兄とでも言った風情の承太郎は、誘拐の共犯者か、あるいは赤ん坊の父親か、それにしても花京院とは風貌が違いすぎるという辺りで、案外従兄弟同士なんだとでも言えば、人は納得するのかもしれない。
 面白くねえと、承太郎は心中で舌を打って、若い夫婦---きっと、承太郎よりも若い---と腹の大きな女性ばかりが目につくその場所で、一斉に自分たちの方へ向いた視線から、ちょっと唇をとがらせて目をそらした。
 赤ん坊を抱き直して、花京院はひるみもせずに、その中へさっさと歩いてゆく。
 育児というのは、ある程度の羞恥を捨てることなのかもしれないと、承太郎は帽子のつばを引き下げて、何となくその陰に顔を隠しながら思った。
 迷いもない様子で、まずはおむつの棚へまっすぐに行き、やたらと色のあふれたそこから、ぶつぶつと名前やサイズを口に出して確かめて、花京院はすぐ後ろにいる承太郎に振り返る。
 「承太郎、これ、ふたつ取ってくれ。」
 花京院が指差したそれを、承太郎は、ほんの少し周りを気にしながら手に取った。
 「僕らの頃はこんなものまだなくて、洗濯が大変だったんだろうなあ、なあ承太郎。」
 「日本は湿気が多くて困ったって言ってたな、そう言や。」
 最後に会ったのはずいぶん前の、母親のホリィの笑顔を思い出しながら答えて、両手に紙おむつの大きなパッケージをひとつずつ持った承太郎は、広くはない通路で大きな肩を縮めて、妊娠何ヶ月なのか、まだそう腹はせり出してはいない年嵩の女性に、すれ違いざまにじろりとにらみ上げられる。
 女の聖域に、しかも体ばかりでかい男がうろちょろ邪魔だと、はっきりその視線に読み取って、承太郎は、申し訳なさを素直に表すつもりで、その妊婦に向かって軽く会釈を返した。
 ジョセフなら、ここまで露骨に邪魔者扱いされることはないのだろう。いつもよりも歩幅を小さく、コートの長い裾が誰にも当たらないように気をつけながら、自分に振り返ることはしない花京院の後を追う。
 今度は粉ミルクだ。
 視界をすべて覆う一面、ほぼ同じ形の、見た目にもほとんど違いのない丸い缶が並んでいる。
 あごを引いて、どれを買うかと、そこに視線を走らせている花京院の後ろに追いつきながら、承太郎はうっかりめまいを覚えた。
 昔見た映画に、同じようなシーンがあった。仕事を失った男が、仕方なく働き始めた妻の代わりに、家族の面倒を見るという映画だった。誰にだってできるさと、家事育児を見くびっていた男は、朝食ひとつまともに作れず、スーパーで肉を買おうとして、どんな種類の肉を、どんな切り分け方で、一体どれくらいと矢継ぎ早に質問されて、まるで、スワヒリ語訛りのフィンランド語で、話しかけてきたのが紫色の皮膚をした火星人だったとでも言うように、そうとしか形容のしようのない困惑の表情で、言葉を失って立ち尽くしていた。
 あれをもう笑えないと、承太郎はひとり思った。
 こんな数え切れない中から、一体何をどう選べというのか。何が違うのかすらわからず、けれど真剣に子育てをするなら、きっと缶の横腹辺りに印刷された、蟻ほどの小さな字をすべて読んで、些細な差異を慎重に比較検討して、これだというのをひとつ選んで、かと言って、それを当の本人である赤ん坊が気に入ってくれるかどうかはわからないという、これはもうすでに拷問だ。
 イルカやサメを相手にするのがどれほど楽かと、潮の香りと波の音を、承太郎はひどく恋しく思った。
 花京院はほとんど迷いもなく、丸い缶のひとつを片手で棚から取り、当然のような顔で承太郎に手渡す。これもふたつ。
 「・・・帰りはタクシーだな。」
 思わず、ぼそりと言った。
 「ああ、そうだな、歩いて帰る必要はなかったな。」
 承太郎の屈託を、少し重いその口調に読み取ることはせずに、さらりとそう言った花京院は、粉ミルクの缶をもうひとつ承太郎の腕の中に放り込む。
 一体いくつ買うつもりだと、言いそうになった声を飲む。こんな買い物に、しばらく付き合わずにすむなら、荷物の多さくらいどうということはない。そう自分に言い聞かせて、承太郎は荷物持ちに黙って徹することにした。
 何にせよ、この赤ん坊に関しては、今は花京院の方がエキスパートだ。育児には素人以下の承太郎に、他に何ができるわけでもない。
 腕一杯にミルクを抱えて、指先には紙おむつのパッケージを引っ掛けて、けれどまだ買い物が終わったわけではなかった。
 花京院は、時々赤ん坊を見下ろして、機嫌が悪くないかと確かめるように、頬の辺りを指先で撫でている。時折すれ違う妊婦たちは、花京院自身には少々不審そうな視線を投げるけれど、その腕の中の赤ん坊には、至って穏やかな微笑ましい表情を浮かべ、花京院はその微笑みに、薄い笑顔を返しさえする。
 育児という共通項で繋がっているそこには、絶対に入り込めないと、承太郎は棚の間で人とすれ違うたびに、自分に向かうほとんど敵意交じりの視線を、けれどおとなしく受け止めていた。
 ふと、思いついたように、おもちゃの並んでいる棚で花京院が足を止めた。
 下から3段目辺り、花京院なら、少し体の位置を落とさなければならない辺りに、プラスティックや布の、いわゆるガラガラと呼ばれる音を立てるおもちゃが、ごそりと積まれていた。
 承太郎に横顔を見せて---うっすらと微笑んで---、ひとつ取り上げた花京院は、まずそれを自分の耳元で振ってみる。からんころんと、思ったよりもやわらかな音が、承太郎の耳にも届く。赤ん坊の顔の前で優しく振ってみるけれど、それには反応を示さないので、花京院は別のを取り上げた。
 さっきのは布に覆われて、ぬいぐるみのように見えたけれど、今度のは色鮮やかなプラスティックだ。また自分の耳で音を確かめて、そのカラコロと優しい音を立てるおもちゃを、赤ん坊の耳の近くで振る。今度は、赤ん坊が、花京院の方へ手を伸ばした。
 赤ん坊ににっこりと笑いかけて、花京院はそのおもちゃを手に、また赤ん坊をしっかりと抱き直して、ようやくレジの方へ向かう素振りを見せた。
 「何か、他に買うものがあるのか。」
 「ああ、今度は薬局だ。」
 「薬局?」
 この辺りではもう立ち止まることはなさそうだと、実は馴染みのない類いの女くささにすでに閉口していた承太郎は、安堵しながら花京院の隣りに並び、一緒にレジに向かう。粉ミルクの缶を落とさないように、しっかりと両腕の輪を縮めた。
 「薬でも買うのか。」
 とても頓珍漢な質問だと言わんばかりに花京院が肩をすくめ、ちょっとあごを引いて承太郎を見上げてくる。
 「違うよ、おしりふきの詰め替え用がいるんだ。」
 また、わけのわからない言葉が飛び出す。サメについての、ドイツ語の文献を読む方がよほど楽に違いない。
 「ああ、君がいるなら、ついでだから石けんとベビーシャンプーも買って帰ろう。それからベビーパウダーも。」
 承太郎に尋ねるということはせず、すでに決定事項として、花京院は赤ん坊のためらしいあれこれを口にする。なるほど、最初からこういうつもりだったのかと、腕に抱え込んだ粉ミルクの缶を、承太郎はちょっと憮然と見下ろした。
 「おれは荷物持ちか。」
 癪に障ったので、自分でそのつもりだったということは言わずに、花京院の隣りで足を止める。
 花京院も足を止めて、やや斜めに承太郎を振り返って、少しだけ申し訳ないという態度を、頬の辺りにだけ浮かべて見せた。
 「ハイエロファントに持たせるわけに行かないだろう。第一、僕がひとりでこの子と外に出たら、どこかで補導されかねない。」
 それは確かにそうだ。不自然極まりないこの組み合わせは、余計な人目を引くことは間違いなく、それならまだこうやってふたりでいて、これは承太郎の子だとか、ふたりは従兄弟だとか、そんな誤解をされている方がましだ。
 わかった、納得したと言う代わりに、先に立ってレジへ並ぶ。すぐ隣りにやって来た花京院が、ありがとうと言うように微笑んで、承太郎を見上げた。赤ん坊は機嫌よく花京院に抱かれていて、花京院がガラガラを振ってやると、小さく小さく声を立てて笑った。


 女の聖域を逃れた先の薬局は、デパートの1階、出入り口の近くにあるせいか、凄まじい混雑ぶりだった。
 学校帰りの高校生であふれ、妙に疲れた顔の、背広姿の若い男も目立つ。少なくとも、制服姿の花京院が、あの中でじろじろ眺められるという心配はなさそうだった。とは言え、この赤ん坊を抱いて飛び込みたい場所ではない。
 ふたりは、薬局の手前で足を止め、同時にため息を吐いた。
 「しょうがないな、僕ひとりで行ってくる。この子と、ここで待っててくれ。」
 あっさりとひとりでそう決めて、赤ん坊を差し出してくる花京院から、承太郎は思わず半歩退いた。
 「おれを透明にする気か。」
 「すぐに戻るよ。泣き出しても、君がすっかり見えなくなる前に戻ってくる。」
 「おれが行く。てめーがここで待ってろ。」
 覚えの悪い生徒を前にした教師のような、諦めに似た大きな吐息が花京院の口からこぼれて、頭痛がするとでも言いたげに、こめかみに人差し指を当てる。噛んで含めるような口調で、そのまま承太郎を上目にすくい上げる。
 「・・・どのメーカーのどんな種類の何を買って来るのか、君はわからないだろう、承太郎。」
 「何だってかまわねえだろう。何の違いがある。」
 「肌に合わなかったら、この子のおしりが真っ赤になるんだぞ。かぶれるのがどんなにつらいか、君にわかるか。」
 そんなことおれが知るかと、赤ん坊という未知の生きものが花京院の腕を占領して、惜しみなく気遣われている状況に、また神経が逆立つ。
 花京院の言っていることが正論だからよけいに悔しくて、うっかり精神年齢がエジプトの頃に戻っていることに、承太郎は自分で気がつかない。
 2秒にらみ合った後で、承太郎は黙って手にしていた荷物を足元に置いた。
 「ここら一帯が全部透明になる前に戻って来やがれ。」
 「すぐに戻るよ。」
 花京院が、承太郎に向かって、赤ん坊を抱いた腕を伸ばした。
 そこから、なるべくそっと赤ん坊を受け取って、赤ん坊は、花京院と承太郎を交互に見て、何やら様子が少しおかしいと思ったのか、おしゃぶりを噛んだ口元をちょっと歪めた。
 「すぐに戻るよ・・・。」
 今度は赤ん坊に向かって、ひどく優しくそう言って、けれど花京院があとずさった途端に、赤ん坊はもう承太郎の腕の中でぐずり出していた。
 「すぐ戻る。」
 まだこちらに向いたまま、なるべく早足に薬局へ向かって行く花京院は、いきなりハイエロファントグリーンを呼び出すと、それを承太郎の方へ飛ばして来た。
 もう顔を歪めて、泣き出す準備をしていた赤ん坊は、突然目の前に現れたハイエロファントグリーンを見て、大きく開けた口をゆっくりと閉じ、とりあえず泣くのはやめようと決めたらしい。
 承太郎の腕に、自分の腕を同調させて、ハイエロファントグリーンも赤ん坊を抱く。向かい合って、赤ん坊を覗き込む。ご機嫌とは行かなかったけれど、赤ん坊は泣かずに、またおしゃぶりをもぐもぐと動かした。
 あの混んだ店の中で、一体どれほど素早く買い物がすませられるかはわからなかったけれど、少なくとも今しばらくは、赤ん坊が泣き出して、ここらのもの---主には承太郎---を透明にする心配はなさそうだった。
 承太郎は、ハイエロファントにだけ聞こえるように、小さく安堵のため息をこぼす。
 スタンド使いのうようよいるこの街で、こんなところでスタンドを出すのは好ましいとは言えなかったけれど、この子に泣かれて、こんな場所で何もかもを透明にされるよりはずっとましだった。
 それにしてもと、手持ち無沙汰に、赤ん坊よりも目の前のハイエロファントを見つめて、承太郎は考える。
 花京院は、この子を自分で育てたいとでも思っているのだろうか。どこの誰の子ともわからない赤ん坊に、親がいなくてかわいそうだという同情だけで、これだけ親身になれるものなのかと、か弱い生きものは守ってやらなければならないという義務感しか湧かない承太郎は、花京院の意外な一面を見た思いがする。
 この子がただの赤ん坊ではなく、すでに能力を発現させているスタンド使いで、しかも保護者がいないというところに、花京院が自分自身を重ねているということは、わざわざ訊かなくてもわかる。けれど、その程度の気持ちで、この子を育てるという責任を背負い込めると、花京院がそんな甘い見通しを立てるわけがない。
 それなら、やはりある種の愛情を、この子に対して抱いているということなのかと、承太郎は、思わず少し強く赤ん坊を抱きしめた。
 ふたりでなら育てられるだろうかと、不意に思う。承太郎は、この子を不憫だとか可哀想だとか、そう思う以外の気持ちはなく、けれど花京院がこの子を、どういう経緯であれ手放したくないと言うのなら、それを助けることはできるはずだと、改めて、小さなその子を見下ろした。
 承太郎の視線に気がついたのか、赤ん坊が、ハイエロファントから承太郎に視線を移して、珍しく、そのままじっと見つめて来た。
 顔の半分をプロテクターで覆われ、瞳のないハイエロファントには、表情というものがほとんどなく、けれどたった今、ハイエロファントが、自分と赤ん坊に、一緒に微笑みかけたような気がして、承太郎は思わず応えるように、わずかに唇の端を上げた。
 不自然に見えないように気をつけながら、片腕を伸ばし気味にして、ハイエロファントを抱き寄せようとする。薄い腰の辺りに、自分の腕が飲み込まれてしまったのに苦笑して、赤ん坊を抱くよりも、ほんの少し大きな腕の輪の中に、ハイエロファントと赤ん坊を一緒に抱いた。
 承太郎の腕の中で、まるで恥らうように、ハイエロファントがあちらを向いて、翠に光る肩の向こうにあごを埋める。花京院とよく似たその仕草に、承太郎は赤ん坊のことを忘れて視線を奪われた。
 花京院が、ようやく店から出て来て、こちらに足早に戻ってくる。
 顔が赤いように見えるのは、承太郎の勘違いではないのだろう。 
 ハイエロファントの腰から腕をほどく前に、近づく花京院にはまだ直には聞こえない小さな声で、承太郎はささやいた。
 「・・・後でな。」
 揺れる前髪の向こう側で、その声をハイエロファント越しに聞いた花京院が、誰が見てもそうとわかるほど、はっきりと頬を染める。
 その場で2歩足踏みをするように、爪先の辺りをもつれさせて、狼狽している様が存外可愛らしくて、承太郎はうっかりひとり声を立てて笑った。
 花京院の足音に気がついた赤ん坊が、承太郎の腕の中で少しもがいて、近づいてくる花京院に向かって腕を伸ばそうとする。
 ハイエロファントは、承太郎から恥ずかしそうに顔を背けたまま、ゆっくりと姿を消して行った。


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