触れ合いたい2人に10のお題@空色アリス

4) 鼓動


 終わってしまった後で、けれど珍しく、花京院も承太郎も、すぐにはシャワーも浴びずに、同じベッドで何となく手足を伸ばしていた。
 上掛けの中から、上半身だけ抜け出して、承太郎がサイドテーブルに腕を伸ばす。取り上げた灰皿と煙草を膝の上に置いて、
 「煙草喫うぞ。」
 まだ隣りに横たわったままでいる花京院に、許可を求める口調ではなく、言った。
 承太郎が喫う限り、煙草の匂いは嫌いではなかったから、ああ、と短くうなずいて、花京院は、承太郎の唇から吐き出される煙の行方をぼんやりと追いながら、数回ゆっくり瞬きをする。
 今日は、睡魔がまだ襲って来ない。いつもなら、大した時間もかからずに眠くなるのに、今夜はやけに目が冴えている。それはきっと、承太郎も同じなのだろう。だから、まだ眠るために自分のベッドへゆく気配もなく、馴れた仕草で煙草を喫っている。
 何だか、情事を楽しんだ後の、大人の男と女みたいだと、洋画の場面を思い出しながら、自分たちはそんなじゃないと、花京院はちょっとだけひとりで唇を曲げた。
 疲れてはいるけれど、睡魔を呼ぶほどではなく、けれどもう一度と、互いの腕を引くほどでもない。
 今夜は同じベッドで寝ないかと言ったら、承太郎は驚くだろうかと思いながら、花京院は、まだ手も着けられないままの、あちら側の承太郎のベッドを見やった。
 煙草を持ち替えた承太郎が、空いた方の手で、不意に花京院の髪に触れる。指先から、強く煙草の匂いが立って、花京院は、それをいやがりもせずに、むしろ胸深く吸い込むように深呼吸しながら、一度目を閉じた。
 「承太郎。」
 呼ぶと、なんだと、あさっての方に煙を吐き出してから、花京院の方へ顔を向けてくる。
 「煙たいか。」
 「いや、そうじゃなくて。」
 承太郎が自分を見下ろしているのに、視線を合わせていられなくて、花京院はまた煙草の煙を追っているふりで、別の方向を見ながら、言いにくそうに訊いた。
 「君は、その、何ていうか、その・・・えーと・・・経験が、あるのか。」
 いちばん肝心な、経験という言葉だけ、やけに声が小さくなった。ようやく視線を合わせてきた花京院に、承太郎が怪訝そうに目を細め、煙草をくわえた唇をちょっと曲げる。質問の意味がわからないと、表情が素直に言っていた。
 承太郎の鈍さを呪いながら、もっと直截な言葉を使うことにする。
 「いやだからそのつまり・・・つまり、君は、セックスしたことがあるかって、訊いてるんだ。」
 「ねえ。」
 セックスという単語を、ひどく恥らいながら発音した花京院の、その羞恥を台無しに、承太郎が即答する。
 一拍置いて、承太郎の答えをきちんと受け取っているかどうかと確認するかのように、花京院は瞳を押し上げてから、言葉を続けた。
 「そうか、なくても、おかしくないよな。僕らまだ高校生だし。」
 奥歯に物の挟まったような花京院の口調を、承太郎が聞き逃すはずもなく、煙草を灰皿に押しつけながら、逆に訊いてくる。
 「てめーはあんのか。」
 花京院は、隠していた両腕を外に出して、うつ伏せになりながら、枕を抱え込んだ。そこに顔を埋め込んで、時間を稼ぐように、額をぐりぐり押しつける。
 「・・・ある、かな。」
 ちらりと承太郎の方へ、頬の線が見える分だけ顔を向けて、枕からまだ顔を上げずに、花京院は承太郎の反応を窺っていた。
 舌打ちでもしそうな口元が、悔しいという感情を表しているように見えて、それは、先を越された---しかも花京院の方が、半年誕生日が遅くて、外見は奥手に見える---からなのか、それとももっと別の理由からなのか、知りたくないという気持ちと知りたいという気持ちと半々で、花京院はようやくまた寝返りを打って、承太郎の方へ体を向ける。
 灰皿をサイドテーブルに戻すと、片方の膝を折って、ヘッドボードに寄りかかる。頭の後ろに両手を組んで、これからの話の成り行きに備えたような、承太郎の態度だった。
 「・・・女か。」
 「殴るぞ承太郎。」
 「てめーの相手なんぞおれが知るか。」
 「女の人だよ。」
 「誰だ、同じ学校のヤツか。」
 「違うよ・・・。」
 じゃあ誰だと、承太郎の、すっかり冴えてしまっている瞳が訊いてくる。
 花京院も思い切ったように体を起こし、承太郎と肩を並べて、ヘッドボードに寄りかかった。
 「言いたくねえか。てめーから振った話だろう。」
 「君ならとっくに経験済みだと思ったんだよ。」
 「悪かったな、女と寝たこともねえガキで。」
 「経験があるからって大人ってわけでもないだろう。」
 「だったらとっとと吐け。言いたいことがあって、わざわざそんな話始めたんだろうがてめーは。」
 まさしくその通りだったから、花京院は黙り込んで、一体どこから話を始めれば、うまく自分の言いたいことが伝わるだろうかと、言葉を探し始める。
 承太郎は、話が終わるまでは自分のベッドへも行かないし、寝ることもしないという意志表示か、さっきサイドテーブルに戻した煙草を灰皿をまた手元に運んで、今度は花京院に断りもせずに火をつける。
 承太郎が最初に大きく吐き出した煙が、空気にまぎれてすっかり薄くなってしまったのを見送ってから、花京院はようやく唇を開いた。
 「中三の時の、家庭教師だった女の人だよ。」
 そうか、とも、それで、とも言わず、承太郎は、一瞬だけ唇の線を固くして、けれど表情を変えずに、煙草を喫い続けている。
 「親の事情で転校が多くて、成績は良かったんだけど、受験だって親が心配してつけてくれたんだ。週に2回、高校に入った後も、しばらくは勉強を見てもらってた。」
 「てめーが惚れたのか。」
 「いや、違う。僕はそんなこと、全然考えたこともなかった。」
 「いくつだその女。」
 「・・・20だったんじゃないかな。大学2年だったと思うから。」
 承太郎が、ちらりと花京院を見る。まだ14の時の花京院と、20だったらしい女の顔を、並べて想像しようとして、うまく行かなくて、何にせよあまりうるわしい眺めではないと、煙を吐き出した後で唇を噛む。
 花京院が、少し暗い横顔で、胸の前に両膝を引き寄せた。
 「誘ったのは彼女の方だった。最初はわけのわからないうちにそういうことになって、その後は、僕にだって人並みの好奇心はあったから、いやだとも言わなかった。成績さえ良ければいいって思ってる両親に対する、意趣返しみたいな気持ちも、今思えばあったと思う。」
 大丈夫だから、心配しないで、何もこわいことはしないから、ちょっとだけ、そんなことを、ひどく甘い声でささやいて、花京院には何もさせず---しようとしたところで、何をどうしていいかすらわからなかったにせよ---、彼女は、きれいに磨かれた爪の並んだ指で、花京院に触れた。
 異性に大した関心も知識もなかった花京院に、教科書では学べないことを、彼女が身を持って教えてくれたと言えば、そうおぞましい思い出ではないのだろう。けれど実際には、彼女はどういう理由からか、花京院を自分のために使うことを思いついたに過ぎず、花京院が、結局彼女に対して恋と呼ばれる類いの甘い感情を一度も感じなかった以上に、彼女も、自分の言うことを聞くペットという、花京院に対する扱いを、最後まで変えたりはしなかった。
 年上の女性とと言うほど、そのことについて彼女から学んだことはあまりないように思えて、恋愛感情の一片すら湧かなかったことから考えれば、花京院自身、それを愉しんでいたと考えたことは一度もない。
 ただひとつの後遺症だとはっきり言えるのは、彼女と切れてから、以前以上に異性に関心が失くなったことだろう。汚らわしいとも思わない代わりに、性的な対象だとも一切思えず、そしてそれに危機感がない程度に、自分のどこかが麻痺してしまっていることに、花京院は今の今まで気づいてすらいなかった。
 少年の健やかな生理現象に対して、たとえば承太郎がそんなにも切羽詰っていたことを、他人事として理解はできても、自分もそうだからというふうに共感はできずに、承太郎と、こんなふうに親密になればなるほど、一体彼女とのあれは何だったのかと、恋から始まったわけではなく、何かしらの必要に迫られただけという理由は同じはずなのに、今承太郎としていることと、なぜこんなにも自分の気持ちが違うのか、花京院はひとりで戸惑い続けている。
 「その女に、飽きられたのか。」
 彼女とのことは詳しくは聞かずに、いきなりそこへ話が飛ぶ。承太郎も、あまり耳障りの良い話だと思っていないのかと、至極まともな反応に安心して、花京院は正面を向いたまま、薄く笑う。
 「さあ。高校に無事入学もできたし、もう大丈夫ですからって、親にそう言ってもらったら、あっさり辞めてくれたから、彼女も潮時だと思ってたのかもしれない。」
 「つきまとわれなくて良かったじゃねえか。」
 「・・・あるいは、僕がつきまとわなくてね。」
 承太郎は、もう煙草も喫っていず、花京院にならったように正面をぼんやり眺めている。
 軽蔑されただろうかと、それだけを心配しながら、けれど長い間ひとりで抱え込んでいた秘密を吐き出して、せいせいと軽くなった胸の内を覗き込むように、花京院は自分の腹の辺りを撫でる。 
 不意に、承太郎が、ちょっと吐き出すように唇をねじ曲げた。
 「ロクでもねえ話だな。」
 「うん、僕もそう思うよ。」
 あっさりとそう言ってから、花京院は素直に苦笑を刷いた。
 こんな話を、黙って聞いてくれてありがとうと、そう言おうかどうしようか、花京院はひどく迷っていた。ありがとうと、わざわざ礼を言ったら、承太郎の怒りを買いそうな気がして、どうしてかそんな気がして、むっつりと黙り込んでしまった承太郎の横顔を盗み見ながら、急に激しくなった心臓の音に、ひとり驚く。
 聞こえるほど大きく息を吐いて、正面を向いたまま、承太郎が、
 「もう寝るぞ。」
と言って、ベッドを下りようとする。考える前に、花京院はその腕を掴んで、承太郎を引き止めていた。
 驚いて、訝しげにこちらを振り向く承太郎に、一体何をするつもりだったのか自分でわからずに、花京院は数回口をぱくぱくさせて、それからようやく、自分の目的を思い出す。
 「・・・一緒に、寝ないか。」
 そんなつもりはなくて、まるですがるような口調になったことに、花京院はしまったと思いながら、もう言ってしまった言葉を消すこともできず、信じられないものを見ているような承太郎の視線に、耐えられなくなって顔を伏せようとした時に、すでに床に下りていた足を、承太郎がまたベッドの中へ引き戻した。
 「・・・もうちょっと向こう寄れ。」
 花京院の方を見ずにそう言った承太郎が、花京院の使っている枕を、少しばかり押しこくる。慌てて枕の端をベッドの端に合わせて、また上掛けの下にもぐり込んでゆく承太郎と一緒に、花京院も体を横たえた。
 ふたりとも、何も身に着けていないまま、同じベッドに並んで、その狭さのせいで、肩が触れ合いそうになるのに、花京院は承太郎に背中を向けると、ほとんどベッドから落ちそうになるほど端に寄って、固く目を閉じた。
 心臓が、早い。
 体を縮めて、承太郎の邪魔にならないように、それでもどくどく鳴る心臓の音が承太郎にも聞こえているような気がして、落ち着かない。
 枕を握りしめて、無理矢理に睡魔を呼び寄せようとしていると、不意に、承太郎の気配がこちらに寄ってきた。
 大きな手が、髪に触れて、それから、頭を撫でる。幼い子をあやすようなその仕草が、承太郎らしくもなく優しく、その手を引き寄せたい自分を、花京院は必死で抑えた。
 「・・・お休み、承太郎。」
 おう、とぶっきらぼうな返事が返ってきて、けれど頭を撫でる手は離れないまま、花京院はようやく穏やかな気持ちで、眠るために目を閉じる。


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