触れ合いたい2人に10のお題@空色アリス

6) ココロとカラダ


 唇を許すというのは奇妙なもので、もっと直接的な接触よりも、相手との関係を深めるような気がする。
 他のどこにも触れないとしても、少し開いた唇の中の、湿りや熱さを交わすと、乱暴に触れられればたやすく傷つく粘膜を、無防備に任せているのだというその事実に、そこまで相手を許している自分の、心の内を覗き込む。
 それだけのこととして始まったのに、今では互いに慣れ切って、けれど手探り状態なのは相変わらずだ。限られた知識---特に、承太郎は---で、稚拙な真似事を繰り返しながら、それでもわずかずつ上達してゆく。羞恥心が失せたということはなく、ただ、相手を傷つけまいと、それだけに腐心して、ひとりなら必要のない気遣いを、ふたりは実のところ、愉しみ始めてさえいた。
 相手の悦ぶやり方、触れ方、噛み方、抱きしめ方、そんなことをひとつびとつ、注意深く覚えて、自分のものではない皮膚や筋肉や粘膜に、気をつけながら触れる。相手に与えられる気持ちの良さと、自分で見つける気持ちの良さと、それは確実に繋がっていて、そして、悦ぶ相手を感じるのもまた、自分の悦びに繋がるのだと、ひとりでは決してわからない、そんな発見もある。
 今夜は、寝る前に---そうなる、前に---、少し本を読みたくて、花京院は承太郎より先にシャワーを浴びた。
 承太郎といると、日本から大事に携えてきた本---もう、この旅の途中に、何度も読み返しているけれど---を開く時間が、ずいぶんと減る。以前なら、寝る前のひととき、それだけが愉しみのようなその習慣を妨げられるのを、間違いなくひどくいやがっただろうに、今は手も触れない夜もある。
 本を取り上げられて、何の隔てもなく承太郎と向き合うことに、いつのまにかすっかりと慣らされて、本の世界に閉じこもるよりも、したいことがあるということに気づいて、自分で驚いている花京院だった。
 裸でバスルームから出るということは、ひとりの時でも決してしない花京院は、きちんと持ち込んだパジャマを、むやみに広い洗面台から取り上げて、たった今水気を拭ったばかりの、薄いごわごわしたタオルを、ドアのフックに掛けようと、腕を伸ばす。
 ドアに届く一瞬前に、少し強めのノックがあった。
 「入るぞ。」
 声の後に、一拍あって、ドアのノブが回る。
 バスルームで敵のスタンドに襲われる可能性もあるから、鍵は掛けないことになっている。すでに開きかけた薄いドアから、承太郎がちらりと見えた。
 「ちょっと待ってくれよ! すぐに出るからッ!」
 慌ててタオルとパジャマをつかんで、とりあえずは体の前を覆いながら、様子をうかがいながらも、いきなり入ってくるという行動は止めないまま、承太郎がドアを全開にしたのに、花京院は思わずハイエロファントを出しかける。
 「1分くらい待てないのか承太郎。」
 制服の上着を脱いだだけの、まだ着替えてすらいない承太郎が、仏頂面で近づいてくる。
 「待てねえ。」
 表情と同じほど無愛想につぶやいて、ドアは開けたまま、あとずさる花京院の前に来ると、下目に、にらむように見下ろしてくる。
 承太郎のそばをすり抜けて、ここから出て行こうとする前に、承太郎の腕が、花京院を抱きしめた。
 「すぐ出て行くから離してくれよ。」
 承太郎の目的に、薄々感づいていながら、そんなことを言ってもみる。
 珍しく剥き出しになっている厚い肩と太い二の腕と、それから街の埃の匂い、その中に包まれて、ひどく心臓が跳ねるのに戸惑って、花京院は手にしたタオルやパジャマを落とすまいと、まだ悪あがきをしている。
 「・・・暴れるな。」
 まだ濡れている耳を、舐めるような近さでささやかれて、そうしてようやく、承太郎を押し返そうとしていた腕を止めて、花京院は半ば投げやりに承太郎に体を預けると、不機嫌な声音を選んで、
 「どうするつもりだ。」
と承太郎に訊いた。
 承太郎の手が花京院の髪を撫でて、それから首や鎖骨の辺りに触れた。今では、そうなれば自然に開く唇が、ゆっくりと重なる。今は承太郎の唇は少し乾いていて、今日の昼間通った街と、同じ匂いがするような気がする。
 腕に絡んでいたタオルが、足元に落ちた。まだパジャマは、かろうじて花京院の素肌をわずかばかり覆って、けれど承太郎の体温にぬくめられている。
 バスルームの中の、白っぽい不躾けな明るさに、花京院は身を縮めながら、自分だけが裸なことを不満に思って、承太郎の薄いシャツの裾を、ズボンから引きずり出そうとする。けれどその手を承太郎が止めて、花京院を、洗面台の方へ押しつけた。
 そこにある鏡のすぐ上に並んだ電球がまぶしくて、目を細めて、承太郎の目の前にいっそう明らかにされる自分の体を隠そうと、承太郎の胸の中で手足を縮めることもできない。
 こんなところで始める気かと、腰の辺りに当たる洗面台の縁の固さに、ちょっと顔を歪めて、花京院はようやく承太郎から唇を外した。
 「・・・せめて、明かりくらい、消してくれ。」
 全開のドアからは、部屋の明かりが入ってくる。ここの照明を落としたところで、闇で手探り---いつもは、そうだ---ということにはならない。
 承太郎は、自分の強引さを少しばかり恥じている様子で、いつものような憎まれ口も叩かずに、むっつりと押し黙ったまま、ろくに動きもせずに腕だけ伸ばして、ドアの傍の壁にあるスイッチを落とした。
 鏡に、薄闇にまぎれて動く承太郎が映る。それをちらりと眺めてから、また自分の前にまっすぐ立った承太郎から、花京院はわずかに視線をそらした。
 自分だけが裸なことに、まだこだわりながら、それでも、承太郎が、腕に絡んでいたパジャマを奪って、バスタブの近くへ放ったことに異議は唱えず、稚拙だけれどひどく熱っぽい承太郎の接吻に、少しずつ我を忘れてゆく。
 承太郎は、花京院の腕を取って自分の首に回させると、
 「しっかりつかまってろ。」
 短く言ってから、花京院を床から抱き上げて、洗面台の上に坐らせた。
 ごく自然に、開いた脚の間に承太郎を抱き込む形に、そうして花京院は、持ち上げた膝で承太郎の腿の裏を探る、そんな自分の仕草に、ひどく驚いていた。
 承太郎の手も、自然に花京院の腿の内側に触れて、もっと大きく脚を開かせるような動きをしながら、そして承太郎が、不意に体の位置を落とす。
 目の前から承太郎が消えて、床に膝をついたのだと気がついた時には、下腹のきわどい位置に、承太郎の唇が触れていた。
 驚いて、うっかり上げた声が、バスルームの中に軽く反響する。反射的にあとずさろうとして、まだ残る湯気に湿った、けれどもう冷たい鏡に、肩と背中が触れた。
 二の腕に浮いた粟とは対照的に、承太郎の掌が触れている腿の辺りが熱くて、脚を閉じようとする動きは、承太郎の肩に封じられて、それから、思わぬところ ---けれど、可能性がないわけではないと、知っているところ---に承太郎の唇が近づいて、そうして、さっきまで自分の口の中にあった承太郎の舌に、取り込まれていた。
 体温が、急に上がる。
 そこから熱を吹き込まれているように、心臓が痛いほど鳴って、どこか一点にだけ血液を送り込むためか、激しく活動を始める。
 もがいて、かかとが、承太郎の背中を蹴った。
 「・・・噛みたくねえから、暴れるな。」
 そう言い捨てて、また元の位置に顔を埋める。力のこもった掌が、花京院の脚を、いっそう大きく開かせた。
 承太郎と、止めるために、咎めるように、繰り返し名前を呼ぶ声が、そうとは響かずに、ひどく甘くかすれる。
 親密に唇を交わす時と同じように、そこで承太郎の舌が動いていた。それを実際に見下ろす勇気はなく、花京院は顔を背けて、声を殺すために、自分の手に歯を立てた。
 生暖かくて、承太郎の舌は濡れていて、自分の舌で探る時よりももっと深く、承太郎の喉の粘膜に、張りつめた皮膚が触れる。承太郎が顔を動かすたびに中で滑るのは、もう唾液だけのせいではないのだろう。
 よく似た感触に、憶えがあった。けれど今は、その時よりもずっと、躯の奥深くがひどくうずいている。
 承太郎の硬い手指が、ぬるぬると滑るそれを扱う、短い時にだけ、花京院は我に返って、少しだけ長く息を吸い込むと、そこで今果ててしまわないように、必死で自分を引き止める。
 あの色鮮やかな、やけにふっくらとした唇が、そんなところにあると思うだけで、勝手に突っ走りそうになるけれど、それだけはいやだと、花京院はいつのまにか、承太郎の肩に指先を食い込ませていた。
 「やめろ、承太郎、離せ・・・離せ、じょう、たろうッ!」
 少なくとも、不躾けな明かりがないことを、心の底からありがたく思いながら、花京院はようやく承太郎を引き剥がすと、慌てて両脚を洗面台の上に引き上げて、そこで体を縮めた。
 まだ床に膝をついたままの承太郎が、まるでお預けを食らった犬のように、そこから花京院を見上げていて、おそらく意味はなかったのだろうけれど、濡れている唇を、舌先で舐めた動きに、花京院はまた躯をうずかせていた。
 承太郎がゆっくりと体を持ち上げて、赤い唇を少しだけとがらせて、花京院の前に立った。
 「・・・いやか。」
 すねているような、とても悲しんでいるような、こちらの罪悪感をかき立てずにはおかない声で、それをひどくずるいと思いながら、花京院は、承太郎を勘違いで傷つけないために、素直な感想を口にする。
 「・・・いやじゃない。」
 目の前にある、今は少し端の下がった承太郎の唇を正視できずに、花京院は消え入りたい気分で、視線を伏せた。
 「でも、ここでは、いやだ。」
 承太郎の手が、頬に伸びてくる。引き寄せられて、耳のそばで、声が聞こえた。
 「・・・あっちで、もっとするか。」
 今度は穏やかに、確かに花京院の意向を確かめる訊き方で、その響きやけに心地良くて、花京院は手足を伸ばすと、脚の間に承太郎を近づけて、そっと抱いた。首筋に額をすりつけてから、そこでうなずいた。
 「その前に、シャワー浴びてくれよ。埃くさいのは真っ平だ。」
 わざと邪険に承太郎の胸を押して、その場の雰囲気をぶち壊すように、花京院はつっけんどんに言って、洗面台を下りようとする。照れ隠しだと、どうせばれているにせよ、上気したままの顔を見られたくなくて、床を這うように体の位置を下げて、放り出されたままのタオルとパジャマを素早く拾い上げた。
 とりあえず体を覆って、そのままバスルームを出ようとした花京院を、承太郎が引き止める。
 「一緒に浴びるか。」
 ふざけているわけでも、冗談を言っているわけでもなく、奇妙に真剣な承太郎の表情に、一瞬もっと欲情しかけて、赤くなった顔を伏せる間もない。慌てて首を振ると、残念そうに、承太郎が目を細める。
 「・・・今度。」
 「今度?」
 「今度。」
 承太郎を慰めるつもりではなく、ほんとうにそう思って、承太郎が子どものように口移しにしてから、ようやく意味を取ったのか、すうっと頬に血の色を上げる。
 ふたりとも、同じほど互いを欲しがっているのだと、それを同時に悟って、そのことに安堵したように、暴走しかけていた熱が、穏やかさを取り戻す。
 そうか、とつぶやいて、承太郎が、少しばかり名残り惜しげに、花京院の手を離した。
 ようやくバスルームを後にして、閉めたドアの向こうから水音が聞こえ始めるまで、花京院はそこから動かなかった。


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