The Needle Lies A 何度も、後をつけられていないかと後ろを振り返りながら、ふたりは走るように歩き続けた。 人通りの多い辺りを選んで、うつむき気味に、誰とも目を合わせずに、承太郎のわずかに後を、花京院がついて来る。 神父服が目立つのは仕方ないけれど、夜の街を、売春婦や浮浪者たちの世話をするためにうろついている教会の人間たちがいないわけでもなかったから、それ ほど花京院の姿が目を引くわけではない。 それでも承太郎は、なるべく見知らぬ辺りを歩いた。馴染みのない場所、けれど自分がいつもうろつく辺りから、それほどは離れてはいない辺り。薬をやめる と心に決めておきながら、顔見知りの売人のたむろう場所から、完全に離れてしまう勇気がない。 ふたりの足音が、ばらばらと舗道を蹴る。 高速沿いへ迷い込んで、そこから少し戻ったところに、モーテルを見つけた。 看板の下の空室有の文字が、ふたつばかり消えたままになっている。ちょうどいい寂れ具合だと、2階建ての、外へ向いて並んだドアをすっと流し見て、承太 郎は花京院を振り返る。 街の外から来る人間や、売春婦たちを相手にしているのだろうか。そう思った時に、少し先に、毒々しい看板があるのが目に入り、ストリップ・バーが2軒、 肩を並べているらしいのが見えた。 どうやらここは、あそこで働く女たちのための場所でもあるようだった。 ああいう仕事には、薬がつきものだ。あそこへ行けば、馴染みでなくても薬を売ってくれる人間のひとりやふたりは、すぐに見つかるだろう。そのことに安堵 して、そして安堵した自分に心の中で舌打ちして、承太郎は花京院を促した。 駐車場には車が2、3台、明かりが見えるのはひと部屋だけ、できれば2階がいいと思いながら、事務所へ向かう。 「・・・ここで待ってろ、どこにも行くな。」 神父服は覚えられやすいし、顔の傷もまだ残っているから、花京院はなるべく姿を見せない方がいいだろうと思って、道路からは見えない陰を指差して、承太 郎は花京院を残し、ひとりで中へ入った。 カウンターの奥の机に坐って、小さなテレビを見ている初老の、化粧の濃い女が、ぶ厚い眼鏡の奥から、じろりと承太郎を見やった。 こんな場所だ、ヤク中や犯罪者まがいの連中は見慣れているだろう。女の視線にたじろぐこともせず、承太郎は彼女を見つめ返して、部屋を、と愛想もなく言 う。 「ひとり?」 「ふたりだ。ベッドはひとつでいい。」 「いつまで?」 訊かれて、とっさに答えられず、明日の予定を思い出している振りで、ひと晩でいくらかと尋ねて、時間を稼ぐ。幸い、女が伝えたのは、見た目の通りの値段 だったから、 「4日だな。」 と、深くは考えずに決めた。 女が差し出して来た紙に、でたらめな名前と住所を書く。電話番号は、わざと見落とした振りをした。 金を出しながら、2階の端の方がいいと言うと、女は無言で、どうやら希望に添ったらしい部屋の鍵を、釣りと一緒に手渡してくれる。 事務所を出て、また周囲を見ながら、花京院がいる方へゆく。自分で自分を抱くようにして、寒さに肩を縮め、花京院がそこで待っていた。 「行くぞ。」 鍵を見せると、うなずくでもなく、おとなしく承太郎について来る。教会を出てから、ほとんど口も利いていない。 部屋の中は思ったよりもこざっぱりとしていて、クイーンサイズのベッドがひとつきりのせいか、部屋は広く見えた。 鏡のついたチェスト、小さな机、3人掛けのソファにコーヒーテーブル、居心地は悪くはなさそうだった。 承太郎は、上着を脱いで、ソファの上に放った。それから、ベッドの端に腰を下ろし、開いた膝の間に頭を垂れ、ひどく重いため息を吐き出した。 花京院はそこに立ったまま、そんな承太郎を見ている。 「・・・疲れたか。」 顔を上げずに訊くと、いや、と短い返事が返って来る。自分の傍に寄って来ないのは、目の前であの男を殺したからかと、そう思いながら、承太郎は、試すよ うに花京院に向かって腕を伸ばす。 「来い。」 何を言えばいいのかわからない。ほんの数時間前だ。スポーツ・マックスを撃ち殺して、花京院を連れて教会から逃げ出した。プッチは今頃DIOに連絡を 取って、ふたりを探し始めているだろうか。あるいは、警察が動き始めたか。 あれこれ、頭の中でまとまらない考えに落ち着かない承太郎の手を、花京院がやっと取る。 花京院のその手を握り、承太郎は、冷たい指先を、両手でくるみ込むように撫でた。自分を見下ろす花京院を見上げて、どす黒い殺意が消えてしまった今、奇 妙に空ろな心の中に、花京院の哀しそうな姿ばかりが入り込んで来る。 あそこから花京院を連れ出せば、今までに起こったことなど、自分がしでかしたことなど、すぐに忘れてしまえると思ったのに、まだ気分は晴れない。空っぽ のくせに、鉛を飲み込んだように、重い。 花京院の指先に、そっと口づけた。 「今なら、まだ戻れるぜ。」 承太郎の手を握り返してから、するりと手を外すと、承太郎の首に両腕を巻きつけて、耳元で花京院が言う。 「・・・どこに戻るんだ、一体。」 また少し冷たい手が、承太郎の額と頬を撫でた。あやすようなその仕草に、承太郎は思わず目を閉じて、花京院の胸に顔を埋め、その腰を、自分の方へ抱き寄 せる。 「君の行くところが、僕の行くところだ、承太郎。」 うれしそうではなく、晴れやかにでもなく、感情のない平坦な声が、重い。完全に本心なのかどうか、読み切れずに、そうであって欲しいと願いながら、承太 郎は花京院の胸の中で、深く息を吸い込んだ。 少なくとも自分を抱き返してくれる花京院の腕に安心して、自分のしたことは間違いではなかったのだと、自分に言い聞かせる。これからどうするのか、何も 決めていない。どこかへ逃げて隠れて、ほとぼりの冷めるのを待つしかない。確かではない話は、口にすれば実現しそうにない気がして、承太郎は口をつぐん だ。 花京院が、承太郎の頭を撫でて、そして、乱れた髪に口づける。その優しい仕草に励まされたように顔を上げ、承太郎は、真っ直ぐに喉を伸ばして、花京院を 見上げた。 「承太郎・・・。」 細い声で、ひどく穏やかに、花京院が呼んだ。今は思い煩うのをやめようと、そう言っているように、聞こえた。 常に何かに囚われて生きて来たふたりは、ようやくすべてを振り払って、自由になれたのだ。与えられた、繋がれた鎖の長さ分の自由ではなく、どこへ飛び立 とうと勝手だという、ほんものの自由だ。それを今はただ受け入れて、喜ぼうと、花京院の瞳が、突然のその自由に戸惑いながらも、承太郎に語り掛けている。 承太郎の頬を両手で包んで、花京院が唇を落として来る。触れたその唇を、まだかさぶたのままの場所を避けて、承太郎はそっと噛んだ。 誰もいない。何もない。帰らなければならない場所もない。時間を気にする必要もない。ほんとうにふたりは、ふたりきりだった。 花京院の首の後ろに手を添え、自分から離れないように、しっかりと引き寄せる。そうしながら、体をねじって、自分の下に敷き込みながら、花京院をベッド に倒した。 腰に腕を回し、体を引き上げて、ベッドの中央に一緒重なるように、位置を整える。それから、互いの頭を引き寄せて、呼吸を奪い合うように、唇を重ねては 離すことを繰り返す。 「・・・痛いッ!」 不意に、花京院がつぶやいて、自分の上に乗っていた承太郎の胸を押した。 どこか、傷めているところに触れてしまったかと、承太郎は慌てて体を起こす。 「・・・どこだ?」 まだ痕の残っている顔の傷の周囲を、指先で触れながら、訊いた。 「違う、君じゃない。ちょっと待ってくれ。」 承太郎の下から抜け出しながら、花京院が体の前をかばうように、左腕で自分の肩を抱いて、ベッドから降りようと足をそちらへ向ける。そのまま立ち上がる 花京院の腕を、承太郎は思わずつかんだ。 「おい、どこへ行く気だ。」 「どこにも行かない。バスルームに行くだけだ。」 声に焦りがにじんでいたから、何だと思って、その腕を自分の方へ、強く引き返した。 また自分の下へ敷き込もうとすると、存外必死で抵抗して来る。しばらくベッドの端でもみ合った後、馬乗りになり、両手をシーツに縫いつけた形にすると、 花京院は観念したように、横を向いたまま、ぼそりと言った。 「・・・まだ、着けたままなんだ。」 言われて、片手だけ放して、承太郎は、花京院の胸にそっと触れた。指先で探れば、確かに感触がある。強く触れると、花京院が唇を噛んで、喉を反らした。 「急いでいたから、外す時間が惜しかったんだ。頼むから、先に取らせてくれ。」 明らかにそれを愧じている様子で、承太郎を斜めに見て、花京院が早口に言う。慙愧に堪えないとでも言いたげなその表情に、ふと意地の悪い気持ちが湧く。 あるいは、もっと率直に、承太郎は花京院に対して、所有欲を感じていた。 花京院が欲しかった。自分だけのものにしたかった。だから、スポーツ・マックスを殺して、花京院を連れ出した。そうして今、花京院は、まだあの男が残し たしるしを着けたままでいる。血まみれで痙攣していたあの男の躯に、未練がましく張りついていたあれが、花京院の体液に汚れていたことを思い出して、また 怒りが湧く。 あの男の痕跡を消すのは、自分の手でやるべきだと思いながら、花京院のもう片方の手を放した。 「おれが取ってやる。」 花京院が、慌てて首を振る。怯えが、眉の間に浮かんだ。 「おれに外させろ。そしたらもう、てめーは全部誰の持ち物でもなくなる。」 おれのものだと、言葉の外に含ませて、自分が今、ひどく思いつめた表情をしているのだと気づかずに、承太郎は花京院を見据えていた。 肩から垂れ、シーツに落ちている十字架も、同じように目障りだけれど、それはまだ後でもいい。 承太郎から視線を外し、また横を向いて、花京院はのろのろと上着の前を開き始めた。 手探りでもたついたのを、手を伸ばして助け、シャツのボタンは、承太郎が外した。花京院は、腕を投げ出して、動かない。 鎖もまだ、そこに繋がったままだった。神父服と十字架と一緒に見れば、異様な眺めだった。 それを、なるべく表情には出さず、承太郎は、そっと花京院の剥き出しの胸に指を伸ばした。 歯型が残っているのが見える。そこは見ないように、自分の指先だけに集中する。下腹へ下がっている鎖を、胸に渡った鎖からまず外し、それから、胸に着け られたピアスを外しに掛かった。掌の下で、鎖が動く。花京院の肌の色の上で、淡い影が、隠微に揺れる。ひとつ目を外す間、花京院は息を止めていた。 案外と細いその輪は、ちょっと力を入れれば歪んでしまいそうで、いっそ壊してしまおうかと思ったけれど、それでも、花京院の体に着いていたものだと思え ば、奇妙な愛しさも湧いたから、承太郎は自分が思うよりも丁寧な仕草で、ふたつ目に取り掛かった。 輪を外すために広げる時に、そこが痛むのか、息を止めた花京院が、喉を上下させるのが見える。そこに、噛み跡がないことをありがたく思いながら、自分の 噛み跡を残したいと、ふと思った。 ズボンに手を掛けると、途端に花京院が肩を持ち上げて、承太郎の手を止めようとする。 「動くな。」 手を払い、有無を言わせずに、鎖の消えているそこを開いた。 鎖に引っ張られて、違う形に収まっていたそれが、やっと息をつけたとでも言うように、ずり下げた下着の中から現れる。重さに引かれて、鎖が承太郎の手元 に垂れて来た。 それを着けたままのそこを、間近に眺められるのが耐えられないらしく、花京院は目の上に腕をかぶせ、完全に視線を遮断している。喉の辺りが赤く染まっ て、かすかに震えていた。 それも、できるだけそっと、痛めないように、静かに外した。外していると、触れている指の動きに---あるいは、承太郎の視線に---反応したのか、敏 感な皮膚を張りつめて、少しずつ勃ち上がって来る。承太郎が終わったら、すぐにでもその躯を隠そうとするつもりか、花京院の手が、上着の裾を握っている。 外し終わったピアスを、鎖はまだ取らずに、ベッドのどこかへ放って、承太郎は花京院の脚を抱え込んだ。 床に滑り降りながら、花京院の脚の間に肩を割り込ませ、花京院が体を起こして逃げるより一瞬早く、それを、唇の中に誘い込む。 「承太郎、やめろッ!」 馴れ合いも冗談も、ひとかけらもない声で、花京院が叫んだ。 「まだ汚れたままなんだ!」 スポーツ・マックスに、明け渡したそのままだ。せめて、何もかも洗い流してから触れて欲しいと、承太郎の頭を押し返そうとしながら、花京院はかすれた声 で続ける。承太郎は一向に動じる様子もなく、花京院の両脚を抱え込んだまま、もっと奥へ、舌先で誘った。 背を浮かせ、体をねじって、耐えようとする。足がもがいて、承太郎の肩や背中を蹴った。構わずに承太郎は、舌を使った。 口の中に返る反応で、大して時間が掛からないだろうことがわかる。舌の上に憩わせようとしても、跳ね上がるばかりで、喉の奥を打って来る。 そう言えば、聖書では自分で触れることさえ許されていなかったかと、そんなことを思い出しながら、あるいは、あの男が、そう命令していたのかもしれない と思って、少しだけ強く、舌を当てた。 ピアスを取り去った穴に、舌先をねじ込むと、そのたびに腰が揺れて、短い声が漏れた。 あまり深くは飲み込めない承太郎のやり方では、少しばかり物足りないのか、今では逃げるためではなく、もっと承太郎に近寄るために、花京院の躯が動く。 噛み殺しているはずの声は、波打ったシーツに吸い込まれるより先に、天井に向かって響いていた。 動けば動くほど、はだけた服が乱れてゆく。いつの間にか、肩が片方だけ剥き出しになりかけて、赤黒い歯型が、ちらりと顔を覗かせている。それが消えるの に、一体どれくらいかかるのだろうと、上目遣いに思って、承太郎はまた舌を動かすのに集中する。 もう、花京院が逃げようとはしないとわかると、抱えていた脚から腕を外して、手を伸ばして、少しばかりあらわになった腹の辺りへ触れた。 承太郎が顔を動かすたびに、腹筋が浮き出るのがわかる。まだボタンはとまったままのシャツの中ほどから、もっと上へ指先をもぐり込ませた。触れる部分が 多くなればなるほど、花京院が自分の口の中へ入れている指の数が増える。声を殺すために歯の立った部分が、白くなっていた。 ベッドから、背中が完全に浮き上がって、一度音を立ててベッドの上に体を戻した後で、花京院が、勢いをつけて起き上がって来る。頬も首筋も真っ赤に染め て、額に汗が浮いているのが、はっきりと見えた。 承太郎、と叫ぶように呼んで、自分の両脚の間に顔を埋めている承太郎の首に、そっと両手を掛ける。引き寄せるようではなく、引き剥がす気配もなく、ただ そこに指先を重ねて、足を承太郎の背にこすりつけるようにしながら、躯を丸めて耐えているように見えた。 花京院の指先が、熱い。 背中で交差した足首がほどけて、そして花京院の手が、承太郎の肩を押し返そうとした。 「承太郎ッ!」 今度こそ、声はかすれていたけれどはっきりと叫んで、離れようとする花京院を許さずに、承太郎はできる精一杯で深く、花京院を喉の奥に飲み込んだ。 喉を打つ熱さと、舌の上で起こるかすかな痙攣と、慄える花京院の全身を、すべて唇の中で受け止めて、承太郎はためらいもなく、何もかも飲み下した。最初 からそのつもりだったから、終わってしまった後は、ことさら丁寧に、拭うように舌を使って、もう少しの間、花京院を放さない。 承太郎から、上半身だけ離れて、花京院は、どさりとベッドにまた横たわった。揺れるベッドに合わせて息をついて、立てた片膝で、できるだけ躯を隠そうと してみる。 少しべたつく唇を、手の甲で拭って、承太郎は、力の抜けた花京院の脚を撫でる。花京院は体をねじり、服を整えることはせずに、上着の裾で自分の躯を覆っ た。 もっと馴染んだ、慣れた間柄なら、冗談でありがとうと、そんなことも言ってしまえるのだろう。そんなことは、もちろん考えつくこともできず、花京院はた だ羞恥に体を縮めている。 歯型や、銀の輪や鎖だけではなくて、まだ全身に、スポーツ・マックスの気配が残っている。触れられて、濡らされて、汚された躯だ。洗い流す間さえ与えず に、承太郎が触れてしまった。承太郎も汚れてしまったと、悔しさに、花京院は唇を噛んだ。 承太郎は、花京院の屈託に頓着する様子はなく、ただ黙って花京院の足をゆっくりと撫で続け、それから、まるで詫びるよう---あるいは、気遣うよう-- -に、花京院の靴を脱がせ始めた。 果ててしまった後の空ろな気分と、突然起こったことへの疲れと、花京院は指すら動かすのも億劫で、もう承太郎の手には一切逆らわない。承太郎の手を助け るように、爪先を浮かせ、足の位置を変え、けれど顔は横へ向けたまま、承太郎を見ない。 奇妙に優しい、静かな仕草で、承太郎が脱がせた靴をベッドの下へ揃えて置き、それから靴下も脱がせ、無造作にそれを床に放った後で、脱げかけているズボ ンと下着に手を掛ける。 さすがに、それには、花京院の手が伸びて来る。 「・・・脱がすだけだ。」 何のために、と訊くのも馬鹿らしく、花京院は手を引っ込めて、また体を縮めた。 あらわになる肌の上に、噛まれた痕が増え、もう薄黄色くなっているものもあれば、青紫になりかかったものもあった。顔の傷は、そう言えばややましになっ ているけれど、右目の痣はまだ色が濃く、唇のかさぶたも、周囲がやや赤らんで、痛々しいのは相変わらずだ。 けれど少なくとも、こんな傷が増えることは、もうない。消えてしまえば、もうそれっきりだ。 頑なに手足を体に引き寄せている花京院をなだめるように、承太郎は、ぶ厚い掌で、あらわになる皮膚を優しく撫でながら、同じように優しい手つきで、花京 院の服を脱がして行った。 上着の袖を抜くのに、肩を引き寄せてベッドの上に抱き起こすと、そのまま、呼吸ふたつ分の間、花京院を抱きしめた。抱きしめたまま、上着を肩から落とし て、腕を抜いた。体を離して、シャツのボタンを、時間を掛けてひとつびとつ全部外し、開いた襟から両手を差し入れて、背中の方へ落とす。乱れたベッドの上 に、脱がせた服が散らばっている。その上に、傷だらけの全裸の花京院が、ひどく痛々しく見えた。 最後に、両手で、耳や髪に引っ掛けないように注意しながら、十字架を取り上げる。前髪が持ち上がり、はらりと落ちる隙に、あまりあらわになることのない そちら側の瞳と両方揃って、花京院が、上目遣いに承太郎をそっと見つめるのが、まるで拾ってくれと必死になっている捨て犬を思わせて、欲情よりも所有欲よ りも、ただいじらしいと思う気持ちが、承太郎の胸を突く。 不意に、少年の頃よく耳にした歌を思い出した。荒削りな、真っ直ぐすぎて、今聞けばきっと照れくさいばかりだろう内容の歌だった。 愛という気持ちだけで抱き合っても、訪れることのないかもしれない明日に怯える心から目をそらして、ただ慰め合うしか術のない、そんな結びつきでも、ふ たりにはそれしか許されていないから、愛だけでは足りないけれど、足りないとわかっているけれど、愛しか持つもののないふたりの、悲しい歌だった。 少年の頃に聞いた時でさえ、あまりに剥き出しなその青臭さに、少しばかり鼻白んだと言うのに、なぜ今、それを思い出して、そこに心を添わせている自分を 感じているのだろう。 愛しかない。愛だけでは足りない。そして、自分たちには、その愛さえないのかもしれないと、承太郎はふと思った。 踏みつけられて、踏みにじられて、おれたちは、同じような人間なのだと思って、だから、魅かれたのだとわかる。肩を寄せ合うように、傷を舐め合うよう に、わずかなぬくもりで慰め合うために、ふたりは出逢って、一緒に行こうと歩き出したけれど、どこへ進むのか、ふたりにもわからない。ただ低いところへ低 いところへ流され続けて来た花京院には、承太郎とともにゆきたいという意志が、ほんとうにあるのかどうかさえ、確かではない。 それでも、信じるしか、承太郎にはできなかった。 愛かもしれない。愛ではないかもしれない。そのどちらでも、承太郎は、幸せになりたいと思った。花京院と一緒に、ひとりでは見つけられなかった幸せを、 ささやかに味わいたいと、泣き出したいほど強く、願った。 何もかも取り去って、残っているのは耳に着けた十字架のピアスだけだったけれど、長い間、十字架を着けた花京院ばかり見て来たせいか、何もない花京院は ひどく無防備に見えて、だから承太郎は、そのピアスには手を触れなかった。 すべてを振り落としてしまうのには、時間が掛かる。先を急がなくてもいいのだと思って、承太郎は、額を触れ合わせたままの花京院の髪を撫でて、それか ら、その手をそのまま背中へ滑らせて、ベッドから抱き上げにかかる。 逆らいはしなかったけれど、戸惑った表情を浮かべて、花京院が、少しだけ肩を後ろに引いた。 「洗ってやる。」 膝の下に腕を差し込むと、やっと素直に腕を首に回して来て、承太郎の胸に頭を寄せる。服を着ている時には、服のかさのせいか、逆に薄く見えるくせに、抱 くと腕の中で嵩張る体だった。しっかりしたひとらしい体の重みに、承太郎はやっと安心を覚えて、花京院の額に頬をこすりつけた。 小さなバスルームのタブの中にそのまま運んで、蛇口からいちばん遠いところに腰を下ろさせると、湯を出し始めた。まだ冷たいままの水に触れないように、 膝を胸に抱える花京院の傍で、承太郎も服を脱ぐ。洗面台の上に置いてある石鹸を取り、床に脱ぎ捨てた服をまたいで、花京院の背中の方へ、爪先を差し入れ た。 湯を溜めることはせず、花京院を膝の間に抱いた姿勢のまま、そこから長い足を伸ばし、シャワーに切り替える。熱い湯の降りかかる下で、背中を胸を合わせ て、ふたり一緒に喉を伸ばした。 小さな石鹸を掌に乗せて、そのまま花京院の肌をこする。泡が立つ間もなく、湯に流されて、それでも構わずに、承太郎はそれを続けた。 自分の胸の中で、されるままの花京院の肩や背中に触れ、胸に触れた時にだけは、痛みをこらえたらしい声が、落ちる湯の音にまぎれて聞こえた。 両手の中で石鹸を泡立てて、その承太郎の手に、まるで子どものいたずらのように、花京院も自分の掌を重ねて来る。 一緒に、浴槽の底に並べて伸ばした足を動かして、爪先同士を触れ合わせながら、流れてゆく湯は、ふたりの肌の間で、溶けた石鹸にぬるついている。 承太郎は、石鹸を持った手を、花京院の脚に伸ばした。立てさせた膝を引き寄せて、もう何もかも目の前に晒した花京院の、腿の間に触れる。洗うつもりで触 れて、けれど両手で包み込むと、その目的は、ふたりともに、半ば忘れ去られてしまう。 胸を反らして、花京院が、承太郎の首に、ねじれた形に腕を巻いた。 もう、思い出したくもない痕跡が、湯に流されてゆく。ふたりは、その湯の流れを、一緒に目で追っていた。湯気のこもったその小さな空間で、視界は白く 濁っていたから、花京院の体の傷もぼやけて見える。痛めないように気をつけながら、目についた噛み跡は全部、承太郎が石鹸でこすった。 花京院を洗いながら、片手はまだ、両脚の間にあった。そんなつもりはなく、ただゆるく触れて、時折花京院が喉の奥で立てる声を、ひそかに愉しんでいるだ けだ。 手の届く範囲は、あらかた洗い終わった頃、承太郎の腕の中で、花京院が体をねじった。後ろに腕を伸ばして、シャワーを止め、それから、承太郎がまだ持っ ていた石鹸を取り上げる。今度は、花京院が承太郎に触れた。 首やあごの下へ、固い石鹸が滑る。その後を、花京院のもう一方の掌が追って、小さな泡を立てる。 肩と腕がすむと、胸と腹に泡を立て、そのまま、花京院は承太郎に抱きついて来た。胸を合わせて、肩を揺する。背中に回した掌は、またそこに石鹸を塗りつ けるのに忙しく、そうしながら、舌先をねじ込むように、承太郎の唇を割り開きに掛かった。 触れた皮膚が、石鹸に滑る。足や腕も、絡み合おうとしながら、ぬるついて、そこにはとどまらない。開いて重なった唇だけが、確かにふたりを繋げていた。 花京院は、奇妙な必死さで承太郎の舌を探り、全身で承太郎に絡みついて来る。ほとんど重なるほどの近さで見る茶色の瞳が、熱っぽく潤んでいるけれど、我 を忘れているくせに、どこか痛々しさを浮かべて、何かに怯えているようでも、何かを悲しんでいるようにも見えた。 触れるすべてをこすり合わせて、互いを洗っている振りをしながら、ぬるつくのは石鹸ではなく、熱くなり過ぎて溶けた皮膚なのだと、ふたりは錯覚したがっ ていた。 唇の中が熱い。唾液に濡れた唇が、こすれて小さな音を立てる。 花京院が持っていたはずの石鹸は、いつの間にか、排水口の近くにぽつんとあった。 やっと、石鹸を洗い流す気になって、承太郎が蛇口の方へ腕を伸ばそうとすると、それを察して、花京院が先に湯を出し始めた。 ふたりを叩く湯が、白っぽく濁って、排水溝に吸い込まれてゆく。その音にまぎれて、また唇を合わせて、花京院が、承太郎に向かって躯を揺すり始める。 上唇だけを触れ合わせて、不意に、花京院が承太郎を呼ぶ。 返事の代わりに、承太郎は、花京院の下唇を噛んだ。 唇と肌がこすれ合うだけでは少し足りず、時折承太郎の腹に当たる花京院のそれが、もう少し先を促している。 こんな狭いところで不自由に触れ合うよりは、さっさとベッドへ戻った方がいいかと思いながら、手足が密着せずにはいられない狭さが、今は何となく好まし く、承太郎は、花京院が無言で求めている場所へ、そっと掌を添わせた。 手を動かし始めると、軽く膝立ちになった花京院が承太郎にしがみついて来て、肩の後ろにあごを乗せてくる。指の動きに合わせて、喉が上下するのが、そこ から伝わって来る。湯のせいで掌の中が濡れた音を立てるのに、承太郎も煽られて、思わず膝で花京院の脚に触れる。 一方的に触れるだけよりも、互いに触れ合っている方が、躯が熱くなる。どこか、骨の近く、躯の奥深くから、今浴びている湯よりも熱く、血が沸き立って来 る。 花京院の耳元で息を吐いて、承太郎は、そこに張りついている濡れた髪を、唇の間に挟んだ。 そこへ触れながら、一緒に、腰や脚にも触れる。そうして、ふと思いついたように、背骨をたどった指先を、もっと下へ滑らせた。 流れ落ちる湯の後を追って、うっかりそうなってしまっただけだという風を装って、触れた。 あ、と花京院が驚いた声を上げて、体を浮かせようとする。承太郎は前に触れていた手を外して、逃がさないように腰に巻いた。 開いてはいない躯、外から開かれるべきではない躯、まるで、見知らぬ他人の家のドアをノックするように、そこに指先を押しつけて、花京院の全身が慄えた のに、承太郎は思わず歯を食い縛る。 撫でただけで、そこの筋肉が動いたのがわかる。そのために、慣らされてしまったという躯だ。こんなところにと、指先に感じる狭さに驚きながら、花京院の 内側の熱さに、直に触れたことのある男たちに、承太郎は氷のように冷えた妬みを感じた。 腕に、花京院の指先が食い込んでいる。唇を噛んで、本気で声を耐えているのが見える。指先に、ほんのわずかその狭さを味あわせただけで、承太郎のみぞお ち辺りに触れている花京院のそれが、びくりと反応した。 どんなものかと、好奇心がないわけではない。そうしてみたいという、欲望もある。熱を伝えることのかなわない、自分の不能の躯では、悦びを表すこともで きなければ、悦びを与えることもできず、それならせめてと思ったけれど、どう扱えばいいのかわからずに、触れたままの指先が、そこでただ迷う。 正しいやり方というものが、こんなことにあるとも思えなかったけれど、花京院を傷つけることだけはしたくなかったから、痛みの反応にだけ神経を集中させ て、承太郎は、ようやく思い切って指先をそこへ沈めた。 途端に、狭さが指先を拒んで来る。花京院が息を止めて、ゆっくりと吐き出す音が、肩の上に聞こえる。承太郎は、それ以上深くはせずに、ほんのわずか、指 を引いた。中が、それに反応する。励まされて、また指を埋めた。 「やめて、くれ・・・。」 息を吐きながら、花京院が言った。水音に消されそうに、小さな声だった。 承太郎は慌てて指を外し、両腕の中に、花京院を引き寄せて、抱いた。 「すまない。」 承太郎を抱き返して、先にそう言ったのは花京院だった。 「・・・悪かった・・・。」 承太郎も、同じことを口にした。 拙い触れ方が、花京院を傷つけてしまった---躯ではなく---のだと自覚して、一体どうしたら、花京院の望むように触れ合うことができるのかと、そう 思ったことが、そのまま口から出た。 「・・・どうしたらいいのか、わからねえ。」 声が、泣きそうに震えている。ほんとうに、何も確かではない自分の無知さと身勝手さに、承太郎は、あらゆることを後悔し始めていた。 「てめーが欲しい、全部欲しい。なのに、どうしたらいいのか、見当もつかねえ。」 うつむいた承太郎の頬に両手を添えて、花京院が正面を向かせた。額を合わせてから、そこで薄く笑い、口づけの直前のように、花京院が目を閉じる。 「僕は、君が好きだ、承太郎。」 わずかに笑いの混じるその声は、けれど、ひどく真摯で、うそや慰めではないと、承太郎にはきちんと伝わる。 「・・・何もしなくていい、僕はもう、とっくに全部君のだ。」 動く花京院の唇が、承太郎の唇に触れる。息が、熱く通う。 「神よりも先に、君に出会いたかった・・・。」 ふたりの頬を流れてゆくのは、今は上から降り注ぐ湯だけではなく、そのことには互いに気づかない振りをして、もう一度だけ、確かめ合うために触れるだけ の口づけを交わす。 水音だけが響く狭い浴槽の中で、手足を折りたたむようにして、欲情が消え去ったその後で、ふたりはまだ抱き合ったままでいた。 |